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街とその不確かな壁

村上春樹/著

2,970円(税込)

発売日:2023/04/13

  • 書籍
  • 電子書籍あり

魂を揺さぶる村上春樹の〈秘密の場所〉へ――
待望の新作長編1200枚!

十七歳と十六歳の夏の夕暮れ……川面を風が静かに吹き抜けていく。彼女の細い指は、私の指に何かをこっそり語りかける。何か大事な、言葉にはできないことを――高い壁と望楼、図書館の暗闇、古い夢、そしてきみの面影。自分の居場所はいったいどこにあるのだろう。村上春樹が長く封印してきた「物語」の扉が、いま開かれる。

目次
第一部
第二部
第三部

書誌情報

読み仮名 マチトソノフタシカナカベ
装幀 タダジュン/装画、新潮社装幀室/装幀
発行形態 書籍、電子書籍
判型 四六判変型
頁数 672ページ
ISBN 978-4-10-353437-2
C-CODE 0093
ジャンル 文芸作品
定価 2,970円
電子書籍 価格 2,970円
電子書籍 配信開始日 2023/04/13

書評

すぐ近くの異界

角田光代

 小説にはふたつの世界が存在する。ひとつは私たちになじみ深い現実世界だ。生活があり、人間関係がある。そこで生きる十七歳のぼくに、もうひとつの世界の存在を教えてくれるのは、十六歳のガールフレンドである。彼女は、この現実にいる自分はほんものではなく、そのもうひとつの世界、「高い壁に囲まれた街」に暮らしているのがほんものの自分だと言う。そしてあるとき、彼女は忽然と姿を消す。
 四十五歳になった「ぼく」は穴に落ち、気づくとそのもうひとつの世界にいる。そこでは人は影を持たない。時間が存在せず、音楽も映画もなく、図書館には本ではなく古い夢が並んでいて、冬になると街の内外を行き来する単角獣たちは死んでいく。人は夢を見ないし涙を流さない。そして死なない。かつてのガールフレンドは、だから十六歳のまま、その世界で暮らしている。その世界で生きる決意をしたのに、語り手はなぜか現実世界に戻ってしまう。
 第二部には、現実世界に生きる意味を見いだせない(見いだせなかった)人たちが登場する。決意と裏腹に現実に帰された「私」もそうだし、「私」がしたしくなるもと図書館長もそうだった。現実世界のルールから外れている少年も登場する。彼らは現実世界でない場所を求めている。
 壁に囲まれた世界はいかにも不気味で、黄泉の国を思わせるのだが、そこで暮らす自分が「本当のわたし」だというガールフレンドの言葉を信じるならば、プラトンの説くイデア界みたいなものなのかもしれない。そちらが本質であり、現実世界で私たちが目にするものはそれらの影で、私たち自身が仮の姿である。
 あまりに大きな喪失を抱えてしまった場合、人はこちらの世界に生きる意味を見失う。この現実で、心もしくは意識があるかぎり、喪失は埋められない。そのことに耐えられず、生きることを放棄する人もいるけれど、でもたいていの場合、喪失を抱えたままこちら側で生きる。いのちを断つことは、べつの世界にいくことではないと知っているからだ。万が一にもそんな世界があったとして、そこで死者に会えるという保証はない。
 しかし小説の「私」や毎日図書館に通う少年は、死すら超越した、もうひとつの世界があると知っている。描かれるその世界は私にとって魅力的な場所ではないが、彼らはそちらのほうが本当かもしれないとも思っている。でも彼らに選ぶ自由は与えられていない。意志によって行き来はできない。
 では、それ以外では選ぶ自由はあるのだろうかと私はふと考える。現実に戻された「私」が仕事を辞め、福島の山間の図書館で働くのは、選んでそうしているというより、見えざる何かの導きによってそうなっている。だれかと出会う、呪いのような恋に落ちる、だれかを失う、暮らす場所を変える、そのすべて、じつのところ、選べない。私たちが自由意志で選んでいると思いこんでいるものごとは、本当の世界ですでに決定されていることなのかもしれない。興味深いのは、だれによって決められたのかわからない点だ。この小説に神的存在は登場しない。
世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』には、この壁に囲まれた世界の詳細な地図が付いている。その世界にのみこまれまいと、計算士の「私」はいのちからがら地上へと脱出するし、壁のなかで暮らす「僕」も現実世界を選ぶ。しかしこの小説における「街」は、現実世界のすぐ近くにあり、そこから私たちは逃れられない。いや、私たち自身の奥深くに、すでにあるのかもしれない。そしてそこには、私たちが失った多くのものや人が、時間という概念から解放されて存在している。小説に描かれる街は不気味だが、しかしそう思うと、不思議にやすらかな気持ちにもなる。
 この小説の核は1980年に発表された中編小説だとあとがきに書かれていて、私はそのことに驚き続けている。この完璧な壁に囲まれた世界は、作家の内に在り続けている。幾度書いても失われず、年月もそれに手出しができない。この小説を読むということは、確固として存在しているその壁の内側へ、否応なく連れていかれる体験を意味している。帰還できないかもしれなくとも。

(かくた・みつよ 作家)
波 2023年5月号より
単行本刊行時掲載

インタビュー/対談/エッセイ

線がざわざわと動きだす 装画の銅版画をめぐって

タダジュン

 ぼくはいつもきっかけが創造できない。だから絵を描くときの出だしは自分から創造せずに、ストックしているテクスチャーや気になる模様のマチエールを置いてみることからはじまる。絵を描くというよりも、絵を作る気持ちでコラージュするみたいに、積み木をつみ上げて構築していく感じに近いかもしれない。そこに新たなマチエールや線を足しては引いてを繰り返していく。
 そのうちときどき、面白いものが現れたと興奮する。でも、朝起きて見るとぜんぜん違うと頭を抱える……。ちょっと気分を変えて、小説に登場する具体的なモチーフを置いてみる。
 針のない時計台、輝かしい金色の毛に覆われた単角獣、一本の美しい川とそこに架かるアーチ型の石造りの橋、曲がりくねった石畳の通り……。小さな光がなかなか現れてくれない。いったいどこが終わりでどこへ行けば正解に辿り着けるのか、物語の中で迷子になっていつまでも彷徨い続けてるみたいに。心細い気持ちを抱えながら、不安でたまらなくなってくる。

 そんな日々を何日も繰り返して、ふと、ひとつの形を画面に置いてみる。それはドットが密集した壁のような家のような生き物のような不思議で抽象的な形だった。すると突然、妙な魅力が生まれた気がした。
 上手く言えないけれど、それまでの絵はふわふわと画面から不安定に浮いていたのに、その形が置かれた瞬間、そこに根っこが生えたのだ。力強くもあり奇妙なユーモアが見え隠れしてる。
 ようやく掴んだこの奇妙な魅力が逃げてしまわないように、必死で捕まえながらまた積み木をつみ上げていく。この密集したドットに不思議と吸い寄せられるようにして、他の形が自然に向こうから近づいてくる。一つ、また一つ……。最後に女性の姿を中心に置くと、やっと絵に命が生まれた。というか、ずっと足りなかった欠片がようやくあるべき場所にはまった感じがした。
 こうしてぼくは版画の下絵を、金の箔押しになるカバーがどう見えるのか確認するために、何度も白黒を反転させながら描いていった。積み木をつんで、白黒を入れ替える。線をいれて、また積み木をつんで、また白黒を入れ替える。同じ絵なのに反転させると全く違う印象になる。白と黒、表と裏……繰り返される反転作業を続けているうちに、表裏一体の現実と非現実の世界を行き来するこの物語と響き合って、いつのまにか少しずつ今のぼくと混ざり合っていくようだった。どちらが物語の世界でどちらが現実なのだろう……?

 疾走するような制作のなかでだんだん周りが見えなくなって浅い眠りの日々が続いた。
 そのせいで、制作の過程は記憶がぼんやりしていて正確には覚えていない。本当のことを言えば、なんだか自分が作ったような気がしなかった。終わりのない旅に悪戦苦闘していたはずなのにあっさりゴールしたような、気がついたら突然ぽろっと転がり落ちて出てきたような不思議な感覚だった。まるで他の誰かの手を借りて出来上がったみたいに……。『街とその不確かな壁』のために作った銅版画は、イメージがまるで生きていて、膨らんでいくような、詩的な絵にしたかった。その人が見るたびにドローイングの揺れる線がざわざわと動きだして、奇妙な形は意味をもったり、ときには意味を失ったりしながら、印象を変化させてくれる生き物のように。それがぼくが体験したこの物語だったから。版画は作ったその人の気持ちも一緒に刷りあがると思っている。この版画に残った痕跡がどこかで誰かの心をそっと揺らして、小さな入り口の一つになってくれればいいなと思った。

 今、完成したばかりの本を手に取ってそっと撫でてみる。本棚に飾ってゆっくり眺める。吸い込まれるような真っ黒なカバーの中で、絵が金色に反射する。これ自分が描いたのかな? と実感が湧かずにいると、インクで汚れた作業机の上で刷られたあとの銅版が鈍く光っているのが見えた。

(ただ・じゅん 版画家/イラストレーター)
波 2023年5月号より
単行本刊行時掲載

著者プロフィール

村上春樹

ムラカミ・ハルキ

1949年京都生れ。『風の歌を聴け』でデビュー。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』『ねじまき鳥クロニクル』『アフターダーク』『海辺のカフカ』『1Q84』『騎士団長殺し』『街とその不確かな壁』などの長編小説、『神の子どもたちはみな踊る』『東京奇譚集』などの短編小説集がある。『レイモンド・カーヴァー全集』、J.D.サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』『フラニーとズーイ』、トルーマン・カポーティ『ティファニーで朝食を』、ジェフ・ダイヤー『バット・ビューティフル』など訳書多数。

村上春樹 Haruki Murakami 新潮社公式サイト

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