赤い星々は沈まない

月吹友香


 午前二時過ぎ、今夜もまた詰所に電子音のエリーゼのためにが鳴った。
「五○四号室、沼田タカシさんのお部屋ですね。ミサさん、私が行きます」
 カルテをとじて立ち上がろうとする森本里歩もりもとりほの肩を制し、ボード型親機の受話器をとる。
「はい、沼田さんどうされました?」
〈ハ……、ハンっ、い、イイイ……い、ウッ〉  
 喉をつめたような途切れた声に、私は里歩に頷きで合図を送った。高齢者にはよくあるのだ。筋肉の衰えから気道がつぶれやく喉を詰める。
「沼田さん、沼田さん。大丈夫ですか? すぐ行きますね」
 ナースコールを切り、里歩と五〇四号室へと急ぐ。個室の引き戸を開け「失礼しますね」と明りをつけると、暗い廊下に慣れた瞳孔に白色灯が突き刺さる。一瞬目が眩み、沼田タカシはこんなに大柄だっただろうか、と思う。薄い掛布団が異様な形に盛り上がっている。一体どんな格好で横になっているのか。と思った瞬間、巨大なイモ虫のようにぐるりとシーツがうねった。まさか――。私は大きく溜息を吐いた。
「すみません、お布団はぎますよ。はいはい、ごめんねー」
 勢いよく布団をはいだ風で、ハイターと老人特有の柿畑のような匂いが鼻をつく。
 案の定だ。がっちりと装着され抗えなかったのだろう、オムツを骨盤までずらし、それ以外は丸裸で口をパクパクさせている。老斑の広がる肌をさらした、あられもない姿の沼田さんが焦点の合わぬ目を瞬かせた。
 その横でうっとりと目をあけたのは、ここのマドンナ。新堂キヌ子だ。
 一糸まとわぬ姿でナースコールを握りしめたキヌ子が「ごめん。興奮して押してしもたわ」と、首をしならせた。深い皺にくぼんだ瞳は舌で湿らせた黒飴のように濡れている。  
 恥じらうでも悪びれるでもなく、キヌ子がゆっくりとベッドから起き上がると、「キヌ、コ……」と沼田さんはまるで死に際みたいな声を上げた。伸ばす手まで震えている。
「キヌさん、あれほどダメよって注意したやないの。はよ、自分のところに戻りなさい。沼田さんもさっさと寝る。明日起きられへんよ。ほら、朝ドラ。『ゲンさんが家出してしまった』って、楽しみにしてたじゃないの。見れんかったらタイヘンや」
 そうやった、と思い出したように寝間着を羽織り、里歩にボタンをしめてもらうと、沼田さんはさっさと布団をかぶった。
 エセ現役男はどこにでもいる。若いケアマネージャーに〈俺の子供を産んでくれ。最後のチャンスなんだ〉と覆いかぶさってみたり、急病のふりしてナースの胸に顔を埋めてきたり、衣食住付きの風俗ではないと憤慨することもあるけれど、結局、単なる悪あがきと見栄にすぎない。退行と退化、心と身体のアンバランスさに揺れている。「裏通りっぽく裏思春期とでも言っとけばエエで。少しはおしゃれ感でるんちゃう?」うまいこと言った、とばかりの男性患者のドヤ顔にはたじろいだけれど、それを知っているからこそ、私たちもある程度は流せるし寛容にもなれる。
 厄介なのは、女のほうだ。衝動が疼けば、いつまでも快楽を得られる。
 〝用済み〟とばかりに部屋を出て行くキヌ子を追った。非常階段の緑のライトに導かれるようにゆらりゆらりと歩いている。脱ぎ捨ててあった透けた藍色のネグリジェを差し出すと、彼女は振りむき「あぁ。ありがとう」とゆっくり袖を通した。懐中電灯で照らす。青いスクリーンに、華奢な身体が影絵のように浮かんでいる。「キヌさん、こんど男の人のところに潜りこんだら分かってるわね。もうアカンで」私が言うと、彼女は「なんでよー。なんでアカンのん」と駄々っ子のように両腕をぶらつかせた。私はキヌ子をまっすぐ立たせ、レースからのぞく露わな下半身にリハビリパンツを履かせた。
「朝しんどくなるし、あしたは息子さん家族が来る日でしょう。それにね、他の患者さんが起きてしまう。皆がキヌ子さんの真似してもアカンでしょう」
「なんでー? アカンことないわ。ええやないの」
 生活には支障のない認知度Ⅱb。思考は安定してる。薬の管理ができない程度で、口腔機能も摂取動作も問題ない。だからこそ注意でなんとかなるならば、と思う。
 キヌ子がこの老人介護施設に転院してきてから、三度目の〝用途違いのナースコール〟だった。その度に説得した。けれど、キャラメルをねだる少女のような無邪気さで、きょとん瞳を丸くするのだ。クマのぬいぐるみを離さない健也さんや、遠くまでとぶ紙飛行機を折ることに夢中な小内さんと気持ちの種類は同じなのだと、新人ナースには説明する。 
 彼女の熱の在処がそこにあるだけのことなのだと――。
 キヌ子はニコっと微笑むと、ネグリジェの裾を翻してくるりと回った。懐中電灯をスポットライトに見立てるかのように。
「キヌさんは懐中電灯が好きやね。踊り子さんのまね?」足元でライトを明滅させる。
「ちがう。潜水艦の明かりやて」
 潜水艦? ああ。だから浴槽に、と思う。キヌ子がこの施設に転院したてのころだった。真っ暗な中、浴槽に沈めた懐中電灯を眺めていたことがあった。利用者とのこの手の問答は日常茶飯事すぎて、理由を尋ねていたら半日が終わってしまう。
 い~こう、ばんりのう~みのなか~。キヌ子の歌声と、素足の音がペタペタと、深夜の廊下に響いている。おお~、われらの~せん~すいか~ん。
「そんな歌知らんわーキヌさんの自作ですか?」おかしくて私が笑うと、彼女は目を丸くして、「はあ、知らんの? あんた若いのに遅れてるなあ。おお~われらの~、言うて」冗談ぽく笑うキヌ子の声が大きくて、六人部屋から「ガガッ。だんなっ」と誰かの寝言が放たれた。「どんな夢見てんのやろ。アホやな」キヌ子の声が廊下に響く。
「しっ!」と、私は口に指を当て、「コラ。他の人が起きてしもたじゃないの」小声で叱ると、キヌ子はグレーの短い髪を整え、ふん、と短く鼻を鳴らした。
 沼田さんの手伝いを終え追ってきた里歩が、廊下の窓を少し開けた。
「うわ、なんか生臭い。外からの臭いですよ。中庭からですよね」
「臭い? 別にしないけど。ジャスミンとかユリみたいな香りならする。里歩ちゃん、鼻腔こわれてるんちゃう?」
「は。ミサさんの鼻のほうがおかしいですよ。まあ、毎日うんちだのおしっこだのにまみれてら、そりゃ鼻腔もフリーズしますけどね」
 私は網戸からゆるゆると流れ込む空気を鼻から思いきり吸い込んだ。夜にろ過された空気はとても濃く、やっぱり風が運んだ木々と花の香りしかしなかった。太陽と月を見紛えた蝉が「ジッ」と鳴いた。エアコンで冷えた身体に夏の夜風がしっとりとまとわりついてきて、薄ピンクの看護服の上から二の腕をさすった。
「キヌさん、おトイレに行っておきましょうか」懐中電灯を振りながら、里歩が問う。
「いい。体の水分はさっきみーんな出てもうたし」キヌ子が流し目をさしむける。
 果てたのだろうか――、と思う。キヌ子はイッたのだろうかと下種な好奇心が湧いた。この七十五歳を過ぎた女は、猥りがわしい欲望を遂げたのだろうか。沼田タカシの手で擦られ、揉まれて、発火した熱をナースコールにまで飛び火させて――。
 キヌ子の横顔に視線をおく。「トイレ、行っときましょうね」。ふくらみかけた妄想に針を刺し、私はキヌ子に手を差し出した。

 翌日の午前中、キヌ子の息子夫婦と孫娘が見舞いに来た。
 四人部屋の入居者それぞれに来客があり、にぎやかな休日の空気に満ちている。私はトレーを止め、おはようございます、と部屋全体に声をかけた。果歩は隣のベッドわきで採血ビンにネームシールを貼り付けて談笑している。窓際のキヌ子のベッドで「わあ、橋になった」と少女の弾む声がした。五歳ぐらいの少女が紐に指をくぐらせている。キヌ子は少女の指から丁寧にあやとり紐を取ると「つぎはカメや、カメさんや」と笑った。
 どこから見てもロマンスグレーの髪が上品な老女だ。昨晩の彼女の影はない。
「キヌさん、体温測りましょうね。今日はミクちゃんも来てくれたんや。可愛らしいお客さんや。嬉しいねえ」私が言うと、キヌ子はうふふと笑い「はよして。今日はお嫁さんがお弁当作ってきてくれたし、寝間着も新品なんよ」と、襟をちょいと摘まんでみせた。
 開け放たれた窓の向こうには中庭の緑が広がっていて、いくつもの紙飛行機が飛んでいる。行方を追って空を仰ぐ老人たちは、少年よりも、無垢な少年そのもののようだ。ゆらゆらと芝生に落ちる紙飛行機を拾い上げては、特別ななにかを託すように空へと放っている。いい香り。あの花の匂いだろうか。昨夜と同じ匂いがした。
 視線を戻すと、キヌ子が女友達でも見るような目で私を見つめている。言いようのない心地悪さを覚えて、「今日は天気がいいから、たくさん飛んでるわー」と、唇だけで言うと「はよ、体温」と、キヌ子が急かす。
 真新しい寝間着のすきまに体温計を差し入れた。柔らかなゴムに吸われるように先端が沈む。「いやん。つつかんといてぇ」と上目遣いで身を捩るキヌ子は、やはり、キヌ子だった。思わず気が抜けて「あら、失礼しました」声のトーンが下がってしまう。
 孫娘とのほのぼのとしたやりとりを見ていると、男性利用者に淫靡を撒きちらすキヌ子は幻想なのではないか、と思えてくる。
「新堂さん、少しお話しよろしいですか。ご主人だけで構いませんので」
 看護師長とも相談をし、もし一、二回だけなら見逃そうという話になっていた。けれど昨夜は三度目の夜這い。家族に入居者の様子を伝える決まりとなっている。キヌ子の行為を家族に話すのは初めてだった。
 面談室に入るなり「どうですか、母の様態は」と、息子が心配顔でソファに腰かけた。
「健康状態は今のところ大きな問題はありません。認知症の発症もありません。ただ、」
 言葉につまったことで、何を察したのだろう、「生活面のことでしょうか」と彼はメガネに指を差し入れ、瞼を掻いた。レンズの表面がうっすらと指紋で汚れている。
「はい。大変申し上げにくいのですが、昨夜、男性のベッドに裸でもぐりこみまして……。今回のようなことが何度かあったものですから、前のところでは、その……どうだったのかと」私の言葉に、息子は大きなため息をついて暫く黙っていた。剃り残した髭を捜すように顎をなで、そして、意を決したように口を開いた。
「母のことを、水商売上がりの女かなにかだと思っていますよね」
 息子は知っていたのだ。私はなにも答えず、彼の言葉を待った。
 転院してくる前の施設からの診情(診療情報提供書)にはトラブルめいた事はなにも書かれていなかった。それはそうだろうと思う。三ヶ月サイクルでの転院が常なのに、次の受け入れ先に拒否されては困るのはどの施設も同じだ。三ヶ月を過ぎると病院や施設に支払われる入院医療報酬が極端に減る、という経営側の事情からだった。
「あの、看護師さん。薬、処方してもらえませんか。その……、なにか性欲を押えるような類のものを……。正直、もう聞きたくないんですよ。父親ならまだしも、母親の醜態なんか耐えられません。七十五過ぎにもなって恥ずかしいでしょ」
 メガネのブリッジを指で押し、彼は訴えるように私を見据えた。
 性欲を抑える薬を母親に――。突拍子もない申し出に、思わず眉根が寄る。
「普通の主婦ですよ。地味な、どこにでもいる普通の。仕事というほどでもないですが、公民館で月一回、料理教室をひらいていました。近所の若い主婦には人気だったんですよ。
 リメイクレシピの時なんかはキャンセル待ちが出た、なんてよく自慢していました。父とも仲が良くて、浮気したされたなんて皆無でしたし。息子の私が言うのはおかしいでしょうが、良妻賢母だったと、僕は思っています」
 頷くしかなかった。彼は首を垂れ、大きな溜息をついた。私の母もキヌ子と年はさほど変わらない。息子の気持ちは察することができる。けれど彼が恥ずかしいのは年じゃない。母親だからだ。〈僕のママは永遠の聖母〉とでも言いたげな少年の瞳が、眼鏡越しに訴えかけてくる。言葉に詰まり見つめ返すと、彼は視線を逸らした。ローテーブルの端に置いたまま動かない。――夫の貴史も同じなのだろう、と思う。頭の中で分かっていても母親の女の部分はシャットアウトでもしないとやりきれないのか。
 一瞬、目の前の男が夫の顔に変る。
 息子の和樹が生まれてから、潮が引いてゆくように夫は私に触れなくなった。〝もう女ではない〟と、夫の手書きの付箋を背中に貼りつけて仕事をし、家事をこなし、保育園の行事に参加して、満ち足りた顔で友人たちと会っている。もうかれこれ三年半も――。
 飛んでも跳ねてもはがれぬその付箋を〝家族愛〟という名の素晴らしく美しいマントの下にひっそりと隠しながら。
 院内PHSのバイブレーションが胸の上で震えた。
「お薬の処方は基本的に持病や体調不良があったときのみです。それ以外でお薬を出すというのはお受けできかねます。医師の診断もいりますので」
 丁重にやわらかく聞こえるように諭す。
「こんな恥かしい思いさせられるなら、家に閉じ込めておけばよかった」
「そんなことありませんよ。けれど、キヌ子さんの程度でしたらご自宅で生活して頂くことは可能です。お薬の管理をきちっとして頂けるならですが。奥様はたしか、学校の先生でいらっしゃいましたね」
 彼は静かに頷き、「考えてみます」と、呟いた。
 病室に戻ると、ミクちゃんが藍色のネグリジェを纏ってはしゃいでいた。
「おばあちゃん、コレちょうだい。プリンセスのドレスみたいでめちゃ可愛い。スケスケのレースがきれいやわー。青いドレスはシンデレラやな。ええなあ」
「綺麗でしょう? コレ着たらな、誰でもプリンセスになれるんよ。王子様なんか選び放題や。ミクちゃんがもう少し大きくなったらあげようね」
 孫の頬を両手で挟んでキヌ子がクシャリと笑う。そんな微笑ましい空間をトンカチでかち割ったのは息子だった。「もういい加減にしてくれよ! こんなもの子供にまで着させて恥ずかしと思わないのかよ! ミク、それをパパに渡しなさい。早く」険しい表情でネグリジェに手をのばし、ミクちゃんから取り上げようとしている。イヤ、イヤ! おばあちゃんのドレス、ミクがもらうんだもん、と力を込めるミクちゃんに、「いい加減にしなさい! いいから渡すんだ」と、息子が声を張り上げた。
 室内がしんと静まりかえる中、つんざくような泣き声が響いた。ネグリジェを抱きしめミクちゃんが父親を見上げ睨んでいる。立派に女だ。
「お姑母さんはミクがディズニープリンセスが好きだ、っていうから貸して下さったのよ。怒鳴ることないじゃないの。どうしたのよ、いきなり」娘の肩をさすりながら嫁が問う。苦虫を潰したような顔で「もう勝手にしろ! どいつもこいつも」と、吐き捨て彼は部屋を出て行ってしまった。

 夜勤から家に戻ると、テーブルに朝食が並んであった。
 すぐにでも眠りたい衝動を凌ぐ味噌汁と焼鮭の匂いにさそわれ食卓に座る。卵焼きと胡瓜の浅漬けだけでも十分なのに、私が夜勤明けの時は特に、バランスのいい朝食を早起きして作ってくれている。
「はい、山芋とろろ。あとほうれん草の胡麻和えも」
 麻のエプロン姿で夫の貴史がキッチンカウンターから腕をのばした。
「ありがとう。いただきまーす。なめこの味噌汁だ。美味しいね、パパの味噌汁。ねー、和樹」ヨーグルトに先に手をつける和樹に「こら、ご飯食べてから」と叱りつつ、味噌汁を啜った。喉の奥から胃がじんわりと温まる。既婚者のナースたちの間でも、ここまでサーポートしてくれる旦那はなかなか聞かない。出勤がてら和樹を保育園にも送り届けると言ってくれている。優しい夫、可愛い息子。これで十分ではないか。これ以上を望んだりしたらきっとバチが当たる。私は山芋をご飯にかけ醤油をたらした。
 二人が家を出た後私はソファに横になった。三人掛けのベージュの合皮に体が沈み込む。手足は伸ばせなくても、ベッドよりもここのほうが日中は短時間の熟睡がとれる。ローテーブルの上に貴史が畳んだ洗濯物。 Tシャツは角がきちんとそろえられ、パンツや靴下はふと巻き寿司のようにクルクルと丸められている。私よりずっと丁寧に。 
 共働きなのだから当然だ、と友人たちのように思えたらまだ楽だろう。専業主婦一筋だった母の影響力は大きい。母の爪、だと思う。家事を夫にさせていることへの罪悪感めいたものが、時折チクリと私を抓る(つねる)。今となっては女性ホルモンの憤激だったのだと理解はできるが「こんなところに閉じ込められてぇ。私は修道女じゃない」と髪を振り乱す母は、幼い私にとっては狂気だった。別居しているはずの母の爪が伸びてきて私を抓るたび、美容院は来月まで我慢しようとか、友人との食事も三回に一回は断ろうとか、小粒の重石を肩にのせては勝手にバランスをとっている。鼻息で飛ばせるほどの小石を。
 これは俗にいうセックスレスだろうか、と思い始めた頃、赤いレースをあしらったシルクのランジェリーを買ったことがあった。『夫婦 レス 解消法』と検索すると、夫婦カウンセリング、風水、フェロモン香水に精力剤、弁護士、〝ふれあいの神〟という名の新興宗教に至るまで、ラインナップは幅広い。香水に心ひかれ、買うのを迷ったけれど、効果がなければ、人工的にフェロモンを足そうが滲み出ない自分の魅力のなさにげんなりしてしまいそうだし、普段使いにして老人に群がられても困るので、赤い紐のランジェリーと夫婦カエルの置物を注文した。貴史が早く帰ってきた金曜日の夜、めいっぱい遊んだ和樹を早めに寝かしつけた。若いナースがくれたアソコ専用の石鹸で丁寧に体を洗い、いざ、と気負いを入れ、ベッドで本を読んでいた貴史の前に赤いランジェリー姿で現れると、彼は驚いたように半身を起こした。
「どうしたんだよその恰好。ちょっと待って、落ち着きなよミサ。和樹が見たらどうするんだよ。びっくりするよ。てゆうか、俺なにか悪い事でもしたかな……。お腹冷えちゃうよ。パンツ紐だと」突如あらわれた悪霊でもなだめ諭すように、夫がうろたえている。
「二年以上もしてないのよ、私たち。でね、嫁がいつもジーパンばかりじゃ、貴史だってつまんないでしょ。たまには女らしい下着でもつけてみようって」
 へへへと私が笑うと、そんな事かよ、と言わんばかりに鼻息交じりの笑いを収め、夫は本を閉じた。
「独身の女子じゃないんだからさ。そこにお金と気合いれるくらいなら、新しい炊飯器を買おうとか思えないわけ。それが母親ってもんだよ。君が働きたいっていうから僕も色々我慢してるよ。協力もしてる。それなのにまだ足りないっていうの。欲張りすぎだよ」
「そうじゃない。あなたには感謝してる。だけど……、」
 泣いていないのに鼻の奥がツンと痛い。
「だから、どこまで僕に求めるの? 君が夜勤の時は、和樹を保育園に迎えに行って、夕食だって作ってる。レトルトも使わずにね。同僚との飲みだって断ってさ。ミサと和樹のことを思えばだよ。年二回は旅行だって行くし、今度は石垣島に行きたいっていうから旅行サイトもチェックしてる。これ以上、何が不満だって言うんだよ」
 そう。なにが不満なんだろう。夫には感謝しかない。いい父親。理解ある夫。でも――。
「……抱かれたいと思うことが、夫婦の営みはそれと関係あることなの?」
 泣くまいと決めていた。前にテレビで女の涙で男の性欲は減退するとやっていたから。
「よそに女の人がいるから、とかじゃないよね……」
 おそるおそる訊く。そのほうがまだしも、気持ちの落としどころはある。
「それ、本気で言ってるの? いつ僕にそんな時間があるっていうんだよ。仕事以外は君と和樹と過ごしてる。それは君が一番知ってることでしょ。僕だって疲れてるよ。その上今度はバカな妄想で責められるわけ。勘弁してくれよ。そんな下着つけるくらいなら、まずはそのポッコリしたお腹どうにかしたら。今日はソファで寝るから」
 そう言うと、彼は寝室を出て行ってしまった。真っ赤なランジェリー姿でたたずむ、情けないほど滑稽な私を置き去りにして。「お腹がポッコリなのは、あなたもでしょ」とひとりごちベッドに座ると、夫の温もりが尻の奥に沁み入ってきた。

「ちょっとミサさん、聞いてくださいよー、チョー最悪なんですけど!」
 唇をへの字に曲げて、里歩が詰所にずんずんと入って来る。どうしたの、と宥めるように訊くと、里歩が興奮冷めやらぬ声で続けた。
「あのオババ、川上クンにまでちょっかいかけ始めました。『すごい胸板やわ~、ガッチガチやん』とか言ってカレを触りまくってるんですよー。いくらなんでも二十代の男にまで絡みつくとは常軌を逸しすぎです。めっちゃ腹立つー」
 川上は利用者のための体操教室でアルバイトをしている体育大学の学生だ。ボート部所属というだけあって、服の上からでもその肉体美は一目瞭然。里歩は以前から川上を気に入っていて、恋愛ハウツー本やら占いやらにお金をつぎ込んでいた。
 オババは言い過ぎよ、と里歩に注意しつつ、背を押されるままハビリルームへと向かった。
「コーチぃ、足がこれ以上あがりませーん。支えてもろてもよろしい? コーチぃ、猫のポーズってこれであっていますか。あ。これ以上はおしり突き出されへんわぁ。コーチ。コーチ。コーチぃ。ん。抱っこ」。頬と吐息がピンク色に染まっている。
 横目でチラリと里歩を見やる。ミッフィのボールペンを折らんばかりに握りしめ、眼光鋭くロマンスグレーの老婆を見据えている。恋は盲目というけれど、若い娘が老婆相手に本気で鼻を歪める画に笑いが込みあげそうになり、私は唇を内側に丸めた。
「たしかに『抱っこ』、は余計やな」
 笑顔でキヌ子に近づき、マットに上がりぐーっと伸びをする。
「キヌさん、川上先生は沢山の人数を教えなあかんのよ。分からないところあるなら、私と一緒にしましょうか。キヌさんの横で、私も体操するわ。運動不足やから丁度いいし」
「していらん。場所狭くなるもん。さっきどっかの部屋で、うんち漏らしたーって叫んどったよ。難儀やん。はよ、戻り戻り」しっしっと蝿でも払うように手首をゆらす。
「わかりました。それならみんなと一緒にしてくださいね。何かあればリハビリスタッフも横にいますから」ゆっくりと優しく伝える。そして、鋭い目でキヌ子を射ぬく里歩に、
「五〇一号室の矢野さん、点滴の時間でしょう。早く行きなさい」と促し、リハビリルームを後にした。どこからか言争う声が響いてきたのは、それから一時間ほど経った頃だった。私は夜勤のために仮眠室で休んでいた。
 急いで駆けつけると、数名のスタッフがキヌ子の部屋に集まっている。
「嫌がってなんかあらへんよ。『触られるうちが華ですから』って笑っとったもの」
「仕事だから気を遣っただけです。本当はイヤに決まってるじゃないですか。そういうのを世間では逆セクハラっていうんですよ」
「それはちがうわ。ほんまにイヤなら『大丈夫ですか。ちょっと支えますね』なんて優しく腰なんか抱かないわ。肩も揉んでくれたで。上手やったわー。あぁ、言葉にならへん」
 心底困ったように、キヌ子がくぼんだ瞳を下げた。
「ガチでウケる。まさか本気で言ってるんですか? 彼はアルバイトなので遠慮してるんです。なので、私が代弁を。正規雇用者の立場として当然ですから」
 言争っているのはキヌ子と里歩だ。ベッドに腰かけているキヌ子の方はゆっくりと瞬きをして、動じる様子はない。我が子よりずっと年下の小娘などに熱くなりようがないと言いたげに、ベッドシーツを指に絡めてはほどいている。
 何に気が付いたのか、あら、と言ってキヌ子が果歩の顔に手をのばした。
「コレ、ぶら下がってたで。興奮しすぎて取れたんやね。ふふふふふ」
 肩をふるわせながら、果歩の手の平に小さな毛虫状のモノを載せた。
 右目だけが半サイズに縮んだ果歩の顔が、みるみるうちに赤らむ。今にも泣き出しそうに下唇を噛み、左目の付け睫毛をはぎ取ると乱暴にゴミ箱に投げ入れた。
 興奮する里歩を落ち着かせようと、私は手招きした。「ちょっと里歩ちゃ、森本さん。ちょっとこっちへ。皆さん、お騒がせをして申し訳ありませんでした」
 同室の他のメンバーは別世界の住人のように、茶を啜ったりキューピーちゃんの編みぐるみを編んだりしている。正直ほっとする。言い方は悪いが高齢者専用でなければ収束困難だっただろう。それはそうと、私情をはさんで看護師が患者に突っかかるなど言語道断。 
 室内に頭を下げ、里歩とともに廊下へと出た。私が口を開くと同時に、
「若いほうの看護師さーん。オードリヘップバーンの名言集でも読んだらええわー。あとなー、前から言おうと思ってたんやけど、帽子につけてる黒猫、縁起が悪いと思うねん」
 おっとりと、けれど、はっきりと、キヌ子の声が廊下まで響いてきた。
 ナースキャップにつけた黒猫キキのピンバッチにムッとした表情で触れ、里歩が「そう言うキヌ子さんはオードリーとは程遠いですけどねっ」と、上ずった声で負けじと放つ。
「あー。私はモンロー派やねん」と、気の抜けたキヌ子の声がした。
 怒り疲れた里歩とともに詰所に戻ると、看護師長が鬼の形相で待っていた。数秒後にはキンキン声が飛んでくる。無論、指導係である私にも。看護師長が目の前に立ちはだかる。「利用者さん相手にあんな醜態は許しません。それから森本さん、これは同じ女性としていうけれどあなたは若いのよ。年寄り相手に本気になってどうするの。冷静になればもっと大らかに対応できたはず。あれくらい上手く流せないとここではやっていけないわよ」看護師長の言葉に、私は何度も頷いた。頷きすぎたのか、ならばと言わんばかりに師長の首がこちらに向く。「分かっているならミサさん、時間と持ち場の配分ミスをもう一度見直しなさい。新人に暇を与えるからこんなことになるんでしょ!」
 キヌ子さんに謝りに行くように、と最後に付け足し彼女は責任者会議へと向かった。
 
 シャンパングラスに細かな気泡が立ちのぼっている。心まで琥珀色に満ちてゆく。
「こんなことになるなんて、本当ラッキーだった。シフト交換してもらえて良かったわ」
 従兄弟の結婚式で一昨日から横浜に来ていた。せっかくだからともう一泊予約をしていた母が、ペットホテルに預けた愛犬のミモが心配だと言って帰ってしまった。「たまには夫婦水入らずで過ごすのもいいわよ」と、息子の和樹も連れて。
 式はこの港の見渡せる老舗ホテルで滞りなく執り行われた。六年前の自分たちの結婚式が、瞳の裏に気泡のように浮かんでくる。サンダルに入り込む砂を何度も払いのけながらの、夜の海でのプロポーズだった。緊張で水を飲み過ぎ、貴史が私の実家のトイレに籠った切り出てこなかったこと。祖父の形見のカフスをリメイクしたと真珠のブローチをプレゼントしてくれたこと。幸せな記憶が押し寄せて来て、全身に甘やかな血液が巡る。
 貴史は舌平目のボンファムを口に運ぶと、うまい、と嬉しそうに頷いた。美味しいお料理にシャンパン。部屋に戻れば、海に映る宝石のような夜景が私たちを出迎えてくれる。この日のために私の苦悩はあったのだと、心からそう思えた。
 エレベーターの中でぎこちなく貴史が私の手をとった。地球上の誰より一緒にいるのに、とても遠慮がちに。それだけで目頭が熱くなった。この空気を味わいつくそうと神経を研ぎ澄ますけれど、こそばゆくて力が入らない。この類の事に私はめっきり弱くなってしまっていた。深夜番組の若い男のインタビューがふいに脳裡に浮かぶ。
〈飢えた人妻なんて楽勝っすよ〉変声器と通した声。〈髪の毛を優しくなでたり、綺麗ですね、なんつって褒めてみたり、そんだけで勘違いするんすよー。既婚女はちょろいっす。女として見られたってだけで、目が潤んできますしね。あ、下もっすねー。あはははははは〉モザイク顔の男の高笑いが脳内に響きてきた。既婚女は……、ちょろい。
 へこたれんばかりの気持にムチ打って、匿名男と脳内で対峙する。これは夫婦の問題だ。
〈人妻などと淫靡な響きもあるけどね、全既婚女対象じゃないんだよ。現に今ここに、旦那に手を握られて目頭を熱くさせている人妻もいるんです。それが、ちょろいと言われる所以なのかな。でも、夫婦っていつからか互いに保護者めいてくるものなの。だから、その相手にキュンとなれるって、まだまだ愛がある証拠なんじゃないでしょうか〉
 声も出てないのに息が上がる。どうだ、とばかりに夫の手を強く握った。
〈せつねー、人妻せつねー。俺ってガンガンときめいてたい派なんで、ガチ意味わかんねー。てか、旦那さんもムリしてるっしょ〉と、モザイク男が鼻しぶきを上げて笑った。
〈それは残念。では、さようなら〉ぶちっと頭の中でリモコンの消ボタンを押す。せっかくの非日常を台無しにしたくはない。こんなシチュエーション、きっとこの先数えられるほどもない。そう思っていた矢先だった。エレベーターのドアが開くなり、「あっ!」と貴史の動きが止まる。部屋のある階とは違うフロアで、いきなりエレベーターを降りた夫は「うわ。すごい」と驚喜の声を上げた。夫のあまりの興奮に、私も慌ててあとを追う。
「モノクロームの夜だ。これ無名時代のジェニファー・アニストンが出てるんだよなー。序盤がモノクロなんだよ。でも言うのやめた。ミサ、これ観よう。絶対に面白いって。ここらへん多分DVD化されてないよ。廃盤のVHSだよ、貴重だなあ」
 壁に備え付けられた棚一面のDVD。その下段にびっちり詰まった懐かしのVHS。よくもまあ扉が開いた一瞬で目に入ったものだと感心する。老舗ホテルならではの粋な計らいにも――。同時に私は落胆した。「ね、これ観るつもり?」念のために訊いてみる。「うん。観るよ。当たり前じゃん」エロビデオを吟味する中学生男子のように爛々とした瞳で頷く。あぁ、いっそのこと廃盤のエロビデオならば良かったのにと、心から思った。
 
 まったくもって泡など立たない。私は今、昨夜のやり場のない虚しさを、介護用の風呂場で石鹸と共にこすり合わせている。たしかに絹製のタオルのほうが肌触りはいい。けれど、石鹸を足しても足してもペースト化した泡がタオルの表面に貼りつくばかり。 
 あきらめ半分に手を休めると、「ええ感じや」と、キヌ子が言った。「え? こんなんでいいんですか」思わず素っ頓狂な声が出る。「肌に触れるか触れないかくらいの強さで洗うんや。優しく優しーくな。これでキヌ子のキヌ肌のできあがり、な」
 ダジャレが出るとは余程気に入ったのだろうか。私はペーストが少しでも泡立つようにタオルを揉みながら、キヌ子の背中に当てた。「キヌさんは、大浴場に入りましょうね」と言ったのに、人に洗ってもらうのが好きだと言って聞かない。絹肌は納得。とても七十過ぎの肌には見えない。ペーストまみれのタオルが肌の上をすべるようだった。
「流し終えたら、そのタオルを一旦すすいで湯を含ませてな、体に当ててほしいねん」
 注文の多いこと多いこと。今までの担当者は言う通りにしてきたのだろうか。それとも私に甘えているだけなのか。「はいはい」と二つ返事をしたところで、キヌ子がはにかみがてらにんまりとする。
「あの沼田いう男な、五〇三号室の。アレ、うちに心底惚れてるで。山口いう男も」
 始まったモテ自慢に、私は若干の面倒くささを覚えながら「そうなん。キヌさんモテモテやね」と、首から腕へとタオルをずらしていく。話題を逸らすために、そういえばキヌさん、と続けた。「いつか浴槽に懐中電灯を沈めてたねぇ。覚えてる?」キヌ子は、あぁ、と思い出したように宙を見上げた。天井から水滴が落ちて、湯船がぽちょんと鳴った。
「探しもんや。ふかーいとこ。潜水艦の明かりや」あんたらに邪魔されたけど、と呟いた。
「それよか、沼田も山口も男前やろ。うち、むかしから鼻が高い男が好きなんよ」
 確かに二人とも鼻が高く端正な顔立ちをしてる。前に山口さんの若い頃の写真を見せてもらったことがあり、昭和の銀幕スター顔負けのイケメンだったことを思い出した。そこも視野に入れつつの夜這いだったのかと思うと、ほとほと言葉を失う。
「モテモテなのは良いことやけど、もう夜中に潜り込んだらあかんよ。キヌさんが潜水艦になってるで。あ、もしかして山口さんの所にも行ったんやないでしょうね」
「行ったよ。ちょっとお手を拝借しただけや。借・り・た・だ・け」
 キヌ子がクシャっと鼻にしわを寄せた。
 あきれ果てて大きな溜息が出る。キヌ子の素行に気づけなかった自分自身にも。
「うちの施設でこういうことは困ります。三か月も経たないで変わるのはイヤでしょう。キヌさん、旦那さんに満足させてもらってなかったんちゃいますか?」
 牽制するつもりで嫌味を込めて言った。キヌ子がきょとんした顔で私を見る。
「は? お父ちゃんは満足させてくれてたで」キヌ子としばらく見つめ合った。変な空気になり、「へー。それはそれは」と笑いながら、彼女の垂れた胸を片手で持ち上げ、タオルを差し入れる。言いようもなく心がざわついた。太腿、足首、足を洗い終えると、泡のきれたタオルを洗面器の湯に浸した。湯が白くにごる。
「あんたぁ。熱いのー、お腹の下のほうが熱くて熱くて死にそうやー。って言うたらな、お父ちゃんはすっ飛んできてくれたで。『キヌ子ホンマに熱いわ』、言うて」
 温度を上げ、蛇口をひねり湯を足す。じゃぶじゃぶとタオルを洗い、たっぷり湯のたまった洗面器の中に再びタオルを浸した。
 ――あんた、旦那に触れられてへんやろ。
 空耳かと思い、え? と訊き返す。
「だから、旦那とセックスしてないやろ、って」
 ぷつり、と頭の中心で音がした。熱いタオルを絞る。
 失礼します。拭きますねー、と彼女の脚を開き、陰部に熱いそれを押し当てた。
「熱っ! 熱い。なにしてくれんの」キヌ子が叫ぶ。「あ、ごめん。キヌさん、熱いのが好きなんやと……」。言ったあとで顔が上げられない。滑り止めマットに視線をおいたまま、蛇口をひねった。私は今どんな顔をしているのだろう。目の前の鏡を見ればいいだけなのに、それすらできなかった。一気に水を足してかき回し、温度を調節した。
 どうかしてる。どうかしずぎている――。下腹部にちょろちょろとぬるま湯をかけ流すと、キヌ子がくすぐったそうに笑った。
「あっ。冷っこい」

 パラパラと長い拍手が止み、園児たちがビー玉が弾けるように散った。
 お遊戯のときに使った手作りの団扇を、園児たちがプレゼントしてくれるのだ。おのおのに絵を描き色紙が貼られた団扇は、遠い国の祭りみたいにカラフルで楽しい。嬉しそうに園児に微笑む人、上手にできていると感心する人。なにより、園児たちの輝く無垢な笑顔に私たちまで心がまるくなる。二か月に一度行われる慰問レクリエーションは、この施設のオアシスだ。
「ひかり幼稚園のみなさん、可愛い歌と踊りをありがとうございましたー。それでは次にアカシア合唱サークルの皆さん、おねがいしまーす」
 進行役の里歩が、マイクを片手に拍手をうながす。中年の女性コーラス隊が小さなステージに上がると、再びパラパラと拍手がおきた。てっぱん曲の〝モルダウの流れ〟〝ふるさと〟〝上をむいて歩こう〟が滞りなく歌われたところで、サークルリーダーの挨拶が入る。はずが、ヤジめいた男性の声がフロアに響いた。
「ザ・グラスルーツの〝恋は二人のハーモニー〟歌ってくれや。まいど聞きあきたわ。ソプラノ五人にアルト四人やろ? ハモれるハモれる。ちょっと待って、え? なんて?」
 爪先立って後ろから視線を伸ばすと、どうやら最前列からの声のようだ。横顔の鷲鼻――山口さんだ。隣の席の女性の口元に耳を近づけ、うんうんと頷いている。まるで恋人同士のように。女性はもちろん、新堂キヌ子。
「それが無理ならな〝花のサンフランシスコ〟でもええで。モナリサツインズのならいけるんちゃう? 女だけでハモってんねんから」
 山口のリクエストに、しおらしくキヌ子が小首を傾けている。自分のベストな角度を研究しつくした結果の伏し目だろうか。山口さんは骨抜きだ。愛するオンナの為に一肌脱いだとばかりのドヤ顔に、里歩が「コーラスの方々が皆さんのために練習してくださった歌です。楽しく聞きましょうね」と、苛立ちを抑えた笑顔でたしなめる。
「そこここで歌ってるんやろ? こっちが聴きたい曲を練習してくれんと。それでこそ慰問やで。こっちはあんたらの歌で踊ろう思ってんのや。楽しめないのやったらレクリエーション違うやんか」語気を強め反論する山口さん。と、「〝いつでも夢を〟は、いかがでしょうか。吉永小百合と橋幸夫の……」と、ステージから声がした。見かねたサークルリーダーからの提案だった。ふたたび唇と耳元を寄せる二人。コクリ、と頷くキヌ子。ゴーサインとばかりに鳴り始めたピアノの伴奏。もはや他の観客はいないようなものだ。
 山口さんは、よっこらしょと立ち上がると、プリンセスをエスコートするようにキヌ子の手を取った。片手は握り合い、もう片手は互いの腰を引き寄せ合う。メロディーに吹かれる二艘の小舟が水面をたゆたうように。まさに二人が主役。昭和の名曲に手拍子まで始まり、ムード絶好調の時だった。バシッ。という音と同時に、人が倒れる音がした。コーラスがぴたりと止む。ステージ横にいた里歩が真っ先に山口の元に駆け寄るのが目に入った。山口さん? そう思った瞬間、長い棒が空中に振りかざされた。
「俺の女や! 俺の女かえせ。色ボケジジイめ」杖の持ち主は、沼田タカシだった。
「コノ、勃起もせんくせにカッコつけおって! くそジジイ」椅子に座ったまま、コノ、コノと、何度も杖を振り上げ喚いている。バチンッ。床を叩く音。
「きゃ!」と、キヌ子が叫び声を上げた。
「やめなさい! 沼田さん」スタッフが一斉に、キヌ子含め他の患者をその場から引き離す。里歩が山口をかばうように覆いかぶさった。再び杖が振り上げられ、私はとっさに手で制した。が、自制の効かなくなった杖は、爆演指揮者のタクトのように宙を舞い、ひゅんひゅんと左右に振れて私の頭に激突した。私は頭をおさえ、その場にしゃがみこんだ。鈍痛が走る。静まり返ったロビーに、コトン、と杖が床に倒れる音がした。頭蓋骨からの振動が、チリチリと脳を震わせている。
「ミサさん……。ミサさん、大丈夫ですか」車椅子に山口さんを乗せた里歩が、屈んで私を覗き込む。「大丈夫……。早く山口さんを先生のところに」
 里歩は頷き、早足に処置室へと向かった。私はスタッフに支えられながら、消毒液と柿畑の匂いする廊下をゆっくりゆっくりと進んだ。入居者と同じように腰をかがめて。
 
 仮眠室で目が覚めると、暗い窓に月がはりついていた。
 腹の上にかけてあったタオルケットを鼻まで引き上げるとハイターの匂いが鼻腔をついた。固いベッドに横たわったまま暗い天井を見上げる。窓から入り込む光が、密度の濃い煙のような渦をつくり、天井に白い穴をくりぬいていた。朦朧とした意識の中それを眺めていた。開ききらない目のせいだろうか、ふるっと輪郭が揺れて、少しばかり穴が広がった。ふるっふるっ。広がっていく穴の縁に手が掛かって、誰かがこちらを覗いているような錯覚を覚えた。頭から鼻下までの顔で、こちらをじっと見つめている。奥二重の目に、小ぶりな鼻、髪はグレーと白のまだらで顔には深い皺がある。
 とても懐かしい。それでいて見飽きるほどよく知っている顔――私だ。老女になった私が、私をじっと見下ろしていた。なにか言おうと乾いて張りつく唇をひらきかけた瞬間、消えた。視線で行方を捜す。靄のかかる思考のまま、視線を左右に動かすと、今度は天井と壁の角に現れた。けれど、さっきの穴とは違う白く薄い楕円の光だった。
 窓に近寄ると少し頭がふらついた。窓ガラスに両手をついて闇を探る。眩しさに目が眩み、私はカーテンの端に身をずらした。中庭からだ。いくらなんでもこんな時間に、患者でも部外者でも注意をしなければ。そう思い頭が冴え始めた時、スマートフォンが点滅した。里歩からのラインだった。
〈ミサさん大丈夫ですか。仮眠室に寄ったらグッスリでしたので先に帰りますね。山口さん、大きな怪我にはなりませんでした。一安心です。でも、沼田さんについては話し合いになります。何かできることあればいつでもメールくださいネ。おつかれさまでした〉
 絵文字がもりこまれたメッセージに心が緩み思考が戻ってゆく。
 私は部屋を抜け出しエレベーターに乗った。ナースコールで呼ばれ、詰所は空だ。消灯時間のとうに過ぎた真っ暗な廊下を行く。私はもう、誰の仕業なのか分かっていたのだ。 
 外へ出ると、ゆらゆらと夜空を照らす白い光は、中庭の端の木立の間から伸びていた。
「キヌさん。また抜け出してる」言いつつ近づく。彼女はベンチに座り懐中電灯を空にむけていた。「あ、あんたか。もう大丈夫なん? えらいことになってしもて……」
 少しはこたえているのか低く小さな声だった。キヌ子は膝の上にライトを置いた。濃い芝生が丸く浮かび上がる。草を分けてなにかが飛んだ。
「キヌ子さん、ホンマに懐中電灯好きやね。こんどは夜空に潜水艦、潜らせてんの。ほら、あれ火星ちゃう。今年は地球に近いんやってね」キヌ子の隣に腰かけた。
「あんなもん子供だましや。望遠鏡でのぞいたら砂嵐で赤く見えんかったもん。私の赤い星はあんなに小さくない。あんたのだって、そうやで」
 言葉の真意も分からないのに、なぜなのか目の奥が痺れた。
「あんた、ごっついの持ってはるわ」と、ベテラン占い師のように言い切るキヌ子の後ろから、ジャスミンに似た香りが流れてきた。いい匂い、と呟くと、臭木の匂いや、とキヌ子が返す。「臭っさい枝葉やなくて花の匂いが分かるんやな、皆クッサイクッサイ言うのに。それはけったいやなー」と声を上げ笑う。〝けったい〟な理由も〝ごっついの〟の正体も、心の奥では分かっているからこそ聞けなかった。――きっと貴史にも、そうなのだろう。
 溢れそうになる涙をごまかすために髪をすいた。杖で殴られた部分が膨らんでいた。
 キヌ子に熱いタオルを押し当てたバチの瘤。私を守るためにできた瘤――指で擦る。
「かんにんやで。痛かったな」そう言って、キヌ子は私の頭を優しくなでた。
「見栄張ってでもなあ、自分を奮い立たせな女なんかやってられへんよ。恥ずかしい事なんか、なんも、あらへんのよ」
 爪が伸びるのかて、アソコが疼くのかて一緒や。生きてる証拠や。
 深く深くに沈んでしもてもなあ、消えへんで。あんたのも、うちのも。
「いらんわ……ほんまに」と、私が言う。「あほか」と、キヌ子が呟く。
 ――厄介なのは命そのものやからや。綺麗ごとですむかいな。
 キヌ子の膝の上で、懐中電灯の光が遠くまで伸びている。途切れた光の先に、真っ暗な闇が広がっていた。私は胸ポケットからペンライトを取りだし、繋ぎ足すように、それを当てた。

〈了〉