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購入する 『騎士団長殺し』試し読み 第2回

 その家に越して最初にやったのは、安価な中古車を手に入れることだった。それまで乗っていた車は、少し前に乗りつぶして廃車処分にしていたので、新たに車を購入する必要があった。地方都市では、とりわけ山の上に一人で住んでいるような場合には、日々の買い物をするのに車は必需品になる。小田原市郊外のトヨタの中古車センターに行って、格安のカローラ・ワゴンを見つけた。セールスマンはパウダーブルーと言ったが、病気をしてやつれた人の顔のような色合いの車だった。走行距離はまだ三万六千キロだが、過去に事故歴があるということで大幅な値引きがあった。試乗してみたが、ブレーキとタイヤには問題はなさそうだった。高速道路をひんぱんに利用することもないだろうから、それでじゅうぶんだった。

 家を貸してくれたのは、あままさひこ。彼とは美大でクラスが同じだった。私より二歳年上だが、私にとって数少ない気が合う友人の一人であり、大学を出てからもときどき顔を合わせていた。彼は卒業後は画作をあきらめて広告代理店に就職し、グラフィック・デザインの仕事をしていた。私が妻と別れて一人で家を出て、とりあえず行き場がないことを知り、父親の持ち家が空いているんだが、留守番みたいなかたちで住んでみないかと声をかけてくれたのだ。彼の父親は雨田ともひこという高名な日本画家で、小田原郊外の山中にアトリエを兼ねた家を持ち、夫人をくしてから十年ばかり、そこで気楽な一人暮らしを続けていた。しかし最近になって認知症が進行していることが判明し、高原にある高級養護施設に入ることになり、その家は数ヶ月前から空き家になっていた。

「なにしろ山のてっぺんにぽつんと建っていて、便利な場所とはとても言えないけど、静かなことにかけては百パーセント保証するよ。絵を描くにはまさに理想的な環境だ。気を散らすようなものもまったくないし」と雨田は言った。

 家賃はほとんど名目だけのものだった。

「誰も住んでいないと家が荒れるし、空き巣や火事のことも心配だしな。誰かが定住してくれているだけで、こちらも安心できるんだ。でもまったくただというのでは、おまえも気分的に落ち着かないだろう。そのかわりこちらの都合で、短い通告で出てもらうことになるかもしれない」

 私に異存はなかった。もともと小型車の荷台に積み込める程度の荷物しか所有していない。引っ越してくれといわれれば、翌日にでも引っ越せる。

 私がその家にやってきたのは五月の連休明けだった。家はコテージと呼べそうなこぢんまりとした洋風の平屋建てだったが、一人暮らしには十分な広さがあった。小高い山の上にあり、まわりを雑木林に囲まれていて、正確にどこまでが敷地なのか、雨田もよく知らなかった。庭には大きな松の木が生えていて、太い枝を四方に伸ばしていた。ところどころに庭石が置かれ、とうろうの脇には立派なしょうの木が生えていた。

 雨田が言ったように、静かなことは間違いなく静かだった。しかし今から振り返ってみれば、気を散らすものがまったくなかったとはとても言えない。

 

 妻と別れてその谷間に住んでいる八ヶ月ほどのあいだに、私は二人の女性と肉体の関係を持った。どちらも人妻だった。一人は年下で一人は年上だった。どちらも私が教えていた絵画教室の生徒だった。

 私は機会をつかまえて、彼女たちに声をかけて誘い(普通の状況であればまずやらないことだ。私は人見知りをする性格で、そういうことにもともとれていない)、彼女たちはその誘いをことわらなかった。なぜかはわからないが、そのときの私には、彼女たちをベッドに誘うことはとても簡単で、理にかなったことのように思えた。自分が教えている相手を性的に誘惑することについて、やましさをほとんど感じなかった。彼女たちと肉体関係を持つことは、道路でたまたますれ違った人に時刻を尋ねるのと同じくらい普通のことのように思えたのだ。

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