司馬遼太郎が考えたこと 12
―エッセイ1983.6~1985.1―



   漱石など


 私は、社会的に共有されるという意味での文章を、ここでは成熟度の高い文章(あるいは文体)とよぶことにしている。そういう文章は、多目的工作機械のように、さまざまな主題の表現のための多用性をもつものと思っている。
 幕府瓦解後、文章は社会的に成熟せず、書き手たちの手づくりだった、ということについてすでにのべた。その極端な例として泉鏡花をあげた。右の多用性ということでいえば、鏡花の文章では恋や幻想は表現できても、米ソ問題や日本農業の将来は論じられにくい。―といって鏡花の文学価値はそのことで減じることはない。
 ただその文章が特異すぎ、文章の社会共有化についてのるつぼの中に入れられる(無意識にまねをされる)ことがなく、いまなお孤立している、というだけのことである。従って、これは鏡花論ではない。

 この点、漱石の存在はあざやかすぎるくらいである。かれの文章は、その時代では稀有なほどに多用性に富み、人間に関するすべての事象をその文章で表現することができた。このことは、セザンヌという絵画史上の存在にも適用できる。セザンヌはただ絵を描いたのではなく、絵画を幾何学的に分析して造形理論を展開し、かれの理論を身につけさえすればたれもが絵画を構成することができるという一種の普遍性に達した。これに感動した同時代の後進であるゴーギャンにいたっては、さあ絵を描こう、というとき、“さあ、セザンヌをやろう”と言ったほどだったという。
 漱石の門下やその私淑者にとって、言葉にこそ出さなかったが、文章については“漱石をやろう”という気分だったにちがいない。この意味で、漱石の文章は共有化され、やがて漱石自身とはかかわりなく共有化されてゆく。文章史上、“漱石”におけるような性能をもち、似たような役割をはたしたものとして子規の散文があげられる。むろん鴎外も加えられるべきだが、露伴はすこしちがうかもしれない。
 露伴の文学はもっと再認識されてもいいと私は思っているが、ただ、その文章にかぎっていえば漱石や子規とはちがい、文学の重要な要素の一つである日常の些事や愚痴をのべる性能をもたなかった。むろん、文学としてはむしろそこに露伴の特徴があるといっていいが、しかし、こんにち、社会的に共有化されてしまった文章日本語の場からふりかえってみると、露伴の文章は鏡花のそれとは別趣ながら、成熟への過程に参加する度合がすくなかったような気がする。そのことがこんにち、露伴の日本語を身近でない存在にしているのではないか。
 明治後の文章の歴史を考える上で、丘浅次郎(一八六八~一九四四)は貴重な存在といっていい。かれは漱石や子規とほぼ同年代に大学予備門に在学し、作文と歴史の二科目ができなくて連年落第したため、規定上、退学させられた。無資格であるため、大学(理学部)も選科をえらばざるをえなかった。
 このため、かれは明治の文章教師たちの“規範”を憎悪していた。丘は、動物の形態・分類学者としてすぐれた業績をあげたが、それ以上に進化論の紹介者として、また進化論的な文明批評家として、大正期における印象的な文章活動をした。
 丘の文章は、地理の教科書のように事物を明晰にとり出し、叙述も平易である。たとえば『善と悪』(大正十四年)という高度な倫理学的主題について生物学の立場から展開した文章などは、述べかたが犀利で、論旨が明快なだけでなく、一種ふしぎな憂憤がこめられている。このため読む者は論理のすじをたどるだけでなく、文中の微妙な感情のなかにも快く入ってゆける。
 丘のおもしろさは、大正期にその文章がいくつかの中等学校教科書に名文の例として掲載されていることである。明治十年代の後半に、作文で落第した人物が、大正末年には逆に文章の一規範にされているというところに、歴史を感じさせる。
 丘に『落第と退校』(大正十五年)という文章がある。一部、抜萃する。

私が二年と二学期、予備門にいた間にすこぶる点の悪かった科目は、歴史のほかに漢学と作文とがあった。(中略)私の考えによれば、作文とは自分の言いたいと思うことを、読む人によくわからせるような文章を作る術であるが、私が予備門にいたころ(註・明治十五~十七年)の作文はそのようなものではなかった。むしろなるべく多数の人にわからぬような文章を作る術であった。例えば、金烏が西の山に入ったとか、玉兎が東の海に出たとかというように、謎か、判じ物のような言葉を使うて文をつづり、一番わからぬ文章を書いた者が一番上等の点をもろうたように覚えている。

 丘がこぼすのもむりはなく、旧文章は幕府の瓦解とともにほろんだとはいえ、学校教育の場にひそんで生きつづけていたのである。作文教師の多くは旧幕時代を経た漢学者だったが、かれらは文章というものは中国の典籍か故事などを踏まえて修辞するものだと信じていたため、丘のような文章は、車夫の雑言としかおもえなかったのにちがいない。