女による女のためのR-18文学賞

新潮社

水を得にゆく魚

水登マヤ

 「お願いです。返してください。死んでしまいます」
 流暢な日本語でそう絶叫すると、女性は窓口の机に突っ伏して泣き崩れた。
 彼女を連れてきた納税課の同僚の目は半分しか開いておらず、疲労が隠しきれていない。同僚は「ごめん」と私に向かって口のかたちだけで言う。面倒を押しつけられた怒りをぐっと堪え、私は神妙にうなずいてみせた。
 「ランさーん、大丈夫ですか。ここにティッシュあるので、使ってくださいね」
 老人に話しかけるように、腹の底から声を出す。ランさんの肩を軽くたたきながら、彼女の顔のそばにティッシュ箱を寄せた。
 「お願いします。お願いします。次は払いますから、お金返してください」
 涙と鼻水でふやけた顔が、ずい、と迫ってくる。あまりの迫力に声が出かけたが、すんでのところで唾をのみこんだ。
 「さっきの納税課でもお話があったと思いますけど、お金は返せないんですよ」
 「あれは、お父さんが使わないようにわけていたお金です。子どものためのお金ですよ」
 事前に内線で聞いていたとおりの内容だった。健康保険料を十五万円滞納していたベトナム人のランさん。納税課の調査で、約八十万円の預金がある口座の存在が判明し、今朝、差押が執行された。口座が凍結されていることを知ったランさんは、慌てて区役所にやってきて、あの口座はギャンブル依存症の旦那にバレないよう、生活費などを蓄えておくためのものだったと泣いて弁明した、らしい。
 「でもね、お金があるのに税金を払わないのは、いけないことなんです」
 そう言いながら、ぽこりと、気泡のように感情が生まれる。
 なにが、いけないんだろう。
 誰かが勝手に決めた制度で、生きているだけで支払い義務が生じて、提示された額を問答無用で払わせられて……いやいや、だめなものはだめなんだ。私は指先で気泡をつつき、それは音もなく爆ぜる。
決められていることだから。みんな従っていることだから。納税は国民の義務。義務を果たさないのは悪。差押をした同僚も、ティッシュを差し出すことしかできない私も、なんにも悪くない。だって、国が決めた方針にしたがっているだけなんだから。
 あれこれ言い聞かせて、こぼれた液体のように広がっていきそうな思考を拭い去って、私は今日も息をする。
 「さっきの職員からちょっと聞いたんですけどね、ランさん困ってることないですか」
 課の仕事に頭を切り替える。納税課の同僚がランさんをここ――市民参加推進課に連れてきたのには、もちろん理由があった。
 真夏にもかかわらず、ランさんは長袖長ズボンで、首にはスカーフまで巻かれている。彼女の出身を鑑みると、宗教上の理由とは考えづらい。口元の一部が黒ずんでおり、右側の頬だけが不自然にふくらんでいた。庁内のシステムで調べると、彼女より一回り年上の日本国籍の配偶者の収入は、二年前から申告されていない。
 私は前傾姿勢になり、ランさんに小声で告げる。
 「もし、困っていることがあるなら……たとえば旦那さんに暴力をふるわれているだとか――」
 私の話を聞き終わる前に、まるい瞳をさらに大きくして、ランさんは力強く頭を振った。
 「大丈夫ですよ。なにもないです。お父さん、やさしいですから」
 唇のあいだ、糸が引いているのが見える。蛍光灯に照らされぬらぬらと光る糸は、ランさんの乾いた笑いと同時にぷつりと切れた。
 新卒で区役所に入庁して、七年が経とうとしている。道理や信念を振りかざすだけの気概も余裕も、私の体のどこにも存在していない。
 道理や信念を声高に叫び、世の中の不平等を憂い、他人が直面する過酷な現実に心を痛め、地球の未来を悲嘆する。そんなことをしていたら、私の現実は回らない。己の先行きを憂うことのない盤石な経済力と、他人の痛みに共鳴できる余裕のある心。残念ながら、どちらも今の私には持ち得ないものだ。
 私には踏み込めない境界がある。いや、踏み込んではいけないと言ったほうが正しい。これは一種の自己防衛なのだ。だから私は、預金が八十万あるのに十五万の税金を滞納していた、という事実だけを見ることしかできないし、お父さんはやさしい、というランさんの言葉を信じることしかできない。
 仕事の昼休みが終わってしまうというランさんを見送り、吸い込まれるように自席に戻った。忘れないうちに折衝記録を、とキーボードに手をかけるのと同時に、デスク上に缶コーヒーが差し出される。
 「蓮田さん、お疲れさま。ちょっと難しい案件だったね」
 下膨れの顔をふくふくとふくらませて、課長は上品に笑う。入庁した当初、同期のあいだで「平安貴族みたいな上長がいる」と話題になったのを私は今でも覚えている。その後、課長が世田谷生まれ、世田谷育ち、世田谷在住であることが判明し、誰もが「そりゃ貴族だわ」と納得したところまで、鮮明に思い出せる。
 「午後一発目にかなりパンチありましたよ。これ、ありがとうございます」
 窓口対応中の職員がいないことを確認しつつ、課長が差し入れてくれた缶コーヒーのプルタブに手をかけ、ぐいぐいと茶色の液体を喉に流し込む。缶のふちについたコーヒーの粒が、ランさんの頬を滑り落ちていった涙を思い出させた。
 「あの女性は結局なにも話してくれなかった?」
 「はい。なんでもない、の一点張りで」
 中学生の娘さんが選んでくれたという、トムとジェリーの柄のネクタイをちりちりと指で擦りながら、課長は「そっかあ」とつぶやく。
 「ああいうの見ると、切なくなるね」
 課長がランさんの座っていた窓口に視線をやるので、つられて私もそちらを見た。
 「離婚してしまったら、在留資格がなくなりますもんね」
 離婚、という言葉自体に嫌悪感を示すように、課長は眉間にしわを寄せた。
 「あれだけ日本語が堪能なんだ。きっと賢い女性のはずだよ。それなのに、貧しさゆえにしょうもない年のいった男につかまってさ。やるせないよね」
 降り積もったばかりの雪のようにシワひとつないシャツと、娘が選んでくれたネクタイと、鋭い光を放つ結婚指輪。幸福をべたべたと張り付けた体で、よどみない口調で、課長はそう言い切る。課長は、そう言い切れるところにいる。

 忙しなく動き回る女性陣を前に、私は圧倒される。
 居間とお勝手の敷居を前にもじもじとしていると、空のビール瓶を回収してきた姉に「邪魔だからあっちいけ」と追い払われた。
 「真由子ちゃんはいつこっちさ戻ったんだ?」
 その様子を見ていたのか、見事な手捌きで刺身を盛り付けながら、伯母さんが私に声をかけてくれる。
 「昨日の夜の新幹線で……」
 「そりゃ大変だした。夜帰ってきたんでは疲れてっぺ。そっちさ行って休んでろ」
 遠回しな戦力外通告。私は「はあ」と間抜けな声を漏らしながら、それもそうだ、とひととおり自分を納得させる。
 ビール足りなくなる? スイカは切って冷やしてるのよね? とお勝手のマエストロと化した母は、おそらく私の存在すら認識していないだろうし、生後四カ月の三男をおぶったまま、居間とお勝手を往復する姉は、スパルタンの戦士さながらの顔つきだ。この戦場に私が投入されたところで、状況は悪化こそすれ、好転はしないだろう。
 こっそりと場を離れる。結婚も出産も経験していないアラサーの私は、地元ではいつまで経っても戦力外で、『子ども枠』のまま。女性陣が成す潮流に乗り切ることができない、一人ぼっちの魚だ。いや、一匹ぼっちと言うべきか。いやいや、正しくは一尾ぼっち?
 午前に祖父の一周忌の法要を終え、親族一同が祖父母の家に集まっていた。女性陣がお勝手で昼食の準備をしている傍ら、続き間の襖を全開にした広間には、すでに酒の匂いが充満している。
 酒を煽る男性陣と、マリオカートに夢中になっている甥っ子たち。どちらの輪に加わるのも気が引けた。永遠に酌をし続けながら、昭和産純正ノンデリおやじたちの餌食になることも、子ども特有の純粋な善意や悪意にさらされるのも、どちらも御免だった。
視線を動かし、部屋の隅、一人でスマホを見つめている懐かしい横顔をみとめる。私は迷わずそこへ向かった。
 「お久しぶりです、リカさん」
 リカさんのスマホからは、私の知らない言語がのったメロディーが流れていた。ざらりとした畳の感触が、ストッキング越しに肌を刺す。
 「まゆこちゃん、ひさしぶりね」
 耳ざわりのよい抑揚が、私の名前を呼ぶ。マジックで描かれたようにくっきりとした二重まぶたと、艶のある褐色の肌、とうに四十を超えているはずなのに、リカさんの美しさは初めて会った二十年前とほとんど変わらない。
 自分から話しかけたはいいものの、どう会話を続けていいかがわからない。どうしたものかと考えあぐねていると、続き間の隅に、ぽつんと洗面器が置かれているのが目に入った。
 「リカさん、あれ、なんですか?」
 リカさんの視線が、私の指先をたどる。「ああ」と合点したように言ったあと、リカさんは、んー、あー、と唸りはじめる。
 「んー、あれね、ひなこちゃんの子ども、まちゅりで、とってくる魚よ」
 やっとのことで出力された言葉は、私の頭のなかで自動翻訳される。「お姉ちゃんたちが、夏祭りでとってきた金魚?」私が文章を整えると、リカさんは「そう!」と目を見開いて笑った。
 幼いころ、私が夏祭りで獲ってきた金魚を見て、「気持ち悪い」と一蹴した姉の姿がよみがえる。姉は魚に限らず、虫や両生類など、毛の生えていない生き物に謎の嫌悪感を抱く質で、一週間もせずに近くの川に金魚を放流した前科持ちだ。そんな姉が、子どもと共に金魚すくいに興じ、ご丁寧に洗面器まで誂えているなんて。これが母になるということなのか。趣味嗜好が誰にも依拠することない自分のことが、途端に恥ずかしく思えてくる。
 「まゆこちゃんはー、いちゅまでいるの?」
 リカさんはスマホを置き、私にそう訊ねた。
 「明日東京に帰ります。月曜の仕事が休めなくて。リカさんは今日仕事お休みだったんですか?」
 「ちがうよー、六時からこうじょう行く。このあいだひとやめただから、リカ、休めないよ」
 リカさんは首をすくめ、大げさにため息を吐いた。
 二十年前、リカさんはフィリピンから叔父のもとへ嫁いできた。当時小学生だった私から見たリカさんは、成熟した女性に見えていたけれど、いま振り返ってみると、当時のリカさんは二十歳になったばかりだったはずだ。叔母と姪という関係ではあるけれど、私とリカさんの年齢は一回りも変わらない。
 高校を卒業して地元を出るまでは、祖父母の家が自宅からそう遠くないこともあって、頻繁にここを訪れていた。リカさんは叔父とともに祖父母と同居していたので、私はリカさんとよく顔を合わせていた。日本語が堪能でないリカさんと多くの言葉を交わすことはなかったけれど、母国の料理を作ってくれたり、一時帰国した折にはお土産を買ってきてくれたり、それなりの交流はあった。しかし、私が大学入学を機に上京し、帰省する頻度自体もめっきり少なくなったため、今回、リカさんと会うのは数年ぶりなのだ。
 「真由子ちゃんとリカさんはナマモノ食えねんだっけな」
 息を切らした伯母さんが、納豆巻きやいなり寿司がびっちりと整列したお惣菜パックを私たちの前に並べてくれる。変わることのない私の嗜好が後ろめたい。
 配膳くらいなら手伝える、と膝を立てたが、カルピスのペットボトルを運んできた母に「もう終わった」と制されてしまった。私の真向かいで、リカさんは胡座をかいたまま、スマホに目を落としていた。
 「真由子さ、成田空港って行ったことあんだか?」
 おもむろに母が言う。いなり寿司をお茶で流し込んでから、「あるけど……なんで?」とおそるおそる訊ねる。
 「リカさんのお母さんの具合が悪いみたいで、今度一時帰国するんだって。今まではほら、仙台空港から便が出てたけど、コロナのアレでなくなったべ? んだから成田まで行かねっかなんねえのよ。本当は正彦おんちゃんが送っていければいいんだけんちょも、仕事休めねんだってさ」
 名前を呼ばれた叔父は無言で席を立ち、縁側に向かった。食後の一服でもするつもりなのだろう。当の本人であるリカさんも、会話には参加してこない。
 「あんた、リカさんのこと成田まで送り届けてやってよ」
 母はそう言い切ると、イカの握りをひと口で頬張った。無責任に放り投げられた言葉が、空中に浮遊する。
 私は、縁側で煙草をふかしている叔父のほうへ目を向けた。フィルターから立ち上る煙が、叔父のグレーヘアーにとけこんでいく。窓は閉じられているのに、なんだか部屋まで煙たく感じた。
 ここには、配偶者や身近な女を通してでないとものを言えない男が一定数存在する。お父さんが――って言ってたけど、どうする? おじいちゃんが――だったらいいよ、だって。男たちの言葉は、いつだって伝聞系だ。それに気づいたのは高校生のときだった。当時の私は、自分の口で意思を伝えたら死んでしまう病気にでもかかってんのかよ、といちいち苛立っていたものだ。
 ここは、なにも変わらないのだな、と思う。心はおそろしいほどに凪いでいる。私の心にはかすかな波風も立たない。何度も苛立ち、絶望し、ここを出ることに決めたのだから。その土地や時代に根付いた価値観があって、それを変えようとするのは、きっと傲慢なのだ。そう思うことにしたのだから。
 そのとき、ばしゃ、と水のこぼれる音がした。何事かと音のしたほうを振り向くと、甥っ子が、金魚の入った洗面器のそばにいるのが見えた。
 「あー、こら!」姉がウーロン茶の入ったグラスを勢いよく置いて、赤ん坊のもとへ駆け寄っていく。「なになに」と言いつつ誰も動こうとしないので、私も姉のあとへ続く。
 赤ん坊がふざけて洗面器のふちに手でもかけたのか、水が半分ほどこぼれ、金魚が二匹、畳のうえに放りだされていた。「なにやってんの、もう!」金切り声を上げながら、姉は下半身をびっしょり濡らした息子を連れていく。
 放置された二匹の金魚は、畳に吸収されきらなかった水だまりのほうへ向かって、びち、びち、と健気に跳ねている。
魚は、陸で生活ができないから水を求める。私も同じだ。私も金魚も、陸で生きることがつらいからといって、自分のいる場所を水で浸してやろうとは思わない。水を、海を求めて、私が跳ねていけばいい。
 「かわいそう」
 声がすると同時に、横から手が伸びてくる。リカさんは、手でお椀のかたちをつくって、金魚をやさしくすくいあげた。水を得た魚、という言葉のとおり、リカさんの手から放たれた二匹の金魚は、ものすごいスピードで洗面器のなかを泳ぎはじめた。
 リカさんと二人で畳にこぼれた水を拭き、輪のなかへ戻った。「さっきの話だけど」そう切り出すと、母が素知らぬ顔をしつつ、視線だけでこちらを見る。
 「いいよ。空港まで連れていく」
 「いいってよ」と母が大声で叔父に呼びかけているのを見ながら、日程によっては有休をとらなきゃいけないかも、とか、送り届けるって、ここから成田まで? とか、リカさんと二人で間が持つのかな、とか、ぽこぽこと懸念が浮かんでくるが、もう遅い。
 「ありがとう、まゆこちゃん」
 リカさんが無邪気に笑うので、私もとりあえず破顔してみせた。

 泥酔した大叔父がいびきをかいて寝始めた午後四時、会はお開きとなった。さすがの私にも片付けへの参加資格が与えられ、無限に運び込まれる食器を無心で洗い続ける。
 母は余った料理をパックに入れ替え、伯母はごみの分別、姉は熟睡する子どもたちを覚醒させ――各々が帰宅に向けて動くなか、この家の住人であるリカさんは、黙々と野菜を刻んでいた。
 しばらくすると、香辛料の刺激臭と、湯気の熱気がお勝手に満ちてきた。私がすべての洗い物を終えると同時に、リカさんが使った鍋が流しに追加される。
 リカさんはひとり食卓につき、赤い汁に浸った麺をすすりはじめた。ず、ず、がさ、がさ、ず、ずず。麺をすする音のあいだに、母が総菜パックをゴミ袋に詰める音が鳴る。仕事前の腹ごしらえだろうか。私は、馴染みのない色と匂いをまとう鍋を水につけながら、一心不乱に食事をするリカさんをぼんやりと見つめる。
 「日本人のお嫁さんだったらなあ」
 食事を終えたリカさんが、彼女の自室がある二階に上がっていったあと、母がそう言った。
 「みんなが一生懸命片付けしてる横でさ、自分のご飯だけ用意して、勝手に食べてって、ちょっと考えられねどな。リカさんさ、じいちゃんの介護もなーんも手伝わなかったんだよ。あたしが仕事終わりに毎日ここに来て、じいちゃんにご飯食べさせて、オムツ取っ替えてってしてんの見てんのに、知らんぷり。今みたく自分のぶんだけ用意して食べて、さっさと二階さ上がってくんだから」
 「やっぱな、お国柄なんだべな。ちょっと日本人とはちげえどな」
 伯母さんが、母を慰めるように同調する。
 私は日本人だけど、旦那の両親の介護なんて御免だと思う。親の尻を拭くのは、尻を拭いてもらったことのある人間がやればいい。きっとそんなことを母の前で口走ったら、冷たい女だとか、独身だからそんなことを言えるのだとか、豪雨のような非難を浴びせられるにきまっているので、口が裂けても言わないけど。
 リカさんが祖父の介護に協力しなかったことも、私はべつになんとも思わない。むしろ、外国から嫁いできたリカさんにそこまで求めるのは酷だとすら思う。だけど、私はおとなしく母の愚痴に相槌を打ち、「いろいろあるね」と無責任に言う。母の言葉も、リカさんの態度も知らんぷりして、私が楽に呼吸できる海の住処を恋しく思いながら、へらへらと笑うのだ。

 上野駅の中央改札の前、私は何度目かわからないため息を吐いた。平日の昼過ぎだというのに人の往来は激しく、そのうえ構内は異常に蒸し暑くて、私はハンカチを左右に振ってなけなしの風を作り出す。
 リカさんが乗る新幹線はすでに到着しているはずだが、私はもう三十分以上待ちぼうけをくらっていた。前日にラインで、中央改札集合と伝えたし、リカさんからは不細工なウサギがグッドポーズをしているスタンプが送られてきたのに。
 十分前に送った『上野着きました?』というメッセージには既読がついているものの、返事はない。とりあえず電話でもしてみよう。通話マークをタップしようとした瞬間、トーク画面が更新される。
 『えきつきましたよかいだんきっぷどするでもまゆこちゃんいないちがうとこいくほがいい』
 唖然としながら、三度読み返す。四度目に入ろうとして、観念して通話マークをタップした。
 結局、リカさんは中央改札という概念すら理解できていなかった。位置情報を送ってもらい――これを送ってもらうのにもかなり時間がかかった、未だに改札から出てもいないことが判明したので、入場券まで買って改札内まで迎えに行く羽目になった。
 「上野おりるーわかるけどね、リカ、かんじーよめないだから、んーここかーおもて降りたよ。でもね、たぶんーまゆこちゃん言てたところない気がして――」
 改札内の女子トイレの前で合流すると、リカさんは早口でそう畳みかけた。リカさんは興奮すると早口になって、母国語の速度で日本語を話す。私はてきとうに相槌を打ちながら、改札への道を先導した。
 二十年。その間、何度か帰国することはあれど、リカさんの生活の拠点は日本だった。二十年という、けっして短くはない時間を日本で過ごした人間が書く文章だとは、とても信じられなかった。私は無責任にショックを受けていた。
 私が小学三年生のとき、リカさんは叔父と結婚した。叔父は新卒から変わらず役所勤めで、無口で、社交性の対極にいるようなひとで、四十を過ぎても結婚歴がなかった。容姿は悪くないけれど、いつも仏頂面で、いざ口を開いても訛りと吃音がひどくて、私は昔から、叔父さんの言っていることの七割くらいは聞き取れなかった。
 結婚は、突然だった。当時十歳だった私は、叔父とリカさんは祖父母の知人の紹介で知り合った、とだけ聞かされた。
 リカさんとは、結婚式当日に初めて会った。そこで、『理香』は日本での名前だということも知った。リカさんの本当の名前を、私はいまも知らないままだ。
 「今からまた電車乗りますけど、スイカとかって持ってますか?」
 とりあえず聞いてはみるが、予想どおり、リカさんは大げさに顔をしかめて首を振るだけだった。
 京成上野駅に続く高架下、リカさんが引っ張るキャリーケースのタイヤ音が膨張し、響き渡る。その音に負けないよう「帰国するときも使うと思うので、スイカ買いましょう」と叫ぶ。「うん、わかた」となんにもわかっていなそうな困り顔で、リカさんも叫ぶ。
 「スイカっていうのは、お金をチャージするカードのことで……これがあると、駅で改札に入るときにわざわざ切符を買わなくてもいいので楽なんですよ」
 券売機の前で私が説明すると、リカさんは怯えたような表情になる。
 「リカ、そういうのわからない」
 「簡単ですよ。カードにお金を入れればいいだけ。なくしたりするのが怖いなら、モバイルスイカっていって、スマホで管理できるのもあるし」
 「ううん、リカ、わからないよ。まゆこちゃん、きっぷ買うーしてくれるリカ大丈夫」
 「でもほら、リカさん免許ないから電車使いますよね?」
 「リカ、電車のらないよ」
 「買い物行くときとかは? 自転車じゃ行けないところもあるでしょう」
 「買い物いくとき、お父さん車のる。だからーいらない」
 リカさんは頑なだった。なんだか途中から馬鹿らしくなってきて、私はおとなしく券売機でリカさんの分の切符を買った。
 「叔父さん、やさしいんだね」
 ホームで電車を待つあいだ、間が持たなくなって、なんとなしにそう言ってみた。
 「やさしいないよ。お父さん、リカがはなしするいつも無視よ。リカ、買い物行きたいー何回も言う。お父さんいつもめんどうくさい言うね。スマホほしい何回も言たよ。このあいだやっと買うーくれた」
 リカさんは、カバーのついていない丸裸のスマホをいとおしそうになでる。
 私は思わず目をそらした。どうしてか、それ以上その姿を見たくはなかったし、これ以上なにも聞きたくないと思った。

 明日の朝の便に備え、リカさんは空港から数駅離れたところにあるビジネスホテルを予約していた。一人での宿泊に不安があるということで、私の分も部屋を取ってくれている。貴重な有休を二日間も消費してしまうのは痛いが、こういうときくらいは、役に立つ娘――戦力として認識されたいという自意識のほうが勝る。
 日本のホテルに泊まるのが初めてだというリカさんに、カードキーや部屋の設備をひととおり説明し終え、私たちは早めの夕食をとることにした。
 ホテル近くのファミレスは、店員、客ふくめ、日本人よりも外国籍と思しき人のほうが多かった。窓側の席に案内される。炎のいちばん外側の色をした夕日が、店内にとろとろとしみ込んでいる。
 「フィリピンに帰るのはいつぶり?」
 冷製パスタをフォークに巻き付けながら、私はなんとか話題を探す。リカさんは上をみやり、考えるようなそぶりを見せた。
 「ごーねん? コロナあたから、ひさしぶりよ。いもうと、子ども産んだーけどリカ会うはじめて」
 リカさんはスマホを取り出し、私にそれを差し出してくる。まだ毛が薄く、ふっくらとした頬の赤ん坊の写真。私が「かわいい」と言うと、リカさんは満足げな顔をして、スマホの画面をさらにスワイプした。
 「これーは、いまの写真。もうよんさいよ。クロミがすき」
 クロミちゃんのヘアピンに、クロミちゃんのワンピース、クロミちゃんのバッグを持ったリカさんそっくりの女の子が、小さな歯をむき出しにして笑っている。今回の帰国にあたって、姪のために大量のクロミグッズを買い込んだのだと自慢げに教えてくれた。たった一週間の帰国の予定なのに、特大サイズのキャリーを二つ引きずっていたのはそのためだったのか、と合点がいった。
 「リカ子どもないだから、いもうとの子どもほんとうにかわいいよ」
 気づくと、リカさんの声はふるえていた。
 「日本にいくお給料たかいー言われて、お父さんのしゃしんみせるもらて、んー年とてるだけどかこいい、赤ちゃんきとかわいいーおもうだからけこんしたよ。でもね、リカとお父さん、いかいもふうふのかんけいないよ。いかいもよ」
 早口でまくし立てたリカさんは、わっと泣き出した。
 人目も憚らず号泣する姿よりも、リカさんの口から、夫婦の関係、なんて言い回しがでてきたことに私は心底驚いていた。
 「リカ子どもほしいー何回も言たよ。でもだめね。病院も行たよ。お父さん子どもつくるできないー言われた。じんこうじゅせいもようしもぜんぶいやだお父さん言う。お父さんはリカの先に死ぬね。リカ、どする? リカひとり、だれもたすけるーないよ。」
 ほとんど手のつけられていないカルボナーラのうえに、リカさんの涙が落ちる。
「おとといも病院行たよ。リカこれ以上としとる、子どもできない言われた」
 となりのテーブルの中東系と思しき男性二人組が、遠慮のない視線を私たちに向けてくる。私はもう、疲れきっていた。真夏の暑さに? リカさんの世話を焼くことに? いや、どちらもちがう。
 いままで見えないふりを、気づかないふりをしてきたことが、火の玉のように頭上に降り注ぐことに、それを避けようと、じたばたと走り回ることに、疲れきっていた。

 ホテルに戻り、溶けるようにベッドに横になった。
 明日は朝の六時前にはホテルを出なければいけない。さっさとシャワーを浴びて眠ってしまいたい。だけど、どうしても体が動いてくれなかった。
 スマホを取り出し、時間を確認する。そのままの流れで、グーグルの検索窓に単語を打ち込んだ。悩んで、一度消して、ニュアンスを変えてふたたび入力する。
 検索結果をスワイプし、とある記事にたどり着いた。地方に嫁いだ外国人女性たちが取り上げられているものだった。結婚難、嫁不足、孤立、経済格差、貧困、目に飛び込んでくる単語に、私はめまいを覚えはじめる。
 丸一日動き回っていたから疲れているだけだ。そう言い聞かせてなんとか記事を読み進めようとしたが、だめだった。私はスマホを放り出し、湿った腕で目元を覆う。
 指を切ったときに、血がしみだしてきているのを見てはじめて痛みを感じるのと同じだった。
 知人の紹介だと言っていた。祖父母の知り合いが紹介してくれたのだと、たしかに私は聞いたのだ。
 そうやって、まだほんの子どもだった私への説明を額面通りに解釈することで、いままでずっと、私は目を背けてきた。
 もし、私の友人が貧しさゆえに、国籍の異なる、年が一回り以上離れた、写真でしか見たことのない相手と結婚するなどと言い出したら、私は必死に止めるだろう。そんなのは間違っている、女性の人権を侵害しているなどと、声高に叫ぶだろう。
 もうなにも考えたくなかった。頭だけが外気をまとったままのように、熱く、ぼんやりとしている。このまま眠ってしまおうか。意識を手放そうとした私を、着信音が引き止める。
 「もしもし」
 仰向けになったままスマホを耳にあてる。一応、戦力として派遣されている手前、母からの連絡を無視することは憚られた。
 『もしもし? 無事にホテルさ着いたんだか?』
 「着いたよ。割ときれいなホテルでいい感じ」
 たった数秒で二の腕あたりが痛んできたので、枕元にスマホを置き、スピーカーに切り替えた。
 『そりゃそうだべ。正彦が一生懸命探したとこなんだから』
 「え、このホテル叔父さんが予約したの?」
 思いがけない言葉に、私は無意味にスマホを見やった。
 『んだよ。ホテルだけじゃねくて航空券も上野までの新幹線もよ。リカさんがわかんね、できねって大騒ぎすっから、正彦が全部手配したんだっけ。リカさんはなあんもしてねし、お金も一円も払ってねよ』
 どこか自慢げに、母は言う。私は口を半開きにしたまま、声が出なかった。
 リカさんは、叔父のことを「やさしくない」と言っていた。もちろん、金銭的な援助がやさしさに直結しているとは思わないけれど、ひとは、純粋なやさしさか、己の利になる場合にしか自分の金をおいそれと渡したりしないのではないだろうか。新幹線、ホテル、飛行機、すべて合わせたらかなりの額になるはずだ。
 『正彦もさっさと離婚しちゃえばいいのになあ。もし正彦が今死んだら、じいちゃんから相続した土地とかぜーんぶリカさんのとこいくべ? 子どももつくんねで、ただで住むとこも用意してもらってさ、遺産も全部相続してってそんなおかしな話はねえよね』
 母は私の相槌を待つことなく、捲し立てる。
 『リカさん、すごい荷物だったべ? あれ全部家族へのお土産なんだと。豪勢よねえ。お母さん、このあいだリカさんの通帳見ちゃったんだけど、ずいぶん貯めこんでたど』
 「またそんな……」
 『一千万よ』
 どんな反応も、不正解な気がした。押し黙る私に、母が乾いた笑いを漏らす。
 『仕送りはずっとしてるみてだけんちょも、ほら、ずっとじいちゃんちに住んでっから家賃はねえべ。あの家の光熱費はずっとじいちゃんの口座から引き落とされってたし、米も野菜もじいちゃんが作ってたべ。働いたお金は全部自分の手元に入れてるわけよ。買い物とか遊んだりも滅多にしね人だし、子どももいねしね。稼いだお金はほとんど貯金してんだべな』
 二十年間、リカさんは生活費のほとんどを祖父に依存していたということか。私は、今月のカードの引き落とし額を思い浮かべた。家賃と光熱費が浮くだけでも、どれだけ生活が楽になるだろう。オートロック付きのマンションにだって住めるし、健康のための果物やグリークヨーグルト、年相応の生地の厚い服も躊躇わずに買えるようになる。余ったお金は投資に回して、独りで生きるための資産を蓄えて、どこか遠い国の戦争や貧困で苦しんでいる人たちへ思いを馳せることだってできるようになるはずだ。
 尻を拭いてもらったことのあるひとが、尻を拭けばいい。それなら、二十年間、生活を担保してもらったひとは、なにをすればよかったのか。考えるのが面倒になって、私はそのまま意識を手放した。

 予定通りの時刻にホテルをチェックアウトし、私たちは駅へ向かった。昨晩あのまま寝落ちしてしまったうえに、アラームもかけていなかったせいで、危うく戦力外になるところだった。なんとかシャワーを浴び、最低限の化粧は施せたが、ひとつに結わえた髪の毛先はしっとりと濡れたままだ。
 駅までの徒歩五分の道を歩いただけで、今朝の決死のシャワーは無に帰した。こめかみから汗を流す私を見て、リカさんが「あちゅいね」と言う。当の本人は、涼しげな顔をしていた。リカさんの母国に比べたら、日本の暑さなどなんともないのだろうか。私は、リカさんの生まれた国のことをなんにも知らないな、と思う。
 駅に到着し、券売機の前で馴染みのない路線図を見上げる。空港までの乗車賃を確認する私の横で、リカさんは退屈そうにスマホをいじっていた。
 「アプリの入れ方って知ってます?」
 並んで座り、電車に揺られながら、私はリカさんに聞いてみた。
 「アプリわかるよ」
 「電車の乗り換えのアプリ入れましょう。出発する場所と到着する駅を入力すれば、かかる時間だとか乗換駅もすぐわかるんですよ」
 リカさんと過ごすうちに、私の頭のなかには、ひとつの箱と、それを中心で区切る仕切りが出来上がりつつあった。
 私は頭上に降りかかる火の玉を手のひらでそっと包み、仕切りの右側へ、左側へ、と仕分けていく。貧しさゆえに海外に嫁ぐことになった、右へ。日本で暮らすために名前すら変えた、右へ。
 「んー、リカわかんないーだからいい」
 リカさんは苦笑いをして、すぐに視線をスマホに戻そうとする。
 「あったほうが便利ですって。一人での行動範囲も広がりますし」
 「リカ漢字読めないーだから、だいじょうぶ」
 「私が漢字教えますよ」
 「漢字むじゅかしい、わからない」
 困ったようにそう言って、リカさんはリュックからイヤホンを取り出した。その反動で、私が買ってあげた空港行きの切符が落ちる。それに気づかず、リカさんはすぐに動画に夢中になった。褐色の肌の人々が、プールでアクティビティに挑戦している動画。リカさんは堪えきれないように笑う。床に落ちた切符は、車内の振動で小刻みにふるえている。
 日本に来る、と最終的に決断したのはリカさんじゃないか。
 私は切符を拾い上げ、手のなかでぎゅっと握りつぶした。
 叔父の写真を見て、カッコいいし子どももきっとかわいくなると思ったから、と言っていたのは、リカさん自身だ。
 切符の角が、やわらかい皮膚を刺す。
 どうして、二十年経ってもリカさんの日本語はこんなにもたどたどしいのか。どうして、二十年も日本で生活しているのに漢字が読めないのか。どうして、ここで生きると決めたのに、それ相応の努力をしないのか。わからないできないと喚いていた二十年で、なにか事態は好転したのか。
 火の玉が落ちてくる。祖父や叔父の経済力に依存していた、左へ。日本語を上達させる努力をしなかった、左へ。わからないできないと言って遠ざけた、左へ。
 落ちてきた火の玉を右へ、左へ分配する。誰が悪いんだろう。なにがいけなかったんだろう。
 そのとき、ポケットのなかでスマホがふるえた。
 母からの進捗確認かもしれない。こんがらがった思考のまま、画面をひらく。
 『このあいだ差押したランさん、亡くなったって』
 「え」
 納税課の同僚から送られてきたメッセージに、思わず声が漏れた。続けざまにリンクが送られてくる。なにも考えず、それをタップした。
 【二十三日深夜、東京都杉並区の住宅で女性が刃物で刺され死亡】
 飛び込んできた見出しに、言葉を失う。記事は淡々と事件を伝える。
 【死亡したのは、杉並区在住の宍戸ランさん(三十四歳)。自宅から争う声が聞こえるとの近隣住民の通報で警察官が駆けつけたところ、女性が腹部などを刺され倒れているのを発見。搬送先の病院で死亡が確認された。その場にいた夫の宍戸泰輔容疑者(四十九歳)は、凶器とみられる包丁を所持しており、「金銭関係で揉め、口論の末に刺した」と供述している。近隣住民によると、宍戸さん宅では以前から怒鳴り声などの騒音があったという。警察は、ランさんが日常的に暴力を受けていた可能性があるとみて、事件の経緯を詳しく調べている】
 火の玉が、驟雨のように降る。
 『これって俺たちも事情聴取とかされんのかな』
 涙を流すパンダのスタンプとともに、同僚の不安げなメッセージが届く。
 誰が悪い? 働かずに搾取し続けた旦那が、税金を滞納したランさんが、差押を執行した同僚が、話を額面どおりに受け取った私が。
 電車が止まり、乗客が一気に降りていく。リカさんが不安げに私の腕をつつく。「ここ?」という口の動きに、私は首を振る。安心したのか、リカさんはふたたびスマホに視線を落とした。

 空港についたばかりなのに、私はすでに疲弊しきっていた。エスカレーターで静止しているあいだ、トイレに行ったリカさんを待っているあいだ、少しでも動きを止めると、ランさんの悲痛な泣き声と無機質なネット記事がよみがえった。手に塗り広げられたオイルのように、それは私のもとから離れてくれなかった。
 乗客を呼ぶアナウンスと、陽気なチャイムが繰り返される。叔父が印刷してくれたという飛行機の予約情報が記された紙と、ロビーに設置されたモニターを見比べて、カウンターの場所を確認する。
 「リカさん、Aカウンターです。いちばん奥ですね」
 かなり余裕を持ってホテルを出てきたので、まだ窓口は開いていなかったが、カウンター前にはすでに長い列ができている。
 「空いてからチェックインしましょう。わざわざ並ぶのも大変ですし」
 カウンターが開くまで三十分ほど時間がある。無意味に早くチェックインする必要はないし、ある程度人が捌けてから手続きをすればいいだろう。私は近くのベンチに一直線に向かう。
 「ほんとに? これならぶないと、乗れないーじゃない?」
 リカさんはその場から動かず、不安げに行列と紙を交互に見やる。
 「大丈夫ですよ。いつチェックインしたって問題ないですから。ここに並んでるのは早めに荷物預けたり、座席の指定をしたい人たちだと思いますよ」
 「リカも荷物あずけるよ。これおもいだから、飛行機のなか持つだめね」
 「あれに並ばなくても荷物は預けられますから」
 「でも、乗れないはこまるよ」
 「だから、これに並ばなくても荷物は預けられますし、飛行機にも乗れるんですよ」
 「でもならぶすぐ乗るーね? これならぶない時間なるもうだめ、それこわいよ。こわいだからリカならぶしたいね。乗れないはいやよ」
 行列に並んでいるひとたちの何人かが、こちらを振り返る。ベンチに座る人々が、何事かと身を乗り出す。リカさんの言葉は、声量と勢いだけが増し続け、正確さと反比例していく。リカさんはまだなにか訴えているが、私の耳ではもう聞き取れない。リカさん以外、誰にも理解できない言葉で、リカさんはなにかを訴え続ける。
 私は反論も説明もあきらめ、リカさんの要望通り行列の最後尾に並んだ。きっかり三十分後にカウンターが開いたが、案の定、列はなかなか進んでくれない。リカさんは動画に夢中になっているし、私は気怠さに耐えるのに必死だった。考えなければいけない、向き合わなければいけないという焦燥だけが膨れ上がり、プール上がりのような倦怠感に飲み込まれていく。
 「パスポート用意しておいてくださいね」
 徐々に列は進み、やっと私たちの前に三組の乗客を残すのみ、というところまできた。リカさんの肩をたたいてそう言うと、焦ったようにリュックを前で抱えだす。
 「もしかして、キャリーのほうに入れちゃいました?」
 リュックに顔を突っ込む勢いで、リカさんはパスポートを探している。「こち入れたよ大丈夫」そう言いながらも、乱雑に荷物をかき回す手は止まらない。前の乗客が一組、カウンターに呼ばれる。私たちの番はもう迫っている。
 「一旦列から出ましょうか。落ち着いて探せば見つかりますよ」
 「あるよ。リカ朝入れたよ。財布とかくにんした。ぜったいあるーだから大丈夫」
 「でもほら、もしかしたらってこともあるし……」
 「うん、あるよ、大丈夫よ。パスポートぜったいわすれるないーおもてリカ何回かくにんした。昨日夜と今日朝ね。リュクポケットちょうどあるだからパスポートいれるそこいいねうんだからそこいれるさいふあるパスポートあるリカわかる大丈夫あるよ」
 また一組、カウンターへと進む。
 さっきのリカさんの様子から察するに、この状態になった彼女を説得することはほぼ不可能だ。「とりあえず前進みましょう」私も半ば、パニックだった。パスポートがなかったとして、どこを探すべきだろう。ひとまずホテルを当たるべきか。予約していた便には間に合わない? それならば便の変更を優先したほうが……さまざまな考えがめぐる。一組分空いた列の隙間を埋めるため、リカさんの腕を引く。その反動でリカさんが体勢を崩し、リュックの口が一瞬下を向いた。
 床に広がる札束、札束、札束。
 喧騒が遠くなる。無機質な白い床の上に、帯のついた札束が無数に散らばる。周囲がどよめき、私たちの後ろに並んでいた人たちが一歩退く。
 リカさんは床を這い、必死に札束を拾い集める。私は、同時に落ちたリカさんのポーチやイヤホンを、呆然としたまま拾い上げた。
 視線が刺さる。私に、リカさんに、そしてリュックに。好奇の視線が注がれている。
 「ちょっと、出ましょう」
 床になにも落ちていないことを何度も確認し、私は再度リカさんの手を引いた。リカさんは、今度はなにも抵抗してこなかった。列を離れ、少し遠くにあるベンチに並んで腰かける。
 「パスポート、ありましたね」
 私はさっき拾った荷物のなかから、臙脂色の冊子を取り出した。念のためパスポートをひらき、本当にリカさんのものか確認してから、あらためて差し出す。
 「うん、大丈夫。これリカさんのです。私、日本以外のパスポート見たの人生で初めてですよ」
 普段どおりの声色を演じてみせたのに、リカさんはなんの反応も示さない。ただ、怯えたように、虚ろな目をきょろきょろとさせるだけだった。
 ざっと確認しただけだ。あの一瞬で、数えただけだ。だけど、少なくとも一千万円分はあったように見えた。
 チェックインカウンター付近で、グランドスタッフがこちらを見ながらなにやら話していた。海外旅行経験の乏しい私でもわかる。国によって規定は異なるだろうが、多額の現金を持ち込む場合、たいてい申告の必要があるはずだ。リカさんは、それを理解しているだろうか。
 リカさんは、ただ俯いている。一千万の入ったリュックを両手できつく、抱えている。感情や背景の説明をするための言葉を持たないリカさんは、ひたすらに押し黙る。日本で蓄えた全財産を、日本で得たすべてを、無言で抱きしめる。
 「リカさん、それ、私が日本から送金します」
 私は、俯くリカさんの肩をたたく。
 「ATMで送れなかったから、現金で持っていくことにしたんでしょう? あれね、一回に送金できる上限が決まってるんですよ」
 リカさんが顔を上げる。涙で濡れた顔がすぐ近くにある。私はもう圧倒もされないし、怯むこともない。
 「さすがにその額を現金で持っていくのは危ないですし、盗まれたり、没収される可能性もあります。だから、私があっちのリカさんの口座に、何回かに分けて送金します」
 私はショルダーバッグからティッシュを取り出して、そのままリカさんの目元に押し当てる。ティッシュはすぐにふにゃりと濡れた。一枚、もう一枚とティッシュを引っ張り出す。リカさんの涙が止まるまで、褐色の肌にティッシュを押し当てる。
 きっと、リカさんはもう、日本に戻らない。
 誰が悪いのだろう。結婚を勧めた祖父母が、子どもを作ろうとしなかった叔父が、誰かに依存し続けてきたリカさんが、あきらめた視線を送り続けた母が、知らないわからないと目を背けた私が。
 火の玉でいっぱいになった箱は轟々と燃え上がり、囲いも、仕切りも、すべてを焼き尽くして、やがてひとつの大きな焔となる。
 時代や社会のせいと言ってしまうのは投げやりで、無責任で、個人のせいと言ってしまうにはあまりにもむくわれない。
 「まゆこちゃん、ありがとう」
 リカさんは現金を紙袋に詰め替え、私はそれを受け取った。さっきのリカさんと同じように、お腹の前でぎゅっと抱えたまま、チェックインの手続きに付き添った。
 保安検査場の列にリカさんを送り出し、ゲートに続くエスカレーターを降りる瞬間まで、その姿を見守りつづける。手を振るリカさんに私は呼びかける。
 「さようなら、……さん」
 私の呼びかけに一瞬目を見開いたあと、すぐに彼女は屈託ない笑顔を浮かべた。
 元気よく飛び跳ね、海へと帰っていく。

〈了〉