新潮社

特別な魔法がかかった鏡

河野裕

 村上春樹の書評なんて、書きようがない。これまでもそう思っていたし、『騎士団長殺し』を読んで一層強く感じた。この小説はいわば鏡のようなものだ。しっかりと両目を開いてテキストと向き合ったとき、その奥に見えるのは『騎士団長殺し』という物語ではなく、読者自身の姿だ。
 だから物語について具体的に語ろうとすればするほど、その言葉は物語を外れて読者自身のものにならざるを得ない。これまでの村上春樹作品も同じ傾向を持っていた。だが本作の特徴のひとつは、「鏡としての小説」の構造に丁寧に言及している点ではないかと思う。

 物語の主人公は三六歳の画家だ。肖像画を描くことを生業にしている。才能があり、仕事が丁寧だから評価は高い。とはいえ彼が描く絵は芸術ではない。少なくとも彼自身が芸術だと定義していない。あくまで職業として、生活していく金を稼ぐために、絵描きという技能を差し出している。
 だが物語の冒頭で、彼は妻から別れを告げられる。家庭を失ったことで生活のために絵描きという技能を差し出す、いちばんの理由が取り払われる。極めて自然な流れとして、彼は自分のための絵を描こうと決める。つまり自身の技術を芸術の領域に押し進めようとする。
 創作を柱にした物語を村上春樹が書いたのだから、これは執筆活動の簡単な(飛距離の短い)置き換えだという風に、私の目には映る。おそらく一般的な感覚だろうと思う。そして彼が描き上げる絵は、村上春樹の小説のイメージによく似ている。まず詳細なデッサン(現実)があり、そこに本質を表すためにより適した色(隠喩)を塗り重ねていく。出来上がったものは現実から乖離しているが、その内側には現実が潜んでいる。それを察知する目を持っていれば現実そのものよりも鋭く現実を切り取っているのだとわかる。つまりこれが「鏡としての小説」の構造だ。
 鏡は覗き込んだ者によってその景色を切り替える。テキストにこの機能を与えるのが隠喩の役割だ。隠喩は意図して表現と本質に距離を取る。この距離を読者自身が埋めることを求める。読者が内側に持っている部品を使って距離を埋めていく作業によって、物語に読者の一部が溶け込んでいく。だから同じテキストを読んでも、読者が違えば物語のみえ方も違う。より『騎士団長殺し』に沿って言い換えれば、私たちはメタファーを辿ることができるが、ルートはそれぞれ別物だ。
 もちろん『騎士団長殺し』は「芸術作品の作り方」や「読み解き方」を主題にした小説ではない。これらもひとつの隠喩として描かれる。つまり私たちは「なぜこの物語において絵を描くシーンが必要だったのか」ということについて、それなりの距離を自分たちの内側にあるもので埋めなければならない。この小説には他にも沢山の余白があり、逐一それを私たちの一部で埋めながら読み進めていくことになる。
 こう書くと『騎士団長殺し』がずいぶん面倒な小説のように思えるけれど、無理に頭を捻りながら読む必要はない。ただ文字を追うだけで自然と隠喩は読者の一部を奪っていく。なぜなら私たちは、多少なりとも「物語を理解しよう」という意図を持って小説を読んでいるからだ。その本能的な感情さえあれば、隠喩は自動的に機能する。

 では『騎士団長殺し』は、隠喩によって私たちの一部を奪っていくだけの小説なのか? もちろん、そうではない。私たちはこの物語から「なにか」を受け取ることができる。でもそれがなんなのか、私にはわからない。というか、こちらが差し出したものによって、劇的にその内容が変質する。物語の本質が同じだったとしても、その本質を表現する言葉はまったく別物になっている。『騎士団長殺し』はそうならざるを得ないだけの、巨大な隠喩を抱えている。だから私が読んだ『騎士団長殺し』は、貴方が読んだ『騎士団長殺し』とは別物だ。そして、だから、この小説の書評なんて書きようがない。
 ただひとつだけ言えるのは、『騎士団長殺し』は特別な魔法がかかった鏡だということだ。そこに映るのは確かに私たちだが、それは私たちが無自覚的だった、より本質的な私たちなのかもしれない。優れた肖像画が本人よりも本人らしくみえるように。

(こうの・ゆたか 作家)
波 2017年4月号より

単行本

騎士団長殺し―第1部 顕れるイデア編―

村上春樹/著
発売日 2017年2月24日
1,980円(定価)

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