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なぜ早く死にたいか はじめの挨拶ナドというものは、一言も要らないのである。とかくありきたりの挨拶は、時間だけ無駄。座談会でも何でも、司会者が最初に「今日はわざわざご足労かけましてナントカ、カントカ……」と言う。原稿依頼にしても、ご多忙中まことに恐縮ですがなんて書いてくる。そんなに恐縮するなら頼まなければいいのである。 もっとも物書きなんて頼まれなければみんな餓死してしまう。座談会にしろ、この次は新年号ですから、長老方にお集まり頂きましておめでたい話でもなんて持ちかけてくるけれど、長老なんてものは、正月が来るたびに一年ずつ死期に近づくと思って怖がっているから、めでたい話なんて出やしない。うそっぱちの話が関の山だ。 だから、僕は一方的にしゃべり、一方的に書く。読者の方も、憐憫のため息なんか漏らさないで、シーンと静まり返って、できたら呼吸をとめてしまって、ただ静かにページを繰って欲しいです。 まず、僕がなぜ早く死にたいか──。一つには、腰の痛みはずっと前からあったけれども、最近は歯も悪くなって、入れ歯をいかに改良しようとも、何も食べられなくなってきた。 昔、矢代静一さんが、入れ歯をつくるには歯医者さんより技工士さんが一番大切だと言うんで、ほとんど日本一の先生を紹介してもらって、そこでつくってもらったけれど、何故か僕の口とはうまく合わない。 それだけじゃない。その病院の女の先生なんか、歯磨きの方法一つとっても長いことかかって教えてくれた。でも、家に帰ると全部忘れちゃう。 もっとも、家の近くの先生だってそういうことはずっと前に教えてくださったけれど、最後は、僕の不器用さにあきれ果てちゃった。この歯医者さんは、もともといい先生で、あの人がいなかったら僕の歯はおそらくもう一本もなくなってしまってた……。とにかく、いくら親切にされようったって、僕の不器用さには、誰もかなわない。 年をとると、歯が悪くなるということと、足腰が弱るということが、一番つらいということは、体験でつくづくわかる。 僕は、子供の時からあれこれ予想して、それが何だか妙な直感力で大抵当たってしまったけれど、まさか年をとることがこんなにつらく苦しいとは、思わなかった。 もう一つ、つまらないことで当たらなかったのは、子供時代に、上野の科学博物館だか何だかで、初めてテレビの実験があるというから、大人に連れられて見に行った。そうしたら、ほんの小さな画面に女性歌手がちらちらとかすれているだけで、ほとんど見えない。どこで撮影しているんですかと訊くと、隣の部屋だという。だから、テレビというものはダメだなと思ったら、まさかこんなテレビ全盛時代になるとは……。 腰の痛みは、転んだりしたわけではなくて、長い間不自然なうつむきの姿勢をとって執筆していたのが原因らしい。もうあちこちの大学病院から、もぐりの医者から何からいろいろなところへ行ったけれど治らない。その後は、ずっとあきらめて何もしなかった。 最近、近くに整形外科の医院があるとわかったので、そこに通い出した。痛み止めの注射なんていうのは、これは全然効かない。二階に行ってリハビリの腹筋の体操とか、重しをつけて足を上げたりとか、たまにやっていますが、あまり効果はないんです。 医学知識で、少しずつ、弱っている筋肉を復元するのが一番いいということは理解できる。ただ、痛みだけはどうしてもとれない。 で、痛いとかつらいとかは、こらえたら一番いけないのである。恥も外聞もなく痛い痛いと喚くと、少し紛れるからいいんだ。 それで、いつも「痛い! あっ、痛い!」と騒いでいる。けれど、家族は毎日聞いているから誰も気の毒に思ってくれない。揚げ句の果てに、妻なんて、「痛いくらいじゃ、人間死にません!」なんて言うから、つくづく絶望的な毎日なんです。 アマノジャクだから元気が出た この数年、腰痛もひどい上に気力もなく、あとは死期を待つばかりだったんです。 一九九八年、競馬で天皇賞の後、骨折したサイレンススズカが安楽死させられたのを聞いて、「ああ、パパもずっと鬱病で小説も書けないし、生きていても仕方がないから、安楽死させてくれ……」とつぶやいたら、娘から「パパは名馬じゃないから安楽死は駄目。駄馬は死にものぐるいで働かないと」と冷たい返事がかえってきた。 それ以後も、腰痛でつらそうな僕を見て、いつも「お具合、いかがですか?」と言っていた娘が、ある日、いつもと逆手をとって、「パパ、すごくお加減悪そうですねえ。顔色も青ざめていらっしゃるから、ついに身体が蝕まれているんじゃないですか。死期が迫ってきたみたい!」と言ったので、アマノジャクな僕は、突如として少し元気が出たんです。 原稿も書けない上に腰痛でヒーヒー言っている毎日なのに、さらに娘は、「パパは毎日ヒマで、本当に何もしなくていいわねえ」とか、「今の世の中でこんなにヒマな人も珍しい。何もしないからストレスがたまらないでしょう? サラリーマンは本当に大変でストレスでボロボロになっちゃうんだから」と言う。だけど僕だって、ストレスを感じている。 ある日、娘がタクシーに乗ったら、運転手さんが、「お嬢さん、若いね。一体何歳かね」と言ったらしい。娘が「さあ、何歳でしょうか」と聞き返したら、「そうだね、お父さんは六十ぐらいかね」、「いえ、七十をとうに過ぎています」。 「ほう、それじゃあ家で悠々自適だね」、「いえ、まだ働いています」、「それは気の毒だ。働くということは大変なことだ、まして七十過ぎて働くなんて大変なことだから、お父さんを大切にしてあげなさい」と諭してくれたらしい。その話を聞いたから、娘も少しはパパを助けてくれるようになるかと思ったけれど、何の変化もなし。 原因は「武者小路のかぼちゃ」 そもそも娘が僕をからかうようになった始まりは、小学生の時、由香(娘)が武者小路実篤の『友情』を読んで感動したところから始まる。 武者小路さんは色紙とかによくちょっとした絵を描いている。カボチャとか石ころとか。あの石ころにも心があるとかいう話に、娘は感動したらしい。どんな石にも心があることを知った、素晴らしいと、うっとりしていた。 「あんなもの、くだらん。ただの石ころじゃないか」とバカにしたら、「パパは、石にも心があるというのがわからないんだ」と、娘と言い争いになって、何だか、その頃から僕をからかうようになった。 そう言えば、父、茂吉が色紙にカンナの絵を描いてるのを見たことがある。やっぱり武者小路を意識していて、「何、武者の!」とか声を出していた。次に、ジャガイモを描いたらどうやら石ころみたいになってしまったらしく、「やっぱり武者にはかなわないかもしれんな。敵はしょっちゅう描いてやがるからな」なんて、悔しそうに叫んでいた。 それから、武者小路さんは茂吉が寝込んでしまった時に一度見舞いに来られたという話を娘にした。 「ちらっとお顔を見たら、何だか威張っていた。それで、嫌いになったんだ。威張るのは、パパは一番大嫌いだからな」 そしたら、「パパだって威張っている」と言い返されてしまった。 確かに僕だって威張る時もあるけれど、これは非常に子供っぽい。つまり、餓鬼大将がちょっとした丘に登って、お山の大将を気取ってるだけなんだ。 子供っぽいと言っても、子供にももちろん悪いところもある。だから、ドイツ語の形容詞には、キントリッヒとキンディッシュというのがあって、キントリッヒというのはよい子供。キンディッシュは悪い子供。 僕は鬱とか、並みの時はかなりキントリッヒだけど、躁病になるとキンディッシュになっちゃう。 「そういうことをちゃんと自覚しているところが、パパのちょっぴり偉いところだぞ」と、娘に説明したけど、わかってくれない。 躁鬱病とのつきあい方 僕は作家としては大した仕事をしていないけれど、僕が世間のために役立った唯一のことは、なだいなだ君に言わせると、躁鬱病を一般に認知させることに役立ったことだと言われた。昔は患者さんが来て、医者が「躁病です」と診断を告げると、まあ躁病は威張っているから患者さんもあまり心配はしない。でも、鬱病の人にうっかり「あなたは鬱病です」と言ったら、それだけで病状がますます悪化したものだった。 それが僕のおかげで、躁鬱病でも一応社会人として成立しているということを世間の人は知っているから、「鬱病です」と言われても、「ああ、北さんと同じ病ですね」と、かえってほっとするらしい。これだけが僕が世間の人の役に立った唯一のことです。 例えば、鬱病患者が会社を休んでずっと出てこないから同僚が心配して見舞いに行って、「案外元気そうじゃないか。顔色もいいじゃないか、そろそろ会社へ出ろよ、みんな待っているから」なんて励ますと、患者はその一言がそれこそ針のむしろのように感じる。これだけは実体験をしないとわからない。 僕は医者にして患者だから、躁鬱病にかけては、どんな教授よりもよっぽど理解できる。鬱病がひどくなると、最後には自律神経の失調を起こして、呼吸困難に陥る。これは、すさまじいつらさなんです。 |