新潮文庫


うそうそ
畠中恵

若だんな、生まれて初めて旅に出る! 相変わらずひ弱で、怪我まで負った若だんなを、両親は箱根へ湯治にやることに。ところが道中、頼りの手代たちとはぐれた上に、宿では侍たちにさらわれて、山では天狗に襲撃される災難続き。しかも箱根の山神の怒りが原因らしい奇妙な地震も頻発し――。若だんなは無事に帰れるの? 妖たちも大活躍の「しゃばけ」シリーズ第5弾は、待望の長編です。

ISBN:978-4-10-146125-0 発売日:2008/11/14

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うそうそ


   一 江戸通町

     1


「痛っ……」
 闇の中に、小さな声がした。
 夜の漆黒が全てを包んでいる刻限であった。江戸一番の繁華な道、通町にある廻船問屋兼薬種問屋、長崎屋の離れも黒一面の中にある。
 その中で若だんな一太郎は、おでこを何かにぶつけ、痛さに頭を抱えていた。突然大きく揺さぶられ、驚いて飛び起きたら転んでしまったのだ。
(地震?)
 そうに違いない。かなり大きい。暗い中では立ちあがることも出来ないほどだ。部屋の内がどうなっているかも分からない。寝るとき、有明行灯の明かりは落としてあった。
 とにかく揺れが収まるのを待つしかない。若だんなは布団の上でしばし丸くなっていて……その内ふっと首を傾げた。
(あれ、妙だね)
 こんな揺れにも拘わらず、仁吉と佐助、二人の兄やが部屋に来ないのだ。足音すらしない。
(いつもなら地震だろうが火事だろうが、揺れも火も、ものともせず、真っ先に飛んでくるのに)
 こと若だんなの事となると、二人の兄や達は極太の筋金の入った心配性であった。なのに助けに来ない。おかしいではないか。
(これは本物の地震? それとももしかしたら私は、剣呑な夢を見ているのかしら)
 そういえば、揺れが長すぎる気もする。若だんなは何となく、不可思議な心持ちがしてきていた。
(何か変だね。妙だ。どうして?……)
 その時であった。闇の向こうから湧き出すように、密やかな声が聞こえてきたのだ。
『邪魔だよ……若だんなが……』
 突然呼ばれ、真っ暗闇の中であるにも拘わらず、若だんなは目を見張った。
『あいつがいるのがいけない……長崎屋の若だんなは、居ちゃあいけないんだよ。殺してしまおうか。うん、それがいい……きっと、あいつを殺してしまおう……』
(こ、殺す? 私を?)
 心の臓がどきりと大きく打った。夜着の下で、冷や汗が出る。しかし怪しげな声は、じきに夜に溶けるようにして消えて行った。
(今のは……何だったんだろう)
 声に殺気があった。本当に誰かが若だんなを、殺したいと言っていると感じた。余りに生々しく、夢には思えない。
(どういうことだい?)
 声も出ないでいる内に、また囁きが聞こえてきた。
『一太郎が心配だ。死んでしまうかも。このままでは、じきに……死んでしまうよ』
 先とは違う声だ。ふと、この声は知っている気がした。
(でも誰だかはっきりしない)
 迷う心に重なるように、今度は遠くから泣き声が聞こえてきた。悲しそうな声だ。どうして泣いているのだろう。誰だろうか。
(こちらは……知らない声だ)
 でもこの声には、引きつけられるものがあった。若だんなは、泣いている者を慰めたくなってきたのだ。
(知らない人なのに、どうしてかしら)
 しかし直にその泣き声も途切れだし、静かになっていく。最後に一寸、遠くで微かにけーんと、獣の鳴き声が聞こえた。これは知っている。馴染みのものだった。
(狐の声だよ)
 その後は、しばし静かなままであった。
(これで夜の声は終わったのかな)
 だがここで、また別の声が聞こえてくる。
『欲しい……どうしても要るんだ……。手に入れなくてはならない。あの者が……持っている。長崎屋の若だんなが……』
 若だんなは夜着を胸元に引き寄せた。
(私は殺されるのかい? 居ちゃあいけないということは、長崎屋を離れなきゃあならないのかな? おまけにあの泣き声。不可思議な声だよ。地震もあったし、何となくおちつかない気がしてくるね)
 気がつけば、既に揺れはおさまっていた。とにかく無事であったのだ。だが今に至っても実際何が起こったのか、よく分からない。己が起きているのか、夢見ているのか、声を聞いたのか、ただの幻だったのか、若だんなには判断が付かぬままだった。
(また声が聞こえるかな)
 暫くは身構えて待っていた。だが、あの密やかな声はもう聞こえてこず、今度こそ途切れたままだ。
 黒一面の闇は、その後ひたすらに静かであった。

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