新潮社

製作日誌「愛蔵版ができるまで」

『街とその不確かな壁』は、著者自身が40年以上封印してきた物語を、時を超えて新たに書下ろした稀有な長編小説です。その豊かな物語世界を、細部まで意匠を凝らして特別に装幀したのが、今回刊行される「愛蔵版」です。
 この「愛蔵版」ができるまでを、振り返ってみたいと思います。

*新潮社の雑誌「波」2023年8月号に、「少しだけ、新潮社特装本の世界を覗いてみた!」と題して、これまで新潮社で作られた愛蔵版(=限定版の特装本)をめぐる記事が掲載されています。

1 豪華本を見に行く

 2022年秋、新しい長編小説の原稿を村上春樹さんから預けられたと同時に、愛蔵版の構想も動き出しました。2023年4月発売の単行本の編集作業が進むなか、編集・製作・販売セクションの社内会議も定期的に開かれ、様々なアイディアを出し合いました。
 2023年2月、編集者と装幀者は村上作品の「海外の特装本」が保管されている村上さんの資料室を訪れ、イギリスで作られた『Killing Commendatore(騎士団長殺し)』や『Kafka on the Shore(海辺のカフカ)』『After Dark(アフターダーク)』『Colorless Tsukuru Tazaki and His Years of Pilgrimage(色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年)』、スペインの『1Q84』など数々の特装本を見ることができました。

イギリスで作られた村上春樹作品の愛蔵版
*以下、発売当時のUKポンドの価格

『騎士団長殺し』2018年(£1000)
『アフターダーク』2007年(£125)
『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』2014年(£750)

2 仕様が決まる

『愛蔵版 街とその不確かな壁』は以下の仕様になっています。

仕様=欧文タイトルと著者名、著者サインを刻印した無垢ブラックウォルナット製ブックケース、特製真鍮プレート付き布装(タイトル、著者名を刻印)、本文判型=菊判(152mm×218mm)、二方アンカット、入り本文紙
本文=10.25p43字×19行組
造本=上製角背、突き付け表紙
特典=著者直筆サイン・直筆シリアルナンバー入り、特製ポストカード入り

 いくつか試作を繰り返し、デザイン案をつくりました。単行本の装幀は黒地にタダジュンさんの銅版画を金で箔押ししたカバーでしたが、愛蔵版は金色の布装が基調になっています。

金色の箔押しでタダジュンさんの銅版画があしらわれた単行本カバーデザイン

 2023年5月、社内で絞り込んだデザイン案を持って、村上さんとの打合せに臨みました。函は木製で無垢のブラックウォルナットを使用、表紙は金色の布装、真鍮板に書名と著者名を刻印して表紙に嵌め込む、見返しに著者直筆サインの入った用紙(タダジュンさんの角笛のカットをあしらっています)を貼り込み、本文は二方アンカット。村上さんと金色の色合いや真鍮板のデザインなども相談しながら、基本の方針が決まりました。
「村上春樹の文学世界」を新たな意匠で表現し、手作りで一冊の美しい本を仕上げること――2023年6月1日の愛蔵版の刊行発表に向けて、装幀者と製作セクションの担当者が資材の調達に動き始めました。

3 製作スタート

 判型は、A5判よりひと回り大きい菊判(左右152mm✕天地218mm)、本文は単行本と同じ組ですが、版面はひとまわり大きく、デザインも少しアレンジしています。
 紙の専門商社「竹尾」の山本博之さんと本文紙・見返しなどの用紙や表紙の布の検討を重ね、本文紙は模様の入った「STカバー」を選びました。

 函と表紙の準備も同時にスタートします。
 装幀者は八方手を尽くし、いくつかの会社に製作を打診しましたが、「愛蔵版」にふさわしい精密で美しい函を作ってくれる会社になかなかたどり着けません。ようやく出会ったのが、渋谷区恵比寿にある白崎ケース店でした。1901年創業の老舗で、宝石箱や装飾品を入れるケースを製作している会社です。製作工房は北海道の旭川にあり、見学に行くことはかないませんでしたが、2023年初夏、“haruki”とサインが刻印された美しい無垢ブラックウォルナット製の試作品が届いた時には、愛蔵版チームの面々は思わずつぶやきました。
「この函だけでも欲しい……」

白崎ケース店の工房での製作の様子

 表紙に嵌め込む真鍮板の製作も、ある会社との幸運な出会いがなければ実現しませんでした。布装の表紙に金属板を嵌め込む装幀は、新潮社でも全集などで経験がありましたが、今回、村上春樹さんに提案したのは、物語の重要な要素にもなっている「卵形」と「金色」というデザインです。
 装幀者は表紙に嵌め込む金属のプレートを求めて取引先への問い合わせやリサーチを繰り返し、ついに野方電機工業にたどり着きます。
 野方電機工業は、「無いものを作る。」を会社のモットーに掲げる精密部品製作の町工場です。西武新宿線野方駅にほど近い工場に出向いた装幀者は、その超レトロな外観に驚きつつ、これまで製作された製品のクオリティに驚き、依頼を即決しました。
 厚さ0.8mmの真鍮板から卵形を切り抜き、手作業で一枚ずつ丁寧に研磨し、題字を刻印した後、仕上げ加工を行ってプレートが完成します。
「素材は無垢の真鍮。村上春樹作品の愛蔵版ということで緊張しましたが、研磨用の治具作りから、レーザー刻印、クリア塗装加工まで、やりがいのある仕事でした」と語る加藤裕輔社長。
 その精密な加工技術は、日本のロケット製造にも使われているそうです。

バイブレーション研磨によるマット加工を施す
野方電機工業の加藤裕輔社長 「300枚を完成させるには様々な工程があります。村上ファンでもある妻と二人で納得するまで手作業で研磨しました」

4 日数をかけた手作業の製本工程

『愛蔵版 街とその不確かな壁』の販売数は、限定300部。製本工程の多くは手作業で行われます。加藤製本の渡邊貴菜さんと沖山純子さんが作った束見本をもとに表紙まわりの装幀が進んでいくなか、本文の製本作業も進んでいました。
 2024年1月、製本作業が始まると聞いて、編集・装幀・製作の担当者が工場に向かいました。新宿区にある加藤製本は新潮社から歩いて行けるところにあります。
 ちょうど、芥川賞・直木賞の受賞作が発表された直後で、製本機がフル稼働するなか、同社の飯塚隆さんに案内され、工場の一角で始まった工程に立ち会いました(写真1参照)
 8頁ひとまとまりになったもの(「折」と言います)を最後の折(657~664頁)から1折(1~8頁)まで、手作業で一折ずつ、素早く丁寧に重ねていきます。浅岡奈緒さんと工藤陽平さんが正確かつリズミカルに手を動かし、常田喜一さんと菊池通子さんが背を揃えながら検品していきます。呼吸の合ったその作業に、しばし見入ってしまいました。
 製本の工程は、この段階からさらにいくつもあり、表紙に布や見返しが丁寧に貼り付けられ、一冊の本の形になっていきます。今回は、より美しく開きやすい造本にするため、表紙の背側に溝がない「突き付け表紙」(写真7参照)を採用しているのも特徴です。

加藤製本での製本作業の様子(写真1~7)

1 機械を使わず一折ずつ手作業で重ねていく
半円形の作業台には緊張感がただよっていた
2
3
4
5
6 糊付けの工程
7 表紙には真鍮板を貼る場所が卵形に空押しされている

 じつは村上春樹さんは単行本『海辺のカフカ』刊行半年後の2003年春、安西水丸画伯と加藤製本の工場を見学に訪れています。刊行後に、特設サイトで行われた村上さんと読者とのメールのやりとりを収録した単行本『少年カフカ』(2003年6月刊)に、「加藤製本見学記」としてカラーイラスト入りで掲載されています。

村上春樹さんの見学風景(2003年) 絵・安西水丸
イラスト内の「加藤専務」は現社長の加藤隆之さん

5 万年筆を携えて、村上春樹さんがやって来た

直筆サインは300枚
村上さんは持参した万年筆で何度も試し書きを繰り返した
準備にきちんと時間をかけるところが村上春樹さんらしい

 2024年1月12日、村上さんの誕生日でもあるこの日、新潮社本館2階の一室で愛蔵版の見返しに貼り込まれる用紙にサインしてもらうことになりました。
 愛用の万年筆を取り出し、いよいよサイン開始。
 タダジュンさんの描いた角笛の銅版画をあしらった用紙に、一枚一枚、ブルーのインクでサインをしていきます。シリアルナンバーも村上さんの直筆!
 約2時間、コーヒーブレイク(ドーナツも)をはさみ、指先に青いインクの染みを付けながら真剣にサインを書き続けます。ふと、1980年代の手書き原稿の時代、村上さんは夜明け前の書斎でこんな風にこの万年筆で小説を書いていたのだろうか、と想像を巡らせました。

 万年筆で書かれた「春樹」の二文字とシリアルナンバー……書き終えたサインが広い机の上に並べられていきます。
 旭川でブラックウォルナットの木製ケースが組み立てられ、本の表紙に金色の布が貼られ、真鍮板が嵌め込まれ、製本作業が進んでいます。そして、サイン入りの用紙が見返しに貼られ、ケースに収めて完成となります。まだまだ細部の工程が残っていますが、最後の仕上げをして、2024年5月にみなさまのもとにお届けする予定です。

 ブラックウォルナットの函と金色の表紙に触れ、頁をめくる音に耳を澄ませて、時を超えて書かれた村上春樹の世界へ――。
 丹精込めて製作した美しい「愛蔵版」で、『街とその不確かな壁』の新たな魅力をお楽しみください。

(編集担当・寺島哲也 装幀担当・黒田貴 2024.3.7.)

『愛蔵版 街とその不確かな壁』詳細情報

「新潮ショップ」予約サイト

街とその不確かな壁

村上春樹/著

十七歳と十六歳の夏の夕暮れ……川面を風が静かに吹き抜けていく。彼女の細い指は、私の指に何かをこっそり語りかける。何か大事な、言葉にはできないことを――高い壁と望楼、図書館の暗闇、古い夢、そしてきみの面影。自分の居場所はいったいどこにあるのだろう。村上春樹が長く封印してきた「物語」の扉が、いま開かれる。

2,970円(税込)
感想を送る

村上春樹

村上春樹

ムラカミ・ハルキ

1949(昭和24)年、京都市生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。1979年『風の歌を聴け』(群像新人文学賞)でデビュー。主な長編小説に、『羊をめぐる冒険』(野間文芸新人賞)、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(谷崎潤一郎賞)、『ノルウェイの森』、『国境の南、太陽の西』、『ねじまき鳥クロニクル』(読売文学賞)、『海辺のカフカ』(世界幻想文学大賞、ニューヨーク・タイムズThe 10 Best Books of 2005)、『アフターダーク』、『1Q84』(毎日出版文化賞)、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』、『騎士団長殺し』(第1部 顕れるイデア編、第2部 遷ろうメタファー編)がある。『神の子どもたちはみな踊る』、『東京奇譚集』などの短編小説集、『村上春樹 雑文集』『ポートレイト・イン・ジャズ』等のエッセイ集、『辺境・近境』等の紀行文、カーヴァー、サリンジャー、カポーティ、フィッツジェラルド、マッカラーズの翻訳作品など著書・訳書多数。海外での文学賞受賞も多く、2006年フランツ・カフカ賞、フランク・オコナー国際短編賞、2009年エルサレム賞、スペイン芸術文学勲章、2011年カタルーニャ国際賞、2014年ヴェルト文学賞、2016年ハンス・クリスチャン・アンデルセン文学賞、2022年チノ・デルドゥカ世界賞、2023年スペインのアストゥリアス王女賞(文学)を受賞。

村上春樹 Haruki Murakami 新潮社公式サイト (外部リンク)