波 2006年1月号より

人間たちと歴史との戦いの物語

塩野七生『キリストの勝利―ローマ人の物語XIV―』

齋藤健


 十五年かけて一年一冊ずつ書き続けられている塩野七生氏の大作、「ローマ人の物語」。長い年月をかけて、まるでギリシャ・ローマの彫刻家が一分の隙なく刻み続けるような情熱で書き上げられてきたこの労作が、ついに第十四巻に達した。
 四世紀。滔々と流れるローマのキリスト教化の流れの中で、その力を利用して支配力を強化したコンスタンティヌス大帝亡き後、逆にその力に抗し「ローマ的な」政策を断行した皇帝ユリアヌスを経て、テオドシウス大帝の時代にローマのキリスト教化は完成する。それは、ローマ帝国の事実上の終焉でもあった。
 十四巻目は、まさに時代の転換点において時代を担った主人公達の、生き様の連鎖の物語となった。
 それにしても、何世代もの人々によって織りなされる歴史物語が、長編になればなるほど、かえって詩的な響きを高まらせていくのは一体何故なのか。
「平家物語」ではないが、歴史や時代の流れが、個々人の奮闘努力をむなしくさせるほどに圧倒的で、そこに世の無常を感じるからか。
 キリスト教化の流れの中で、ユリアヌスに本当のところどれだけの選択肢があったのか。流れ込んでくる北方蛮族に対してもっと有効な方策は果たしてあったのだろうか。一隅ではあるが現実の行政の一端を担う身ゆえか、一読後、じっとこのことを考えてしまった。
 そして、「歴史の必然」というものが、やはり存在するのか、というテーマに漂着する。ローマは滅ぶべくして滅んだのか。人の世は、誰が制御しているのか。人間か、それとも、「歴史の必然」か。
 ローマ帝国勃興期、例えば、カエサルやアウグストゥスの時代、塩野氏の筆致を追うと、天才的な人間の徹底した努力というものが歴史を次々と作ってゆく、その生き生きとした姿に感動する。人の世を制御するのは、やはり、人間の力なのだと。
 ところが、衰退期になると、誰がどのように奮闘しようとも押しとどめることができない時の流れというものに万感の思いを感じざるを得ない。ローマの滅亡はやはり「歴史の必然」だったのかと。
 どこかで分水嶺のようなものがあるような気もするが、この答えは、単純ではない。二○○六年発売予定の最終巻を待って、改めて考えてみたい。
 ただ、それでもなお、これまでの十四巻を通して感じることは、時代を背負ったリーダーの価値観と判断と行動というものが、いかに重いか、ということである。
 第十四巻で、塩野氏は問いかける。キリスト教化の流れも、ユリアヌスの在任期間が十九ヶ月ではなく十九年だったとしたら違った展開になっていたかもしれないと。ここに、塩野氏が、本大作を「ローマの物語」ではなく、「ローマ人の物語」とした心を改めて感じる。
 塩野氏は、本巻冒頭の「読者に」で、こう語りかける。
「時代の転換期に生きることになってしまった人でも、選択の自由ならばある。
 流れに乗るか
 流れに逆らうか
 流れから身を引くか」
 歴史が繰り返すものなのかどうか、実のところはわからない。だが、この三つの選択肢を迫られる局面は、時代を超えていつの時代にもある。生身の人間は、この問に全身全霊をあげて答えを出さねばならない。
 そして、そこで熟慮されるのは、「歴史の必然」という無味乾燥なものだけではない。むしろ、個々人の利益であり、美学であり、信念であり、生き様といったミクロの世界が数多く参入してくる。歴史はそのミクロの判断の集積結果である。たとえそれがどんなに長い歴史であったとしても。
 考えてみれば、この「ローマ人の物語」の主人公はほとんど全て皇帝であり、歴史を制御できる立場にあった人間たちである。つまり、「ローマ人の物語」は、歴史を制御できる立場にあった人間たちと歴史との戦いの物語でもあるのである。果たして、勝利したのはどちらだったか。
 塩野氏の物語はあと一巻続く。
(さいとう・たけし 埼玉県副知事)