司馬遼太郎『司馬遼太郎が考えたこと』全十五巻(新潮文庫)
波 2005年1月号より

レアメタルの鉱脈

司馬遼太郎『司馬遼太郎が考えたこと』
全十五巻(新潮文庫)

関川夏央


『司馬遼太郎が考えたこと』という大部なエッセイ集を読んで思うことは、著者の「戦闘性」である。口調がはげしいわけではない。控え目で、あくまでも穏やかなのだが、世の「流行」に敢然と異を立てている。
 エッセイの数は、一九六八、九年頃から急増する。司馬遼太郎は四十五、六歳である。エッセイといっても身辺雑記のごときものは極端に少ない。また「私」について語らない。この人は、「私」には生来興味がないのだろう。エッセイの本来の意味「思考の試み」に分類されるべき原稿が多い。
 一九六八年は学生の政治活動が隆盛する年である。その波は同時多発的に北半球先進国を襲い、日本でも沸騰する観があった。
「北清事変をおこした義和団というのは、三派全学連に似ていますね」
 このくだりは「日本史から見た国家」(一九六九年八月、『司馬遼太郎が考えたこと 4』収録)にある。
「三派全学連」といってもいまは理解されないと思う。学生活動家の大きなセクトが当時三つあったからそう呼ばれたのである。外からは違いがよくわからないが、互いに「革命の正義」を譲らず、少しのちには攻撃しあい殺しあうところまで行き着いた。「党派」というものの宿命であろう。
 義和団は拳匪ともいう。自分たちには鉄砲の弾はあたらない、あたっても死なない、と信じていた。清国に在住する夷狄を殺戮しつくそうとして北清事変(一九○○年)を起こした。
 ナショナリズムに殉じたカルトと現代日本の過激派青年はおなじだ、と司馬遼太郎はいうのである。反体制的気分に満ちた当時にあっては、「ものわかりのよさ」を装わないこんな発言には、想像するよりはるかに腰の入った勇気が必要とされた。
 彼は「戦後という時代」を愛した人であった。その意味では戦後民主主義者といえるだろう。ただし、国家の重さから解き放たれた日本人は自由を満喫し、高度経済成長によって有史以来はじめて楽に食べられるようになった、この事実を認めずして「反戦後」もないものだ、といった。
 そしてさらにこうつづけた。
 戦中のデモーニッシュなイデオロギーが去って唐突に軽くなった国家にとまどい、逆に国家のあまりの軽さに不安を感じるという倒錯が青年たちに生じたのではないか。
「三派全学連が大学の窓ガラスを一枚割ってみた。誰も叱りにこない。こんどは百枚割ってみた。やはり誰もこない。教授たちもこれをだまって見ているだけです。そしていかにも教授たちの生命を脅かしそうな様子をみせたときだけ、大学は機動隊を呼ぶ。国家というものがそこまでゆるやかなのです。機動隊がくると、三派諸君ははじめてうれしそうに国家権力が介入してきた、などと叫ぶわけです。国家権力というものは、十九世紀までは、いや第二次大戦のころまではそんなチャチなものではなかった。もっと重苦しく威圧に満ち、じつにまあイヤなものだった。
 つまり三派全学連が敵としているのは、戦前の国家の幻想です。ありもしない国家権力というやつです。そこが彼らの運動の不毛なところですね」(前出「日本史から見た国家」)
 おなじ頃、「アジア的停滞」とか「アジア的専制」といった術語がはやった。大陸アジアにしか適用できないそれらの言葉を、日本の現状分析に不用意に流用し、理屈の小さな鋳型に現実を無理にはめこもうとする「知識人」への不信と軽侮の念は、司馬遼太郎の温顔の奥につのったのだろう。それは、戦争中と理屈を反転しただけの、おなじやり口である。
 司馬遼太郎はすでに一九六八年から、『坂の上の雲』の執筆に着手していた。それは、日露戦争まではたしかに「軽かった国家」日本に関する壮大な物語であった。『坂の上の雲』は一九七二年に完結するのだが、彼は、物語そのものとエッセイ、両方を縦横に駆使しつつ「重たくありすぎた国家」の体験者、すなわち戦中派としての発言を、さりげなく、しかし強靭な意志を秘めて開始したのである。彼の果敢さに、私は最近遅まきながら気づいて感動したのである。
 このエッセイ選集『司馬遼太郎が考えたこと』は、巨大な岩山の表面に露出したレアメタルの鉱脈、そんなふうにいえると思う。


(せきかわ・なつお 作家)

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