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購入する 『騎士団長殺し』試し読み 第3回

 最初に関係を持ったのは、二十代後半の背の高い、黒目の大きな女性だった。乳房は小さく、腰は細かった。額が広く、髪がまっすぐで美しく、体つきに比べて耳が大きかった。一般的な美人とはいえないかもしれないが、画家ならちょっと絵に描いてみたくなるような、特徴のある興味深い顔立ちをしていた(実際に私は画家であり、実際に何度か彼女をスケッチしてみたことがある)。子供はいない。夫は私立高校の歴史の教師で、家では妻を殴った。学校で暴力を振るうことができず、そのぶんの鬱屈うっくつを家で晴らしているようだった。でもさすがに顔は殴らなかった。彼女を裸にすると、身体からだのあちこちにアザや傷跡があることがわかった。彼女はそれを見られるのを嫌がって、服を脱いで抱き合うときにはいつも部屋の照明を真っ暗にした。

 彼女はセックスにほとんど興味を持っていなかった。いつも性器の湿り気が足りず、挿入しようとすると痛みを訴えた。時間をかけて丁寧に前戯をし、潤滑ゼリーを使っても効果はなかった。痛みは激しく、なかなか収まらなかった。痛みのためにときどき大きな声を上げた。

 それでも彼女は私とセックスをしたがった。少なくともそうすることを嫌がらなかった。どうしてだろう? あるいは彼女は痛みを求めていたのかもしれない。あるいは快感のなさを求めていたのかもしれない。あるいは彼女は何らかのかたちで自分が罰されることを求めていたのかもしれない。人は自らの人生に実にいろんなものを求めるものだから。でも彼女がそこに求めていないものがひとつだけあった。それは親密さだ。

 彼女は私の家に来ることを、あるいは私が彼女の家に行くことをいやがったので、我々はいつも私の車で、少し離れた海岸沿いにあるカップル用のホテルまで行って、そこでセックスをした。ファミリー・レストランの広い駐車場で待ち合わせをし、だいたい午後の一時過ぎにホテルに入り、三時前に出てきた。そういうとき彼女はいつも大きなサングラスをかけていた。曇っていても雨が降っていても。でもあるとき彼女は待ち合わせの場所にやってこなかった。教室にも顔を見せなくなった。それが彼女との短い、ほとんど盛り上がりのない情事の終わりだった。彼女と性的な交渉を持ったのは、全部で四回か五回だったと思う。

 

 その次に関係を持ったもう一人の人妻は、幸福な家庭生活を送っていた。少なくともどこといって不足のない家庭生活を送っているように見えた。そのとき四十一歳で(だったと記憶している)、私より五歳ほど年上だった。小柄で顔立ちが整っていて、いつも趣味の良い服装をしていた。一日おきにジムに通ってヨガをしているせいで、腹のぜいにくもまったくついていなかった。そして赤いミニ・クーパーを運転していた。まだ買ったばかりの新車で、晴れた日には遠くからでもきらきらと光って見えた。娘が二人いて、どちらもしょうなんにあるお金のかかる私立校に通っていた。彼女自身もその学校を卒業していた。夫はなにかの会社を経営していたが、どんな会社かまでは聞かなかった(もちろんとくに知りたいとも思わなかった)。

 彼女がどうして私のあつかましい性的な誘いをあっさりことわらなかったのか、その理由はよくわからない。あるいはその時期の私は、特殊な磁気のようなものを身に帯びていたのかもしれない。それが彼女の精神を(言うなれば)素朴な鉄片として引き寄せることになったのかもしれない。それとも精神とか磁気とかなんてまったく関係なく、彼女はたまたま純粋に肉体的な刺激をよそに求めており、そして私は「たまたま手近にいた男」というだけだったのかもしれない。

 いずれにせよそのときの私には、相手の求めているものを、それがたとえ何であれ、ごく当たり前のこととして迷いなく差し出すことができた。最初のうちは彼女も、私とのそのような関係をきわめて自然にきょうじゅしているように見えた。肉体的な領域について語るなら(それ以外に語るべき領域はあまりなかったとしても)、私と彼女との関係はきわめて円滑に運んでいた。我々はそのような行為を率直に、混じりけなくこなし、その混じりけのなさはほとんど抽象的なレベルにまで達していた。私は途中でそのことに思い当たって、いささか驚きの念に打たれたものだ。

 でもきっと途中で正気に戻ったのだろう。光の鈍い初冬の朝に彼女はうちに電話をかけてきて、まるで文書を読み上げるような声で言った。「もうこの先、私たちは会わないほうがいいと思う。会っていても先はないから」と。あるいはそういう意味のことを。

 たしかに彼女の言うとおりだった。我々には実際、先どころか根もとだってほとんどなかった。

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