女による女のためのR-18文学賞

新潮社

タコのハナシ

逸見真由

「タコの話してくれへん」
 陽ちゃんは、私の「タコの話」が好きで、ご飯を食べて一服した後とか帰りの電車の中とかで、思い出したようにいうてくる。
「タコの話」を聞き終えると陽ちゃんはやっと腹一杯になったとばかり下っ腹を掌でゆっくりと撫でる。下っ腹といっても全く出ていない。陽ちゃんは引き締まってる。だってこないだ三十歳になったばかりで毎日筋トレしてるし。ちなみに私は四十六歳である。
 で、ちなみに私は陽ちゃんを付き合うてる。私は騙しちゃぁない。年はちゃんとお伝えしている。たぶん金目当てじゃないと思う。ワタクシめの貯金は、まあ普通やけど陽ちゃんはそんなん聞いてこない。残念ながら体目当てでもないやろう。じゃ、なして? 私がべっぴんか? いやいやごく普通のおばちゃんである。(多少、年より若く見えるけども)
「この話の何がええん?」
「タコの吸盤のとこがオモロい。お父さんも必死やけど、タコも必死やったんやろなぁ」
 と陽ちゃんは、しみじみという。
「タコの話」は父と母の夫婦喧嘩の話である。
 日頃、そんなに喧嘩をしない夫婦やった。というか母がねちねちと日頃の愚痴――ご近所さんが自慢してくるとか、スーパーの割引き品を買いそびれたとかというのを、無口な父が「ふんふん」と聞いてやっていた。母の文句も晩には消えてるような泡くらいなもんやった。けどタコの話の時は、父が怒った。
 何が原因やったんやろうか。思い出せんのやけど。
 当時私は小二やった。父はとにかく怒って家を出てってしまい実家で寝泊まりして帰って来ずにいた。たまに洗濯物を持って帰ってきて、それを母が洗ってやり、またそれをボストンバックにまで詰めてやり、ついでに弁当やら食料やらも持たしてやるという(その際、二人は全く口もきかず)奇妙な別居生活であったので私も覚えている。
 そういう奇妙なのが一カ月にもなろうとしていた頃、父が一カ月ぶりくらいに帰ってきた。
 最初、裏口でガタガタ音がしていた。母はすぐ父だと気づいて、ふんと低い鼻をあげて「見ておいで」と私にいった。私は飛び跳ねて裏口に行くと中腰で水色のバケツに両手を突っ込んでいる父がいた。いや、突っ込んでいるというより引っ張られている。頭からバケツの中へワープしそうな父がいた。父も顔を曇らせて難儀しているのがわかったが、「どないしたん」と私が気の利かんセリフをいうと父は顔をあげて「タコや、タコ」と痰がからませながらいうた。
 タコ? 
 近づくと、そりゃまあデカいタコがバケツの中でうねっていた。スーパーで見る赤いのとは違って薄い茶色や黒や黄土色がまだらになった妖怪みたいな生き物であった。吸盤があるのを見てタコとわかった。スーパーで見る茹でダコの脚より二倍いや三倍はデカい。伴って吸盤もバカデカい。
「釣りしとったら磯の岩に張り付いてたんや。それを」
 と父の手の甲にタコの吸盤が吸い付いた。父は慌ててそれを取り外した。その様子から痛かったんやろう。父のあの素早さ。吸盤の真っ赤な跡が手の甲にぴっちりと押印されている。ところが、タコは脚の先っぽを今度は父の肘へ吸い付いた。で、慌てて父が外しにかかるがタコは全く外れない。何とか外すと今度は肘の内側へ吸い付く。引っ張って外しても引っ張って外してもどこかへ吸い付いていく。無限地獄とはこのことや。
 んんん――父が呻いた。
 大丈夫?――いえんくらいや。というか岩からこのタコを外せたんか。
「お、お母ちゃんにいうてくる」
「ええ、いわんでええ。いうたらあかん」
 子どもというのは、言葉通りをとるもんなんで仰せの通り私は突っ立ってた。父がタコの吸盤にあごにまで吸い付かれる無限地獄を見ながら。
 しかし、だんだん父も力尽きてきて吸い付きを阻止できなくなってきたらしく手をとめて、
「塩持ってきて」
 といった。
 うん、と私が走り出そうと背をむけると「お母ちゃんにはいわんでええ」と父が叫んだ。
 私が裏口へ戻り台所で塩ツボを手にとった。母は奥に引っ込んで洗濯物を畳んでいる。よかった、聞かれんですんだ。そいで父のもとへ走ったんやけど父は塩より先に、
「なんていうてた」
 とかいう。
「誰が?」という間抜けな私の返しに「なんや、とにかく塩、塩」と眉間に皺をよせ、やっと吸盤が離れた右手を塩ツボへ突っ込み、一握りの塩をタコへぶっかけた。で、「お母ちゃんは何しとん」と聞くので「洗濯もん畳んでた」と正直にいうた。そしたら「塩、袋ごともってきて」とかいう。「まだ中にあるやん」「もっとや」「私かけたるわ」「ええから袋や」「なんでよ、かけたるって」「はよ袋や」と父と不毛な会話をつづけ私は台所へ戻った。
 塩の袋――どこや。と母が台所へ入ってきた。
「お父ちゃん、何してん」
「へぇまあ、あれですわ」
 なんでか私は商人(あきんど)みたいにいうた。
「何しに帰ってきたん」
 母の視線はヤッターマンに出てくるマシンのレーザービームのごときである。何の感情もなく私の身体を焼いて開いて心を見透かしてくる。
 ああ、もうあかん。
「タコに吸いつかれてる」
 と、私は白状した。母は食器棚の上の扉を開けて塩の袋を差し出し「全部使わんといてよ」といった。
 父のもとへ戻り「お母ちゃんにいうてもた」とすまなさそうにいうと父は何もいわなかった。それどころか、口の端っこが緩んだ。
 なんやねん。
 バケツを見るとタコは塩をかけられ艶やかに美しくなっている。少々くたばってはいるが吸盤はまだまだ力強い。
「包丁や、包丁と皿もってきて」
 父は思いついたようにいうた。「よっしゃ」と私が台所へ戻ると母は座って茶をすすって「どないなったん」と私を見ずにいう。「包丁と皿やて」と私がいうと母は家の中で一番大きい皿を差し出し「包丁は取りに来させなさい」と命令してくる。しゃーなく皿だけ持って父の元へ戻ると父もタコもいなかった。そこにはヌメヌメした泡が渇いたコンクリートに残っていただけ。
 なんやの。いったいからはったい。
 ん、もしかしてタコが逃げ出したんか。あいつ、だいぶ力強かったし。お父ちゃん、それを追いかけていったんやろか。いや、タコがそうやすやすと吸盤をお父ちゃんから離すとは思えやん。逃げていくタコに負けて父も引きづられていったのかしれん。私はタタタと家の前の道へ飛び出したが、そこには父もタコの姿もなかった。
 慌てて戻って台所の母にいうと「煮ても焼いても食わへんわ」といわれ「ふん、帰りよってからに」と脚と腕を同時に組んだ。お母ちゃんはあのタコの姿を見てないから、そんな余裕なんやわ。あれ見たら、妖怪やで。
 私は床にしゃがんだ。大丈夫かな、お父ちゃん。
 床の冷たさのせいか下っ腹がごろごろする。もうちょっとで下しそうになったとき「万千子」と裏口から父の声がした。「生きてた」とスッとんでいくとトレーに入った赤いタコの脚――つまり茹でタコを差し出した。スーパーで売られてるみたいな感じ――唯一、ラップされてないだけ。
「魚屋で捌いてついでに茹でてももろた。タコ、捌くんは容易でないらしわ」
 と父は私の目を見ずにいうた。
 それから、「お母ちゃんに持っててみな」と手渡した。
「ふうん」と私は少々ふくれてゆっくりと母のもとへ持って行った。母は茹でタコを受け取り「酢の物にする、いうておいで」という。
 私は首をかしげながら父のもとへいき、
「あのタコ――こんな小さなったん」
 私は母の伝言を無視していうと、父はへの字口になって、
「茹でたらぎゅって思いのほか縮むんや」
 とつっぱねってくる。
「ふうん――酢の物にするってよ」
「それでええやんっていうてきて」と父がいうので、私は母に「それでええやんやて」というと「食べていき、いうてきて」とかいう。
 で、父は「食べていかん」と勝ったようにいうくせに「コーヒー飲みたいよ」とかいう。
 で、母にいうとインスタントコーヒーを淹れて私に運ばせて父はコーヒーを飲んで帰っていった。
 が翌日、私が学校から帰ってくると家に戻ってきてて、タコの酢の物を食べていた。
 というのがタコの話である。
「ええ話や」と陽ちゃんは手を叩いた。
 何がええ話や。
「あのタコを父さんは海に帰したんやろ。となると塩で揉まれて、べっぴんになって海へ戻ったんやで」
 というと陽ちゃんはにまっとして、
「そのタコ、海でモテモテやで」
 塩で揉まれたらタコはモテるんやろか――と思うはまあええ。
 毎回、私が「タコの話」をするたび、陽ちゃんの〝返し〟は違う。話をしてくれたからお礼とばかり気の利いたことや笑えそうなことをいうてくれる。こないだは、
「お父さんもタコを格闘するうちに気合うてきて可愛いなってきたんやろな。このタコに夫婦の危機を救ってもろたんやから神聖な神さんやで。子は鎹ならぬタコは鎹や」
 タコが可愛くなる? まあええけど。
 それから、
「タコ様様やな」
 と決めセリフのごとくいうので、
「なるほどねえ」
 と私はいうと、陽ちゃんは満足気に「うんうん」とうなずいた。
 うまい返しが考え着くと、返しの直前に“にまっ”とする。私はそれが好きや。目尻がぐうっと下がる。ゴムを引っ張ったみたいに。(もともとちょっと垂れ目なんやけど)それが好き。会社でいるときのクールの感じと全然ちゃう。そういうの見せてくるということも嬉し。
 陽ちゃんが好ましい。そう、四十六歳が「好き」というのはちょっとよくない。だから私は「好ましい青年だ」くらいに思うようにしている。
 いうときますけど、私は口説いたんやない。陽ちゃんが頑張ってくれた。
「まあ、長年頑丈に鍵かけて閉まりきっていた私の窓を開いた人ですからねえ」
 というと、違(ちゃ)うやろ、と陽ちゃんは姿勢を正して、
「万千子さんの窓は長年開けんかったからガタついてだけや。もともと鍵かかってへん。一回叩いたらたやすく開いたで。もしくはにわか雨のあとにできた水たまり飛び越えるくらいや。大雨やない。にわか雨程度」
 ふんっ、なにさ! 簡単にいうてからに、とか思ったけどああ確かに。簡単やったよう思う。職場の忘年会で私の隣にふっときて、「多見さん、ヘルペスに詳しいって聞いたんですけど」といわれた。陽ちゃんは、こないだうまれてはじめてヘルペスになったとのこと。私は職場で「ヘルペス先生」といわれるほどヘルペスに詳しい。というか「出やすい」での阻止するために詳しいなっただけやけど。で、一回発症したら何度も出るとか紫外線を浴びやん方がええとか自論としてメカブが効くとか、これまで習得した技を教えてやると俯いて「ふうん」と興味なさげに答えた。
 あら、ご期待にそえやんかったかしらと思っていると、
「三十歳は本気になれますか」
 といわれた。何の前触れもなく。「年下は好きですか」とかもなく。
 私の年知ってんの? 十六歳も上やで。子だって産めやんかもしれん。いや、もう無理やろうと思う。それに他にいっぱい可愛い女の子、年頃の女の子、いいてるやんか。
 私はその言葉を全て呑んだ。なんだかもったいなくて。目の前の美味そうなメロンのシャーベットを「いりません」っていわれへん。溶けてしまう前に食べたい。
 陽ちゃんのこと、私、そんときどう思っていたんか。一回、部長と仕事のことでやり合うてるの見て意外やった。普段は穏やかやのに部長に対して折れず自分のやり方を通した。その方がお客さんにはええんやろけどもそこまで頑張るんやって思った。あのとき幾つやっけ? って思ったんやわ。
「なれます」
 と答えたのは、翌年の初詣に二人で行ったときであった。
「なれますって? 何に?」
「せやから――」
 本気になれますって、ことやけど、あれって飲みの席の冗談かな。
「なんて、ごめんごめん。可愛らしいてついな。本気になってくれるんやな」
 陽ちゃんは神さんにそりゃもぉ大きな柏手を打ってから両手を合わせてお祈りした。
 私にとっては、それからが一大事で。だって、するでしょ? 普通はするわな。避けて通れやんわな。
 ええ? この体、見せる? それはちょっと。あっちっは三十歳のええ体ややろ。こっちは体っちゅうか、ちゅうか、あれですよ。
 白髪――下の毛に白髪――なんよな、問題は。
 年を取れば皆、下の毛にも白髪が混じるのが当然ということを私は知らなかったのだ。というか、皆わざわざいわへんだけで。でも、夫婦であればともに年老いていくものだから、別に気にならないんやろう。
 年の差があるというのは、こういうことでも困るのだ。
 つき合うことになって私の頭はそれで一杯になった。
 染める? え、あそこかぶれたらどうする? マジックは? 一回は持つか? 短くする? いやいや、根本が白いわ。脱毛? 介護脱毛ってあるしな。でもきなりつんつるてんってな。あっ、照明は? 赤い照明とかやったら、わからんのとちゃうか。どうせラブホテルになるやろう。陽ちゃんは実家暮らし。私は母と二人暮らし。残念ながらタコの話の父は十三年前に亡くなった。  色々思案するも、ええ案が浮かばなかった。結
 陽ちゃんといえば、毎回、夜に食事をした後、店をでるとすぐに手をつないでくる。
 ああ、やばいなあ。
 という私の心持ちなど露知らず、手をにぎにぎする。でも私の顔は見ない。見ずして、少々うつむいて、自信なさげに背中を丸め、唇をとがらせて、ちょっと不機嫌そうにもみえて、 「あかんかなぁ、ホテル一緒に行くの」
 というではないか。
 ああ、なんて可愛い誘い方なんや!
 行く行く! どこへでも行くで! 河原でもええし、自転車のサドルの上でもええわ、どこでもええで。
 なんて言えないけども。
「ううん、なんかね」
「やっぱり僕のことあかんかなあ」
 ちゃうちゃう、、ちゃうねん!
「どうやったらええんかな」
 陽ちゃんは頭をつないでない手を掻いた。
 これ以上はもう待たすわけにはいかない。
 結局、初詣から三か月かかった。ラブホテルで迎えたはじめての夜は非常にアクロバティックであった。入るなり、照明の場所を探す。
「わあ、こんな場所はじめてやわあ」
 といいつつ、ベッドの照明のボタンを押しまくり、緑、青、紫、赤、ドレやったら白髪が目立たんと、ベッドのシーツの白色で瞬時に判断する。
 意外と紫とかええか、とそのままにすると、
「なんや万千子さんって大胆なんやなあ」
 と陽ちゃんが横に来た。
 それから事に及んでも私はもう白髪のことばかりで、核心部分に陽ちゃんが近づくとごろんごろんと身体を右や左に転がせて、まるで殺人者にナイフを突きつけられ、かわしているような塩梅になった。そして最終一度、ベッドから落ちた。
「もう余裕ないねん」
 と陽ちゃんにベッドへ抱え戻され、捕まえられ私も観念した。
 まあそれからうまいこと交わせているが、最終、つんつるてんにしようと思っている。
 そうやって、苦難? を乗り越えて仲良くなってから陽ちゃんは話してくれた。
「僕、簡単に万千子さんの心の窓開けたようにいうたけど、そないなことないねんで」
 どうやって口説こうか思案した。年下すぎて真正面からいっても相手にはされんやろう。いや、こういうバージョンこそ真正面がええんちゃうか。
正直、四十六歳と知ったときはおののいた。まあ若く見えてるけど、いってるとして三十五、六歳に思ってたから。やめとこかなと思ったけど、それでも毎日、トカゲみたいに事務所の中をちょこまか動いてる。何しにいってんやと見ると炊事場や玄関付近を掃除してる。かと思えば営業の誰かの仕事の手伝いしてる。ほっといたらええのに。(トカゲっていうと可愛らしかって思うやろけど、前のめりで目的に向ってガニ股で走ってる姿は可愛らしもんや。他の若い女の子たちは十二単でも纏っているがごとくゆっくりと微笑みつつ進んでいく。その中を猛スピードで一直線に走るトカゲ)
 そりゃ十二単は美しけどねぇ。トカゲの方がオモロイんやな見てて。
 そのうち気づいたら目で追うようになってた。「あかんあかん。なしやなし」と咳払いしてそれを呑みこんだ。僕が四十歳になったら万千子さんが五十六歳。僕が五十歳になったら万千子さんが六十六歳。この先のいつまでも追いつかんウサギとカメを思い浮かんでくる。それに子ども――もう産めんかもしれんよな。しゃーない、しゃーない、と心の空き箱に詰めてガムテープでフタをしてた。
 そのうち唇が痒くなってしばらくしたら痛くなって、鏡をみたら水泡がようさん出現していた。
「あれそれヘルペスやないの。うちにヘルペス先生がおるで、多見さんに聞いてん」
 と、隣席の平井さんにいわれ、これはもう神さんのお告げやと忘年会のあの日、万千子さんの隣へ座ったんや。そりゃもう緊張した。席に行く前にビール1本とワイン3杯飲んだんや。どう話すかやって計画ありき。まずヘルペスの話して、それからそれとなく恋愛話して、流れでうまいこと好みのタイプとか年下と年上どっち好きか聞いて。万千子さんが何も思わんように。何も考えんように。なのに隣に座ったら、アルコールはさぁ~と蒸発して、咽喉が乾いて、かろうじてヘルペスの話はした気がするけど、すぐ「「三十歳は本気になれますか」聞いてしもた。一寸、万千子さんは「は?」って顔した気がするけど、なんとか初詣の約束とりつけて、それから「なれます」と答えてくれとき、僕は「なんてええ日や」と神さんに柏手を打った。
 というようなことを一気に陽ちゃんはしゃべった。
 いくらなんでも、心の中のこと話しすぎ! とか思ったけど、そうまでいうてくれて、ほんまに「この人、本気や」と思えた。それまでずっと「いつか終わる恋やさかい、こっちが本気になったらいかんでぇ。あとで悲しいなるからな、立ち直れんで、五十歳間際でそないなことなったら外にも出でんから」と自分に言い聞かせてきた。子どものことも――覚悟の上なんか、と思うと電気こたつが温まるように心の中がじい~んと温くなった。
 年の差があるなら、これくらいほんとのこといわんとあかんと思ったんやろう、陽ちゃんは。意外と策士である。
 だけど、自分の中には陽ちゃんだけやなく、陽ちゃんの周りの人がちらほらした。陽ちゃんの母親、父親、兄弟、友達。それから会社の上司、同僚、女子達。
 みんなどう思うやろうか。
「男の人が上ならまだしもねえ」 
 この前、十九歳差で結婚した芸能人のニュースがあった。昼休憩にその話題になった。
「女の人が上はきついわ。捨てられるの目に見えてるもんね」
 そうねえ。そうよねえ。
「つうか、気持ち悪くない? 母と子っていうてもおかしくないで」
「そうよなぁ」
 いっせいに皆の眉間に茶柱のごとく一本の筋が立った。
 それが世間。世間は眉間に宿るのだ。
 美女と野獣なら許してくれるんかな。
 映画とかでさ、愛し合ってるなら障害超えて結ばれたら皆涙してくれるやんか。
 やっぱり、ないんやな。陽ちゃんと一緒になるなんて、ないんやな。
 そう、ないんやで、私。
 気持ち悪いんやで、私達。
 生理的にムリなんやで、私と陽ちゃん。
 それは「生理的にうけつけない」ということで、「生理的にうけつけない」ということは公然と許される差別なのかもしれない。
 そうやって私は少しづつ、陽ちゃんと間を入れるようにした。話すことも、話さないことを多くして、陽ちゃんのいうこと、わからない、年だからという感じで。
 そういうの陽ちゃんは敏感に嗅ぎ取る。敏感なくせに、敏感じゃないように接する。痛いほどわかる。
 年末に蕎麦を食べた。
「もうすぐ付き合うて一年やなあ」
 陽ちゃんは嬉しそうに両手を頭に回して言う。
 私、四十七歳になってしまった。なんていわないけども。
 そしたら陽ちゃんが、
「とりあえず結婚しよか」
 というではないか。それは明日、どこ行くか決まってないけど、いつも行く喫茶店でも行っとくか、みたいな感じ。
 困惑――という顔をしていたと思う私に、陽ちゃんは、ん? という顔を突き出した。
 せやな、という返事をせずに年が明けた。
 そして、喧嘩をした。
 原因はお土産。陽ちゃんは金沢の出張で私に土産を買ってきてくれたのだ。

「せやせや、ええもん買ってきた」
 と、ラブホテルの紫の照明の下、陽ちゃんは嬉々として鞄から袋包みを取り出した。開くと黒色の石のついたペンダントだった。思わず、照明を白に戻した。石は緑だった。目の覚めるようなワサビのような緑。それも履歴書に貼る証明写真くらいの大きさの。しかも重い。肩がこるではないか。何よりババ臭い。こんなの二十歳や三十歳の女の子がつけない。首に皺とかお顔色のくすみから目を逸らすために六十歳すぎたオバサンがつけるものだ。こんなもの私に似合うと陽ちゃんは思っているのか。
「どう、綺麗な色やろ。見てすぐ万千子さんに似合う思ってさ」
 似合うって?
 隠せなかった。
「ちょっと大人向けやない?」
「大人? 大人やろ、万千子さんは」
「大人いうかオバハン」
「オバハンって」
 陽ちゃんは、ムッとなった。
「僕、センスないからな」
「そういうんやないの。私に似合うもの買ってくれたんで」ょ。私がオバハンやっていうことよ」
「なんやそれ」
「陽ちゃんは若いけど私はオバハンいうことや」
「オバハン――かもしれんわな」
「なによ、それ」
 裸でいるのが馬鹿らしくなって二人とも大急ぎで服を着て、無言でホテルを出た。家まで送ってくれたけど、一言も口を開かなかった。
 その日から口をきいていない。会社で会うても無視である。そうやって今日で十日になる。
 色々思う。これでええ。これでお別れしたらちょうどええ。
 いや、やっぱりちゃんと「さいなら」っていうべきか。
 いや、もうちょっと一緒におりたい。
 じゃ、このワサビ証明写真ペンダントを会社へつけていく?
 なんですか、それ。
 と女子達はいうやろう。
 そもそも、若い女の子になら小さい宝石のついた華奢なネックレスを、陽ちゃんは選んでいたんやないか。
 結局、別れた方がええっちゅうことやわ。
 決着をどう伝えようか思っていると陽ちゃんから連絡が来た。
「デートをしましょう」といわれた。「はい」と答えた。ラストデートになるかもしれん。
 その土曜日、陽ちゃんが迎えに来た車に乗った。陽ちゃんは何もいわず車を発進させた。着いたのは水族館であった。小さい頃行ったことのある古くからあるこじんまりとした水族館である。
 水族館についても陽ちゃんも私も黙っていた。アジやらサバやら魚屋みたいな水族館である。そして、タコがいた。デカいタコである。
「タコの話。僕、万千子さんのタコの話好きや。万千子さんはお父さんとお母さんの喧嘩から仲直っていく過程を僕がおもしろがっているように思っているが違(ちゃ)う。全然違(ちゃ)う。確かにタコと格闘するお父さんもオモロいんやけど、ほんまは――万千子さんの――とにかくその話っぷりが可愛い。小さい花が咲いていくようでほんまに可愛い。それにやられた。それにつきる。とにもかくにも〝僕、この人と一緒にいたい〟と思ったわけや」
 と、タコを見ながらずうっと喋っている。
「僕は今、神頼みならぬタコ頼みに来た。僕らを仲直りさせてくれるように」
 頼んます、とタコに手を合わせた。
 私は巻いていたマフラーを取った。陽ちゃんが私を見て「おお」といった。私はあのワサビ証明写真のペンダントをつけていったのだ。紫のセーターの上に燦然と輝いてる。
「よう似合てる」
 と、陽ちゃんは気に障ることをいうけども、実はよう似合っていると私も思った。
「ありがとう」
 私がいうと、陽ちゃんは手を握った。
「ほな、結婚やな」
 と。
「せやな」
 と私が答えた。
 ほんまに結婚までこぎつけるのか。
 さっきまで動かなかったタコがぬおおんと浮いた。
「ちなみにうちの親父、タコに似てるんや」
「そうなん」
「もうつるっぱげで」
「ええ! そうなん!」
 陽ちゃん、禿げるんか。
 という私の声が顔に出ていたらしく、
「たぶん僕、禿げると思う。ごめんな」
 といわれた。

 家に帰ってから母に聞いた。
「昔、お父ちゃん喧嘩して出てったの覚えてる? タコ捕まえて戻ってきたの」
「ああ、そないなことあったわな」
 白髪をふわふわさせて母はいう。
「あれ、お父ちゃん何に怒ったん?」
「あれなぁ、おかしなペンダント買うてきたんよ。木でぶつぶつのあるな。年寄臭いし、しかも重いしな。値段聞いたらえらい高いし。なんでこんなもん買うてきたんやいうたら、怒って出てってしもた」
「あっ、覚えてるわ。松ぼっくりみたいな」
「それよ、それ」
「でも、ようしてたやんか」
「つけたら、わりと似合ってな」
 と、母は目ざとく私の胸にあるワサビ証明写真のペンダントを見た。
「ええの、つけてるやないの」 
 そういって、にやついた。

〈了〉