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購入する 『騎士団長殺し』試し読み 第4回

 美大に通っていた時代、私はおおむね抽象画を描いていた。ひとくちに抽象画といっても範囲はずいぶん広いし、その形式や内容をどのように説明すればいいのか私にもよくわからないが、とにかく「具象的ではないイメージを、束縛なく自由に描いた絵画」だ。展覧会で何度か小さな賞をとったこともある。美術雑誌に掲載されたこともある。私の絵を評価し、励ましてくれる教師や仲間も少しはいた。将来をしょくぼうされるというほどではないにせよ、絵描きとしての才能はまずまずあったと思う。しかし私の描く油絵は、多くの場合大きなキャンバスを必要としたし、大量の絵の具を使用することを要求した。当然ながら制作費もかさむ。そしてあえて言うまでもないことだが、無名の画家の号数の大きな抽象画を購入し、自宅の壁に飾ってくれるような奇特な人が出現する可能性はどこまでもゼロに近い。

 もちろん好きな絵を描くだけでは生活していけなかったので、大学を卒業してからは生活のかてを得るために、注文を受けて肖像画を描くようになった。つまり会社の社長とか、学会の大物とか、議会の議員とか、地方の名士とか、そのような「社会の柱」とでも呼ぶべき人々の姿を(柱の太さに多少の差こそあれ)、あくまで具象的に描くわけだ。そこではリアリスティックで重厚で、落ち着きのある作風が求められる。応接間や社長室の壁にかけておくための、どこまでも実用的な絵画なのだ。つまり私が画家として個人的に目指していたのとはまったく対極に位置する絵画を、仕事として描かなくてはならなかったわけだ。心ならずもと付け加えても、それは決して芸術家的ごうまんにはならないはずだ。

 肖像画の依頼を専門に引き受ける小さな会社がよつにあり、美大時代の先生の個人的な紹介で、そこの専属契約画家のようなかたちになった。固定給が支払われるわけではないが、ある程度数をこなせば若い独身の男が一人生き延びていけるくらいの収入にはなった。西武国分寺線沿線の狭いアパートの家賃を支払い、一日にできれば三度食事をとり、ときどき安いワインを買って、たまに女友だちと一緒に映画をに行く程度のつつましい生活だった。時期を定めて集中して肖像画の仕事をこなし、ある程度の生活費を確保すると、そのあとしばらくは自分の描きたい絵をまとめて描くという暮らしを何年か続けた。もちろん当時の私にとって肖像画を描くのは、とりあえず食いつなぐための方便であり、その仕事をいつまでも続けていくつもりはなかった。

 ただ純粋に労働としてみれば、いわゆる肖像画を描くのはけっこう楽な仕事だった。大学時代しばらく引っ越し会社の仕事をしたことがある。コンビニエンス・ストアの店員をしたこともある。それらに比べれば肖像画を描くことの負担は、肉体的にも精神的にもずっと軽いものだった。いったん要領さえみ込んでしまえば、あとは同じひとつのプロセスを反復していくだけのことだ。やがて一枚の肖像画を仕上げるのにそれほど長い時間はかからないようになった。オート・パイロットで飛行機を操縦しているのと変わりない。

 しかし一年ばかり淡々とその仕事を続けているうちに、私の描く肖像画が思いもよらず高い評価を受けているらしいことがわかってきた。顧客の満足度も申し分ないということだった。肖像画の出来に関して顧客からちょくちょく文句が出るようであれば、当然のことながら仕事はあまりまわってこなくなる。あるいははっきり専属契約を打ち切られてしまう。逆に評判がよければ仕事も増えるし、一点一点の報酬もいくらか上がる。肖像画の世界はそれなりにシリアスな職域なのだ。しかしまだ新人同然だというのに、私のところには次から次へと仕事がまわってきた。報酬もそこそこ上がった。担当者も私の作品の出来に感心してくれた。依頼主の中には「ここには特別なタッチがある」と評価してくれる人もいた。

 私の描く肖像画がなぜそのように高く評価されるのか、自分では思い当たる節がなかった。私としてはそれほどの熱意も込めず、与えられた仕事をただ次から次へとこなしていただけなのだ。正直なところ、自分がこれまでどんな人々を描いてきたのか、今となってはただの一人も顔が思い出せない。とはいえ私は仮にも画家を志したものであり、いったん絵筆をとってキャンバスに向かうからには、それがどんな種類の絵であれ、まったく価値のない絵を描くことはできない。そんなことをしたら自分自身の絵心をけがし、自らの志した職業をおとしめることになる。誇りに思えるような作品にはならないにせよ、そんなものを描いたことを恥ずかしく思うような絵だけは描かないように心がけた。それを職業的倫理と呼ぶこともあるいは可能かもしれない。私としてはただ「そうしないわけにはいかなかった」というだけのことなのだが。

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