夜明けとマヨネーズ
ねじまきねずみ
◇
「田中さんて、彼氏いないんですか?」
私こと田中紫乃が中途入社の同僚にそんな事を聞かれたのは九月の金曜の夜。ちなみに本日は彼、久世賢太郎の歓迎会だ。人懐っこい表情が小動物のようだなんて言われているけれど、私には鳥類系統の顔立ちに見える。
「いないよ」と串から外された焼き鳥をつまみながら答えた。グラスのぶつかる音や酔っ払いのボリュームの大きな笑い声なんかが次々に耳を通過していく居酒屋の座敷席。
「どうしてですか? 普通にいそうなのに」
こういう場合の〝普通に〟は何にかかっているのだろうか。彼氏がいそうな普通のスペックという意味か、それとも彼氏がいない事が彼の中では普通ではないのか。などと考えながらウーロンハイを口にした。考えたところでどうせこれ以上この会話が続く事はないのだろうと、焼き鳥ももう一つつまむ。
「馬鹿! 久世」と彼の左隣に座っている先輩社員の男性が囁いて、彼の左腕を肘で小突く。そして「田中さんは――」と耳打ちをしている。気を遣ったつもりで目の前でそんな事をするのなら、別に普通の音量で普通に久世くんに伝えてくれたらいい。
〝田中さんは一年前に彼氏が亡くなっているから、その手の話題は振るな〟って。
「なんかすみません」と申し訳なさそうに謝られて、私は首を横に振ってできるだけ柔らかい笑顔を作る。こんな会話がもう何度も繰り返されている。私の彼氏は一年前に死んだ。コンビニに行った帰りに飲酒運転の車にはねられた交通事故だった。私と同い年。享年三十一歳。そう。たしかに普通ではないのだ、私は。若くして恋人を事故で失ったのだから。それでも一年も経てば社内中に知れ渡っているので、このやりとりをする事も随分と減った。けれどこの話題が出るとみんなどうしたらいいのかわからなくなるらしく、場に似合わない束の間の静けさが訪れる。当の私はもうとっくに慣れてしまったというのに。「気にしないで」と言って、エイヒレの皿に手を伸ばす。そして一切れ口に運ぼうとした時だった。
「エイヒレってマヨネーズつけた方が美味しくないですか?」と久世くんが言った。炙られたエイヒレの皿には当たり前に七味唐辛子のふりかけられた マヨネーズが添えられていて、それをつけて食べるのが一般的だ。
マヨネーズが嫌いなのだと伝えると「変わってますね」と返された。
「そう? 卵アレルギーの人だっているし、わりと普通でしょ」
彼の表情には、いまいち納得がいっていないと書いてある。久世くんはどうやら了見が狭めの人間のようだ。自分の中の常識に他人を当てはめているのだろうか。それとも二十九歳の男なんて皆そんなものだっただろうか。プライベートで同年代以下の男性と話す機会が殆ど無くなって、そういう事が段々とわからなくなっていく。一番身近な存在の男性がいなくなり、他の男性からは腫れ物のように扱われているのだから仕方がない。
飲み会が終わり、皆が駅で散り散りになっていく。さっさと帰って休もうと一歩踏み出したところで「もう一軒行きません?」と呼び止められた。振り向けば了見の狭い彼。瞬時に眉を寄せてしまったのだろうか「時間大丈夫だったらですけど」と付け足された。
「でもどうせ暇でしょ? 飲み会の後の夜中なんて。一人暮らしって言ってたし」
そう言った彼がニヤリと口角を上げるのを見て、聞き間違いではないのだと理解する。
「一応言っておくけど、私年下って興味無いから」
自分に人並み以上の自信があるわけでもないので溜息交じりに忠告する。
「俺は興味ありますよ。彼氏が死んじゃった女性」
あまりにも平然と言われ、先ほど『なんかすみません』と謝った際の瞳孔をまん丸に広げたフクロウのような表情が演技だったのだと悟る。了見が広いとか狭いとかそういう事ではない。この男はシンプルに失礼なのだ。
混み合ったイタリアンダイニングのカウンター席に辛うじて腰掛けたら、店のジャンルなんて無視してレモンサワーとビールで乾杯する。結局二軒目に付いてきてしまったのは愛想の良い年下男子よりは嘘つきで失礼な人間の方に関心があるから。
「久世くんて嘘つき」と指摘すれば「嘘なんてつきましたっけ?」と不思議そうな顔。
「しおらしぶって謝ったりしたくせに〝彼氏が死んだ女に興味がある〟なんて、どう考えても嘘つきでしょ」
「飲み会の空気悪くして申し訳ないって思ったし、田中さんには興味ありますよ」
謝罪の理由が飲み会の空気だというのもやはり私に失礼ではないだろうか。
「恋人が死んだ人なんてこの世にごまんといるんじゃない」
配偶者を含めれば、それこそ星の数に違いない。彼はビールに口をつけてからこちらを見た。
「田中さんこそ変な嘘つくから。マヨネーズ嫌いって」
「嘘じゃないけど」
「だって食ってたじゃないですか、ポテサラ」
居酒屋のコースメニューに含まれていたポテトサラダ。他人が何を食べたかなんて気にする必要もないのに、なかなかに目ざとい。
「だからもしかして、彼氏が死んだなんていうのも嘘なんじゃないかと思って」
あっけらかんと虚言癖扱いをされて「嘘だったら良かった」と溜息を溢す。
「でもポテサラ――」
「何回ポテサラって言うつもり? マヨネーズの味は好きだけど見た目が嫌い」
微細な水滴にまみれたグラスが指先を湿らせる。つまみはオリーブとチーズだ。
「芸能人だって演技が下手でも顔は好き、とかあるでしょ? その逆みたいなもの」
「やっぱ変わってる。マヨネーズの顔ってなんすか」
若干の笑いが混じった声は、明らかにこちらを馬鹿にしている。
「薄黄色のドロッとした油のクリームみたいなものが嫌いだし、赤いキャップのついたチューブなんか最悪」と、嫌悪感を露わに、吐き捨てるように言ってしまった。
「すげえ。マヨネーズ憎んでる人って初めて見たかも」
確かに嫌いというよりは憎んでいるのかもしれない。グラスを煽り気味に口につけると、カランと微かに氷が鳴った。彼は「なんで憎んでるんですか?」と本当に好奇心の赴くままになんの躊躇いもなく踏み込んでくる。
「私の彼、マヨネーズを買いに行って交通事故に遭ったの」
一拍間があいた。
「すみません」と言った久世くんを見て、その面食らったような表情に軽く吹き出した。失礼で確実に無神経ではあるけれど、思ったよりは常識的なようだ。
「だから彼はマヨネーズを買いに行かなければ今も生きていたの」
「事故現場にマヨネーズが飛び散ってたとかですか?」
前言撤回。思った以上に非常識で失礼だった。けれど酔いが回った頭では何か言うのも億劫に思える。結局私だって、人の死を酒席の話題の一つとして消費しているのだから。
「事故そのものを見たわけではないけど……袋に入ったまま傍に転がっていたみたい」
近所での事故だったというのに、私がそれを知ったのは彼が病院に運ばれた後。頭を強く打っていて手の施しようがないのだと、先に駆けつけていた彼の両親から告げられた。
「マヨネーズが恋人の命を奪ったから憎いって感じですか?」
「それってすごく間抜けな響きじゃない? マヨネーズって名前も嫌いかもしれない」
悲劇のようで、その単語だけで喜劇になりそうな響きでもある。
「まあでも、そう。マヨネーズが無ければ彼は生きていたし――謎も残らなかった」
久世くんに「謎?」と復唱され、彼の顔を見て頷いた。
◇
彼氏である棚尾誠司が事故に遭った金曜の二十三時。彼は私の家の冷蔵庫を開けた。彼は一人でキッチンにいて、私は部屋でタブレットに向かっていた。そして『マヨネーズ無いじゃん』と開いたドア越しに聞こえた。単身者向けマンションの狭い部屋では声は筒抜けだ。
『紫乃、マヨネーズ好きなのに』
それは当時の私の好物で、その日はマヨネーズを切らしていた。
『何でもかんでもかけなくちゃ気が済まないってわけじゃないんだから。大丈夫よ』
ましてやその時何かを食べていたわけでもなかったのだから。
『だめだよ。マヨネーズは切らしちゃ』
淡々とした冷静な声で言ったかと思ったら、誠司はドアからこちらに顔を出す。
『マヨネーズは〝夜明けの食べ物〟だから』
ふざけるわけでもなく、よくわからない事を言った。
『何それ。夜明けに食べるって意味?』という私の質問に、彼は首を横に一往復させた。
『とりあえず買ってくるわ、マヨネーズ』と出ていった誠司はそのまま帰ってこなかった。
◇
久世くんは反芻するように「夜明けの食べ物」と呟いた。この話を他人にしたのは初めてだ。例の如く周囲にとってこの話題は禁忌だし、こちらから話すような事でもないのだから。
「夜明け……夜明け……朝……」と、隣から呪文のようなぶつくさとした声が聞こえてくる。
「一年考えてもわからないものがそう簡単にわかるはずないじゃない」
「俺結構得意ですよ。クイズとか推理ゲームとか」と得意げな顔を向けられて、眉と目と鼻先がもぞりと中央に寄る。
「ゲームって。他人の彼氏が死んだ話を聞いてそのテンションって、やっぱり無神経というか失礼というか今どきの若者というか」
「そんなに歳変わんないでしょ」
「三十一歳と二十九歳には大きな隔たりがあるの」
誠司の享年と同じ三十一という数字を口にすると、あれから一年が経ったのだと実感する。「まあなんでもいいけど」と心底馬鹿らしいと思っていそうな、体温を感じない軽い口調で流される。それから「これ、マヨにヒントがありますよね」と自信満々に微笑みかけられた。
「マヨネーズと夜が繋がりそうな部分って、真夜中の〝マヨ〟の部分って感じしません?」
けれどそれは私も思っていた。というか、それくらいしか思いつかない。
「でも、それだったら真夜中の食べ物って事にならない?」
「ひょっとして田中さんの聞き間違いで、本当は真夜中って言ったとか」
唇を軽く内側に巻き込むみたいに結ぶ。反射的につい、力が入った。
「それは明確に否定する。真夜中だったら、きっとすぐに忘れられたんだから」
単純なダジャレだったのだと受け流せたに違いない。『夜明け』だから残ってしまったんだ。
乗せられて余計な事まで話してしまったんじゃないかと少しだけ後悔ぎみの帰り道。九月は深夜でもまだ空気が生ぬるい。けれど電子音を思わせる虫の声も聞こえ始めて、夏と秋の間のぼんやりと滲んだような郷愁が胸をくすぐる。誠司の命日は先週過ぎた。招かれた一周忌法要で、彼のお母さんは未だとても受け入れられていないのだと言わんばかりの悲痛な嗚咽を隠さなかった。誠司の事故現場が駅から家までの間でなかったのは幸いだったと言ってもいいのだろうか。おかげで私は引っ越さずに、あの頃と同じマンションに住み続けている。こういう時、普通は引っ越すものなのだろうか。ごまんといるはずの〝恋人が死んだ人〟ましてや事故死や急死なんて人が私の周りにはいない。小さなため息が漏れた。どちらにしろ既に一年が経過しているのだから、次の契約更新の時にでも考えればいい事だ。
◇
週が明けて水曜日。十八時。まもなく終業というところで久世くんが「田中さん、暇ならこの後飯行きません?」と声をかけてきた。周囲が微風程度にざわめのは、いつもの哀れみと見せかけた好奇の視線の延長。自分では触れたくない腫れ物に誰かが触れてくれのるならその反応を見たいのだろう。
「こういう店だったらチャーハンが定番すよね」
終業後に町中華の赤いテーブル越しに言われる。油でベタつく床にも似て軽くベタついたメニュー表を見たまま「ふーん」とだけ口にした。強風の冷房が効きすぎている店内は長居には向かなそうだ。唐辛子で炒めた挽肉の餡が乗った少子湯麺をチョイスしたのは、きっと寒さのせいだ。
「俺、麻婆麺と半ライス。あと餃子」という彼の言葉に思わず眉を顰めて顔を見る。「チャーハンじゃないの?」と問えば「定番って言っただけです」と打ち返される。数ミリ上がった口角に妙に腹が立つ。
「チャーハンて、マヨネーズ入れるとパラパラになるらしいですよ」
注文を済ませてしまえば共通の話題なんてこれくらいしかないのよね、と彼の出した単語に納得する。だからといって正解らしいリアクションというものも持ち合わせていない。久世くんはスマホをいじり始め、私はもう役目を終えたメニュー表に目を滑らせる。
「あれからずっと考えてますよ。マヨネーズの事」
「無駄な時間ね。早く忘れた方がいいと思う」
「せっかく田中さんが打ち明けてくれた悩みなのに?」
「打ち明けたつもりも、悩みだって言った覚えもないけど」
そんな会話をしている間に、湯気を立てたどんぶりと餃子が目の前に置かれた。二人して割り箸を割る。久世くんは「なんで俺に話したんですか?」と小皿に酢胡椒を作りながら質問してきた。
「醤油の方が美味しくない?」という私の質問に無言でこちらに視線を向け、確認するように小皿を指差した。
「もうこれが定番になってません?」
美味しいか美味しくないか、好みを聞いたのにこの答え。定番だったらなんだというの?
「その自分の感情以外のところで思考してそうな、狡猾で低体温て感じのところかな」
間違いなく失礼であり、無神経でもあるのだけれど。
「ポテサラ食べてたって、飲み会の席で指摘してこなかったから」
あの場で言われたら、周りから余計な詮索をされたかもしれない。
「気が遣えるって言ってくれません?」
「……そう言うには邪なものを感じる」
彼は「あ」と口にしたかと思うと、餃子を酢胡椒の皿につけたまま箸を止め「俺彼女いますよ」と言った。思わず「何の報告?」と訊ねる。
「いや、ヨコシマとか言うから」
不快感が滲み出た溜息を漏らしてしまった。
「久世くんに対しての邪は、邪悪とか悪趣味とかそういう意味。他人の弱みでも探してそうな邪悪さ。そもそも久世くんに彼女がいないなんて一ミリも思わなかった。自分の考える〝普通〟の枠から飛び出さないって事に命懸けてそうだから。彼氏彼女がいるのが久世くんの考える普通なんでしょう?」
彼は悪戯に失敗した子どものようなつまらなそうな顔で餃子を口に運んだ。私ががっかりするとでも思っていたのなら邪悪に加えて自信過剰だ。
「どうして彼氏が死んだ女に興味があるの? ただの無神経な好奇心?」
「女性っていうか、別に男でも興味ありますよ」と言いながら久世くんが酢胡椒に使ったのと同じ卓上のお酢を麻婆麺にぐるりと一周させたのを見て、眉間がむずつく。
「俺、人間が死ぬのにまともに立ち会った事がなくて。遭遇っていうのか」
「身近な人が亡くなった事が無いって意味?」私の言葉に彼は麺をすすりながら頷いた。
「父の方の祖父母は俺が生まれてすぐに死んでるし、母方はまだまだ元気って感じだし、親戚も近いところは死んでないっすね」
彼は葬式に出たことがないのだという。軽いカルチャーショックだ。私は父方の祖父母と誠司の三回、葬儀に出席している。「だからいまいち死ってやつがリアルじゃないんですよね」久世くんはしみじみとした口調で言った。
「無神経さの根源を垣間見た」
「だから知ろうとしてるんじゃないですか」
けれどその理由として「ドラマとか映画で感動してみたいし」と続くのが彼らしい。
「彼氏が突然死んだってどういう気持ちですか?」
あまりの無神経さに軽く咽せてグラスを手に取る。
「さっきの。なんで邪悪で他人の弱みを探しているような人間に打ち明けたんですか?」
矛盾していると訴る彼の目に視線をやった。鼻先から薄らと息が漏れる。
「噂話、しなそうだから」と言うと、何かを思い出しながら「ああ」と言った皮肉っぽい笑いで、それが私だけの感覚ではないのだと少し安堵する。うちの部署は年齢層が高めだからか男女問わず噂好きが多い。プリンティングソリューション部などというよくわからないカタカナ名部署の実態なんてそんなものだ。気遣うフリをして本心では噂話のネタを探している。実に不快だ。そういうところが露骨なコミュニティでは、身近な人間の死が常に纏わりついてくる。それが私にとってのリアルな死というやつかもしれない。
時刻は二十時。「この後どうします? 居酒屋でも行きます?」中華屋の白い暖簾をくぐり抜けて、外気の暖かさにほっとしたところで提案される。
「平日から店で飲むほどお酒好きじゃないの」
「なら田中さん家で飲みます?」
またしても眉根にギュッと力が入ってまつ毛が視界の邪魔をする。種類は判然としないけれど、鳥っぽい顔の微笑みが目線の少し上から注がれている。
「ヨコシマな感情は無いんじゃなかった?」
あやしげな笑みを向けられて、「無いですよ、そんなの。マヨネーズの謎をもっと深く考えたいです」と誰も信じないような事を言われる。ここでムキになって怒るのはきっと彼の思うツボだ。
「……なら、来る?」
怒り気味に断られる事を想像していたであろう目が、「マジ?」と微かに見開かれる。彼が小動物のようだと言われる理由をなんとなく理解した。
会社から乗り換えのない七駅目、三十分程度で私の住む街に着く。久世くんは自分から提案した割に、何度か「マジで行っていいんすか?」と聞いてきた。「謎が解けるまで語り明かそうよ」と、今度はこちらが見上げながらにっこりとした笑顔を作る。もちろん彼だって、こんな言葉を信じるわけがないのだけれど。
駅から徒歩十分。寄道せずに私の巣に彼を招き入れた。この家に男性が入るのは一年振りだ。
寝室兼リビングである狭い部屋で久世くんは「いや無いって、これは」と項垂れている。彼を萎れさせたのは、テレビの横に置いてあるもの。
「賞味期限切れて腐ってんじゃないですか?」
「マヨネーズの賞味期限って未開封なら一年以上なの」
裏返して見せたのは、袋に入ったままのハーフサイズのマヨネーズのチューブ。察しのいい彼にはわかったようだ。これが誠司の傍に転がっていたマヨネーズなのだと。来月が賞味期限なのだと気づいてまた、〝あれから一年〟を実感する。
「萎えた」
「どうして? マヨネーズの謎を解くなら、うってつけだと思うけど」
「性格悪」
やっぱり自信過剰でしょ。私は気のある素振りなんて一秒たりとも見せていないのだから。「いいから飲もうよ」と言うと、勝手に勘違いしてのこのこ付いてきた彼はどこにぶつける事もできない不満が露わな顔で頷いた。
「なんであるんですか、あれ」
ローテーブルを前にゴブラン織のラグに直に座って、二人でベッドに寄りかかる。缶を開けると同時に彼がテレビ台のマヨネーズを顎で示した。それは一年経っても部屋の風景に馴染まず、赤いチェック模様が存在感を放ち続ける。
「彼のご両親がくれたの。困るよね、どうする事もできなくて」
いくら未開封だからといって遺品が食品というのはいかがなものか。
「なんかすごいっすね。謎の言葉だけじゃなくてマヨネーズも遺して死ぬって」
強めのレモン酎ハイを飲みながら感心したように言われる。
「こんな風に他の男と一緒に眺めてたら呪われるんじゃないですか? 彼氏の怨念に」
普通はもっと私を慰めるような事を言う場面ではないのか。
「……大丈夫。呪われるなら、とっくに呪われてるから」
ジンソーダのスチール缶のエッジを舌先で感じたら、ゴクリ、と喉が鳴った。
「だってそうでしょう? マヨネーズの事ばっかり考えて、マヨネーズは嫌いになって」
呪いの言葉の意味はわからないけれど、確信している事がある。
「あの言葉……きっと面白い答えではないと思う。誠司って面白い人ではなかったから」
「どこで知り合ったんですか?」
「高校の同級生」の答えに濁点がついていそうな声で『え』と聞こえ、右隣に顔を向ける。
「十年以上とか付き合ってた感じですか?」
驚愕と嫌悪に満ちたような表情だ。嫌悪というよりは、きっと彼の想定の中にはない交際期間の長さが受け入れ難いのだろう。とはいえ私だって十年なんて交際はごめんだ。
「付き合ってたのは二年くらい。再会したの、同窓会で久しぶりに」
「昔の恋愛感情に火が着いて、みたいな?」
「もっと淡々と。お互い相手もいないし、今住んでるところも遠くないし、くらいの始まり」
同窓会は『第一回 人生の結果発表会』と名付けたくなった。夢見ていた仕事に就いた人、そうではない人。結婚しているだとか子どもがいるのは珍しくなく、もう二人目なんて人も何人か。バツイチもそれなりにいたな。あそこで一度、それまでに歩んだ人生の結果を見せ合ったような気がした。あの時の私は彼氏がいない時期で、仕事にも夢なんて無かった。
「気持ちが焦ってたのかな」と、ポツリと呟いた言葉を久世くんが取りこぼす筈もなく。鳥に似た瞳は瞬間的に爛々と輝く。「好きじゃないのに付き合ったって事ですか?」と問われ、「好きだったよ」と即答する。激しい感情では無かったけれど、それなりに好きだった。
「久世くんは? 彼女がいるってわざわざ私に言ったくせにのこのこ付いてきて」
彼は私の発言に行き場のない薄ら笑いを浮かべた。
「バレなければいい派なんで」と平然と言ってのけて、酎ハイを口にする。
「彼女何歳? 結婚の話とか出ない?」
「意外とつまんない事聞いてきますね。結婚しようと思って付き合ってないです。一つ下ですけど、向こうも自由に遊んでるし」
久世くんの彼女は彼と同じような雰囲気なのかもしれない。きっと容姿は及第点+αで可愛く、流行や空気に敏感で人付き合いをソツなくこなすような。
「でも二十八歳女子は結婚したがってるかも」
ありとあらゆる事で気持ちは揺らぐ。人生の結果発表会は小規模なものが様々な場面で開催されていし、私はバイオリズムにだって存外左右される。殆ど毎月の定期イベントだ。
「そういう意識のズレは話せる時に話した方がいいと思う。死んだらもう、話せないから」
無関心そうな彼の指先で漁られたナッツが、皿の上で擦れて微かな音を立てる。
半分無意識にマヨネーズに視線を注いだ。遺影でも位牌でもなく、マヨネーズ。これはやはりコメディなのかもしれないと思えて「ふ」と皮肉っぽく笑ってしまった。
「田中さんこそ。彼女がいるって知ってて男を家に上げるって、まあまあヤバくないですか? ――倫理観」
目が合う。束の間の沈黙の後、彼の左手が頬に伸びてくる。指の背が頬に触ようとしている。目は、合わせたまま。
「……事故現場って近くなの。見学しに行く?」
熱を感じそうな距離まで近づいていた指はへなへなと床に下ろされ、彼の顔がまた歪んだ。
「マジで性格悪いっすね」
「私の倫理観はまともでしょ。本当にその気がないんだから。あなたの彼女になんて会う事も無いだろうし、家に呼ぶかどうかくらいで義理立てする必要も別に無い。あのマヨネーズの話ができる相手は貴重だし」
「やっぱり悩みなんじゃないですか」
「悩みじゃなくて呪い。他人に呪いの話なんかそうそうできないでしょ。聞かせた相手が呪われでもしたら可哀想じゃない」
彼は眉を八の字にした不満げな顔で「俺は呪われてもいいって事ですか」と言った。とっくに誰かに呪われてるでしょ、久世くんみたいに無神経な奴は。仄かな酔いのせいか、こんな事でケラケラと笑ってしまう。私も彼に負けず劣らず失礼だ。
「同僚と男女の間にあるんだよ。マヨネーズについて語り合うだけの関係も」
「あってたまるか」というツッコミにまた、声を出して笑った。
「マヨネーズだけなんですか? 遺品って」
テレビ台は本棚を兼ねている。そこには誠司の遺した本がいくつか入ったままだ。趣味が合わないというか、小説ではない本なんかもあって一年間棚から出した事はない。
「日本史資料集、世界史資料集、地図帳、国語辞典……学校の先生か何か?」
封印でも解くように取り出してテーブルに並べた本を、久世くんが声に出して列挙した。
「普通の会社員だったけど、いつもそういうものを片手に小説とか映画とか見てた」
彼は無言でなんとも言えない曖昧な笑みを浮かべた。
「歴史小説って私は読まないから。これもそのうちご両親に渡すか処分しないとね」
棚に残った三冊の歴史小説の単行本をチラリと見たら溜息が漏れた。
「思ってたんですけど。全然泣かないんですね、田中さんて」久世くんは地図帳を捲って視線を落としたまま発した。
「普通、知り合ったばっかの同僚に触らせなくないですか? こういう物って」
死がリアルではないと言っていた割にもっともな指摘をしてくる。
「まあ普通がどうかはわかんないですけど」と、彼は顔を上げてこちらを見た。
「ガキの頃、飼ってたハムスターが死んだ直後の友だちの家に行って、ハムスターのカゴにカブトムシ入れたら、泣きながら怒られて絶交宣言されたの思い出しました」
ナッツを見てハムスターを連想したのだろうか。子どもの頃からの無邪気で微妙に加虐的な性格が、久世くんを久世くんたらしめているのだと思わせるエピソードだ。
「だから彼氏が死んだら泣くし、他人に遺品も触らせないし、ましてや処分なんて言葉は出ないものかと思ってました」
「もしかしてまた彼氏が死んだなんて嘘、って思ってる?」
「なんかリアルってそんなものなのかなって感じっすね。ハムスターはハムスターだし」
家族や恋人と同じくらいハムスターを愛している人だってきっといるだろう。だけど私は動物を飼った事がないし、久世くんもその気持ちがわかる人間である筈がない。誠司のお母さんはあれだけ泣いていたのだから、ハムスターへのリアクションの方がきっと正しい。
「私はね、なんで死んじゃったかなぁってそればっかり。乾いてるの。一年前から」
ミックスナッツに紛れた大粒のコーンは、カリ、サク、と小気味の良い音を立てたけれど苦手な風味を舌に少し感じた。ジンソーダは最後のひと口。
「マヨネーズなんて買いに行かせなければ良かった?」
「私が買いに行かせたわけではないけどね」
後悔が無いと言えば嘘になる。あの日を思い出して、あの言葉を考える。頭の中でリピートされるそれらはやはり呪いだ。空っぽの缶をテーブルに置いて納得する。私って酷い女だ。今食べたコーンくらいカラカラで、異物的な居心地の悪さをずっと感じている。
「なんかもっとヒントになるような事ないんですか? 読んでた小説に出てくるとか」
「歴史小説にマヨネーズが出てくると思う?」
「どうかな。マヨネーズが日本で売られるようになったのが大正とかでしたっけ」
久世くんはもう、私よりもマヨネーズに詳しくなっている。葬儀以来、誠司の親族以外と彼の話をするのは初めてかもしれない。同級生だったから共通の知り合いも多く、事故の報を受けた友人たちからはメッセージが沢山届いた。通夜は同窓会のような顔ぶれで、あの夜は各々が誠司の思い出を口にして涙した。もちろん私だって泣いた。けれどあれから今日に至るまでの一年以上、私は誠司を知っている友人には一度も会っていない。だって、会えば必ず彼の話題になると想像がつくから。
「高校の頃も教科書や資料集なんかをよく見てる人だった」
「その頃から仲が良かったんですか?」
「特別仲が良いって事はなかったよ。棚尾と田中で席が隣同士だったの、それだけ」
高校三年で同じクラスになって、出席番号での最初の座席配置で私と誠司は隣になった。
「時々、そういう資料で見た事や雑学なんかを教えてくれだけど全然面白くなかった」
頭の中では高校生の誠司と私が話している。久世くんは軽い口調で「ひど」と呟いた。
「そこら辺の女子高生が血判状の署名がどうとか、白寿や米寿の名称の由来だとか興味があると思う?」
彼は何も答えずに苦笑いで地図帳をテーブルに置いて、酎ハイを飲み干した。
久世くんが帰った部屋でラグの上に無造作に置かれた誠司の本たちはマヨネーズと同じくらいの存在感を放つ。棚に収まっている時は目に入らなかったというのに。この手の本は形がバラバラで邪魔に感じた。だから何度か自分の家に持って帰って欲しいと言ったのに。『小説はそのうち持って帰るけど、他のはここに置いておかせてよ』それが彼のお決まりの返答。『紫乃も使っていいから』までがセット。
「いつ使うのよ」と呟いて、開かずにまた、封印した。
体質なのか気のせいなのかはわからないけれど、私はアルコールを摂取すると寝つきが悪くなる。シャワーを浴びてベッドに潜り込んだところで、目を閉じても睡魔は訪れない。「気持ち悪」とポツリ。誠司の遺した言葉を聞いて久世くんはマヨネーズについて調べたようだけれど、私は【夜明け】という言葉の方を調べた。文字通り夜が明ける時間、明け方、そして新しい始まり。シェイクスピアは『夜明け前が一番暗い』と『マクベス』の中で書いているらしい。〝苦しい時期を過ぎれば、希望の陽が射し始める〟そんな意味だ。もっとも私は『マクベス』どころかシェイクスピア自体を読んでいない。誠司の家の本棚には当然のように何冊か並んでいたけれど。サラサラのシーツはもうずっと乾いたまま。やわらかい砂みたいだ。
◇
久世くんを家に上げた夜から一週間が経過した。「今日、また田中さん家で飲みません?」帰り際、たまたま乗り合わせたエレベーターで久世くんに言われ、断る理由に一瞬思考を巡らせる。そして三六〇度暇な自分に軽く虚しさを覚えるけれど、それが彼を招く理由になるわけでもない。断ろうと唇を動かしかけたところで、
「わかったかもしれないです。夜明けの食べ物」
瞬間的に目を見開いて左少し上にある顔を見る。
「え……何? 何だったの?」
気になりながらも恐る恐るの私の言葉に、彼の口角がもはや見慣れた角度に上がる。
「田中さん家じゃないと教えらんないです」
「さすがにそう何度もってわけにはいかないでしょ。なんだかんだで彼女に申し訳ないし」
「別れたから大丈夫です」
思わずまた視線を上げれば、「気になります?」とニタリと笑われ、眉間に力が入る。久世くんと彼女の件は一週間での急展開という点で好奇心が刺激されない事もないけれど、そんな事は比ではないくらい�〝夜明けの食べ物�Uの方は死活問題的な重要事項だ。
夕飯は駅前のアジア料理店で惣菜を選んでテイクアウトした。パックのままつつく事にした惣菜たちを小さなテーブルいっぱいに並べながら、浮き足立つのを抑えられずに答えを聞こうと「それで?」と質問する。
「何が?」と返され「何って――」まで言って、はあっと息を漏らした。久世くんの性格でこの状況を玩具にしないわけがないのだと、少し冷静になればわかる。輸入もののビールの缶をこちらに渡しながら笑っている彼を見ながら後悔する。
「ちゃんと教えますよ。少しくらいは俺の失恋パーティーもしてください」
若干渋々という空気を漂わせながら乾杯をする。ソムタムと呼ばれる青パパイヤのサラダ。彼は初めて食べたようで、「辛」と舌を出してすぐにビールを口にした。
「失恋って感じでもないんでしょ。どうせ」
視線の先では隣り合った生春巻きがベタベタとくっついて、割り箸では余計に取りづらい。
「『俺と結婚しようとか思ってる?』って聞いたらなんか、流れで」
「うわあ……」と漏らしたのが、心の声なのか口なのかわからなかった。
「『思ってたらどうなの?』って質問で返された時点で半ギレって感じで『いや無いでしょ』って言ったら『思ってないけど、ムカつく』って言われて終了」
十秒で終わる失恋話に妙な感心を覚える。甘辛いソースをつけた生春巻きを頬張りながら、頭の中で「賢明だ」と顔も知らない彼女を称賛した。
「『結婚しようとか思ってる?』の『とか』が腹立つ」
「田中さんが結婚の話しとけって言うから話したんですけど」
「ひとのせいにしないでよ」
ビールをグビと飲み込むと、強い酸味に包まれた香ばしい風味が鼻から抜けた。
「でも良かったじゃない。お互いの意思がはっきりして」
「生きてるうちに?」
何気なく問われただけなのに心臓が外れた脈を打つ。馴染みのない酒のせいかもしれない。タイ風の焼きそばにレモンを絞りながらふと、誠司がレモンを嫌がった事を思い出す。パクチーもナンプラーも苦手だと言っていたから、アジア系の料理はあまり食べなくなった。言ってしまえば、食の趣味があまり合わなかった。
「田中さんて、結婚したいんですか?」
「うん、まあ」と曖昧に頷く。続けて「彼氏と結婚したかった?」と聞かれ、焼きそばをつまんでいた箸が一瞬止まる。そんな話をしても意味が無い。だって彼はもういないのだから。テーブルの上の料理が減っていく。これが無くなったら、一年越しで夜明けの食べ物の意味を知るのだろうか。誠司が何を思っていたのかを。
二十分もすればパックの料理はもうまばらで、開けたてのような華やかさはどこにも無い。空になりかけた二本目のビールを片手に思わず溢す。「気持ち悪い」と。
久世くんに「酔ったんですか?」と声をかけられ首を横に振った。「夜明けって単語、気持ち悪いなって思って」と言ってみても全くピンとこないという表情をされ、ふぅと薄く息を吐き出す。
「私ね、誠司の事」被せるように久世くんがビールのタブを明けるプシュという音が響く。
「好きじゃなかった」彼は缶に口をつけて、「でしょうね」と驚きの無い声で言った。
「思い出話にいいところが無かったし。というか、いいも悪いも無い。空虚ってやつ? 好きじゃなかったんだなって思ったけど、好きだったって言うから」
「あれは――あれだって嘘じゃない。好きだって思う瞬間だってあった」
久世くんは「瞬間」と繰り返して小さく笑う。交際を始めた時点で、恋心ではなかった。懐かしさ、それに消去法で作り出した箇条書きみたいな親近感。そんなものは二年の間にボロボロにほつれていった。
「本当は、別れたかったの。あの週末にも別れ話をしようって思っていたの。ヒリついた空気になる事だって増えていたんだから、誠司だってそういう空気に気づいていたはずで……」喉の奥が苦しくなる感覚と一緒に唾液を飲み込む。
「それなのに〝夜明け〟なんて気持ち悪いでしょ……暗い時期をやり過ごして、関係を続けようとしているみたいで」
〝苦しい時期を過ぎれば、希望の陽が射し始める〟
私はそんな事を全く望んでいなかったのに。随分前から身体だって重ねていなかった。触れたくなかった。酔い覚まし用に買っておいたジャスミン茶のキャップをひねる。久世くんは今の話をどう思ったのだろう。平静な顔つきからは何の感情も伝わってこない。
「気になりません? 例の言葉」微笑んでいるようにも見える半月形の目で問われる。
「それとも怖いですか? 知るの」と続き「怖いって、何よ。怖くなんか」と声が少し上擦って、クスリと可笑しそうな顔をされる。
「そんな身構えるような事じゃないですよ。俺の答えが合ってればですけど」
久世くんは私に背後の棚から国語辞典を取り出すよう促した。
「単純といえば単純な話です。タナオとタナカ、みたいな」
久世くんは辞書特有の薄くてハリのある紙をペラペラと捲っていく。彼は「ああ。やっぱり」そして「ほらここ」と、ある箇所を指差した。その指先には【真夜中】と【マヨネーズ】の項目が並んでいる。見せられたところで久世くんに比べて察しの悪い私にはピンと来ず、きょとんとするばかりだ。
「言葉遊びっていうのかな。真夜中の次に来るのが」
「マヨネーズ……」と、見えている事を、ただ口にする。
「わかんないですか? 真夜中の次って事は真夜中が終わった後、つまり夜明け。だからマヨネーズが〝夜明けの食べ物〟なんじゃないですか?」
彼の指先と顔を交互に見た。真夜中の次だから夜明け。確かに久世くんの言う通り、単純な言葉遊びだ。「ふ、ふふ。あはは」と笑いが込み上げる。背中に置かれた例のマヨネーズを手にする。そして、バリバリと音を立てて袋を開け、チューブを滑らせるように一息に取り出した。赤いキャップを開けたところで瞬間的にイラつきながら指先でカリカリと銀のラベルを剥がす。
「田中さん? え、ちょ……」
ほとんど空になっているソムタムのトレーにめがけて絞り出す。というより、一気にぶちまけると言った方がしっくりくるのかもしれない。途中、ブチュブチュと品の無い音を立てながら、薄黄色の油のクリームがトレーを満たしていく。ハーフサイズだってそんなトレーに中身が収まる筈がなく、だらしなく溢れ出たところでチューブの方が空になった。それからスプーンを手にしてドロドロの沼に突っ込む。一口分は思いのほかたっぷりとスプーンを満たした。喉がゴク、と鳴る。1年振りにマヨネーズそのものをダイレクトに口に入れる。
予想以上の酸味に、「ケホッ」っと間抜けに咽せた。久世くんは「何やってんですか」と呆れながらティッシュの箱を渡してきた。
「決めてたの。答えがわかったら食べようって。無くしてしまおうって。ああもう、本っ当に気持ち悪い!」言いながら、口の中の酸味に笑ってしまう。
「真夜中の次だから夜明け? 何それ、全然ピンとこないし全く面白くもない」
一年考えてもわからなかった答えがそんなもの。マヨネーズをまた口に含む。一口目より驚きはないけれど、キツい酸味に口内が蹂躙される。
「別れてしまえばただの元彼になる筈だったのに」
久世くんは何も言わずにこちらを見ている。
「知ってた? 別れたら〝元彼〟だけど、死んだらずっと死んでしまった〝彼氏〟なの。それになぜか誠司は完璧ないい奴で、私は今でも彼を想ってる事になってる」
彼を悪く言えば、たちまちこちらが悪者になりそうな空気。別れたがった私は恋人に擬態した偽物のようで、泣く資格が無いように思えた。
「もっと早く別れたら良かったんじゃないですか? 二年も付き合わないで」
「二十代だったらね。考えて考えて結論を出したの。なのに言う前に……。生きていてくれたら今頃、趣味も合わなくて面白くもなかったただの元彼だったのに。思い出にしなくて良かったのに。スルーできずに纏わりついてくる。ずっとずっと、きっと一生」
月命日にだって思い出す。口の中のベタベタと消えない酸味みたいだ。
「だけど別に、死んで欲しいほど憎んでいたわけでもないのに」
そこまで憎んでいたわけでもない。鼻先がツンとして、喉の奥が熱い。ケホケホとまた咽せたのと同時に、頬を熱いものが伝った。誠司のために泣くのは葬儀以来初めてだ。ティッシュを取ろうと手を伸ばすと、久世くんはどういうわけか「あはは」と盛大に笑い出して「気持ち悪」と言った。誠司の存在の気持ち悪さに同意してくれたのだと「でしょう?」と言うと、彼は首を横に振った。
「いや、違いますよ。気持ち悪いのは田中さん」
訝しんで彼を見たままティッシュで涙を拭う。
「勝手に彼氏の気持ちがまだあったって決めつけてるけど、別れるって意味の夜明けだったかもしれないですよ」と、意地悪く笑われる。
「考えて考えて結論を出した? でも言えてないじゃん。彼氏が生きてても自分からは別れてないですよ、田中さんは。なんなら流されて結婚してたでしょ」
彼はずっと笑っている。
「会社で噂されるのが嫌なら転職すればいい。思い出したくないならマヨネーズなんかさっさと捨てて引っ越せば良かったんですよ。結婚してなかったんだから」
「そんなこと……」
「できなかったんですよね。受け身で保守的だから、決断するのが面倒で」
笑った顔に腹が立って、癇癪を起こしたように泣きながらマヨネーズを思いっきり掻き込む。そして今度はゲホゲホと盛大に咽せてマヨネーズも飛び散る。久世くんはますます大きな声で笑い出す。
「その顔、最高におもしれえ。どうでもいい事に囚われて、呪いって。リアルな死って感じ」
目に涙を溜めて笑う彼は本当に感心しているようで、かえって癪に触る。
「写真とか撮ってもいいですか?」
「あんたなんか、一生映画でもドラマでも感動できるわけない」
笑われて、ムカついて、怒りながらまた泣いて。この一年が本当に間抜けで馬鹿らしく思えてくる。「……なんでこんなに酸っぱいのよ」と溢せば、久世くんは「腐ってんじゃないですか?」と、また大笑いだ。夜が、こじ明けられようとしている。
〈了〉
