女による女のためのR-18文学賞

新潮社

選評

第17回R-18文学賞 
選評―三浦しをん氏

文章の力、小説の醍醐味

三浦しをん

 本年も、いずれも高レベルな最終候補作で、楽しく拝読した。
『アップル・デイズ』は素直な作品というか、読んでいて「いやな気持ち」がまったくしない小説だった。それはとてもいいことだが、個人的には、「毒」のない作品を書くときはよりいっそう、文章の精度や構成などに気を配る必要があると考えている。その点、本作にはやや惜しいところがあった。たとえば冒頭の二文のなかに、「こと」が三回出てくる。これはもっと文章を練るべきだろう。また、この冒頭(=「最悪なこと」)が、展開にうまく活かされきっていない感がある(=それほど「最悪なこと」が訪れていないように見える)。つまり、冒頭で提示された「引き」が、作品の山場でさして呼応せず、構成としてうまくキマッていない、ということだ。母親の性格が少々テンプレっぽいのも気になった。
 文章や構成を丁寧に練ると、必然的に登場人物に対する作者の理解も深まっていく。そこに気をつけて取り組めば、もっと奥行きと重層性のある小説をお書きになれるかただと思う。
『猫と暮らせば』は、適度な毒っ気と猫のかわいらしさが融合し、「主人公はどうなるのかな」と応援しつつ読んだ。「毛だらけのままでいいじゃん」という姉の発言など、随所に「そうだそうだ!」と思えるユーモアあふれる言いまわしもあって、よかった。文章もそつがないと思う。
 ただ、結婚、妊娠、性指向など、各個人の生活のなかでの繊細な問題を扱っているわりに、やや無神経ではないかと感じられる描写やセリフが散見され、ちょっと気になった。私が最大に引っかかったのは、「子どもがいたほうがいい理由があるとすれば、(中略)よその子のことまで自分の子のように考えられることじゃないだろうか」という理屈だ。つまり「実体験主義」ということだと思うが、まったく承服しかねる。では、なんのために人間には想像力が備わっているのか、なぜ小説などという噓八百の物語を読んだり書いたりするのか、ということになってしまうからだ。もちろん、作者が作品を通しておっしゃりたいことは、とてもよくわかる。しかし、「世間からはみだしているとされるひとたち」を描いているようでいて、実はそういう人々の心情を渾身で想像してはいないのではないか、と感じられる表現の塩梅になってしまっている箇所があり、惜しいと思った次第だ。
『卒業旅行』は、主人公とお相手の「やっちゃん」の心情も言動も、私には理解不能なことばかりで、「?」「⁉」の嵐だった。では不快だったのかというと、決してそうではなく、興味を持続させつつ読むことができた。文章がよく、語り口に得も言われぬユーモアがあったからだ。「小説を書く力」がある作者だなと思った。細部により気を配り、構成に自覚的になれば、作品がもっとよくなるはずだ。
 たとえば、「わたし」とやっちゃんが高校時代になんの部活に入っていたのか、競馬友だちとしてどんなエピソードがあったのか、さりげなく、しかし具体的に描写しておくべきだ。また、十年後の「わたし」の述懐は、絶対にいらないと断言できる。本作は、京都旅行を現在進行形で語る視点に徹し、一瞬のきらめきを描く、という方向性にしたほうがいいと思った。そのほうが、長きにわたる恋の成就と喪失を鮮烈に表現できるからだ。
『蝶々むすび』は、文章が堅実かつ味わいがあるので、読み進むことができたが、「なぜこんなに話が地味なのだ?」という疑問はぬぐえなかった。ところが、その地味さは、ある「からくり」のためにあったのだ、ということが終盤で判明する仕掛けだ。
 しかし、ここで新たな疑問が我が内心にきざした。本作は一種の叙述トリックだと思うが、(以下、ネタバレになります)トリック部分が、「のぞみは実は女性ではなく、女性になりたい男性だった」というのは、フェアなのか? ということだ。叙述トリック的にフェアなのか、という意味ではなく(その意味で読み返しても、やや引っかかるところはあるが)、希の悩みや苦しみを「トリック」にしてしまっていいのか、ということだ。私はその点に、どうしてももやもやを禁じ得なかった。実際に、生物学的な性別と性自認とのあいだで齟齬そごを感じているひとが本作を読んだら、どう感じるのだろう、と。
 それとはべつの次元の問題として、作者がトリックに引っ張られ、小説としての構成がうまくいっていないのは、明確に弱点だと思う。つまり、真実が明かされるまでの大半の枚数、トリックのせいで真実を明かせないがゆえに、「話が地味」ということだ。そして、真実が明かされたら明かされたで、「私(三浦)はむしろ、最初から真実を明かしてもらって、希の率直な心情、悩みや苦しみや喜びをこそ、読みたかった気がするのだが」と思ってしまった、ということだ。こうまで希に思い入れしたのはやはり、淡々とした描写のようでいて、応援したくなる人物として希を表現しきっている、作者の筆力ゆえだろう。だからこそ、いささか誠実さに欠ける(登場人物に対する誠実さ、という意味だ)と受け取られてもしかたのない叙述トリックは、用いなくてよかったのではないか、と私は感じた。
『You Can Use My Car』と『森のかげからこんにちは』は、いずれも甲乙つけがたい素晴らしい作品だ、と辻村深月さんと意見が一致した。どちらを大賞にすべきか議論と検討を重ね、『森のかげからこんにちは』を選ぶことで、これまた意見の一致を見た。『You Can〜』が読者賞に選ばれたと判明し、辻村さんも私も、「よかった!」と喜び、安堵している。優れた二作が、それぞれ大賞、読者賞ということになり、本当にめでたいかぎりだ。ただし、どちらの作品も、タイトルは一考したほうがいいと思う。
『You Can Use My Car』は、ロードムービー的な趣のなかで、徐々に情報が提示され、登場人物たちの事情や関係性が明らかになっていくところがスリリングだ。男性陣に絶妙な色気があり、語り手の「私」の微妙な心情が、抑えた語り口のなかからヒリヒリと伝わってくるところも、とてもよかった。なによりも素晴らしいのは、ラストで「私」の思いを明確にしきらない、その塩梅だろう。「こういう関係」「こういう気持ち」と、既成の言葉では定義づけられない曖昧な「なにか」が、けれど文章を通してたしかに、鮮烈に浮かびあがる。これは小説にしかできない表現、描写、切り取りかただなと思い、「私」が感じたであろうすがすがしさと痛みを、我がことのように感受したのだった。
 だれのセリフかわかりにくいところがあるとか、夏樹はなにで生計を立てているのだろうとか、後半の肝心な描写との整合性を取るために、勝也を車の後部ではなく前部ではねることにしたほうがいいのではないかとか、細かいところで気になる点がないわけではなかった。しかし、いずれもすぐに直せることであって、本作のよさの根幹部分は揺るがない。
『森のかげからこんにちは』は、文章がとにかく素晴らしい。読ませる。窓辺に柿や蜜柑を並べてくれる幽霊。上水べりを歩くベルーガ。「あなた」と「私」の静かに満たされた生活。穏やかでうつくしい世界。けれど、ファンタジーかというと決してそうではなく、生々しい不穏とさびしさの気配が充満してもいる。(ここからややネタバレです)「私」が実は○○だという驚きの展開も、作者の巧みな語りと文章によって、もはや驚きもなく自然に受け止められるという、この驚き。「なに言ってんだか、わかんねえよ!」と思われたかた、ぜひ本作をお読みいただきたい!
 うーむ、素晴らしい。ベルーガと「あなた」は、まあそうなるだろうなというのも予想の範囲内なのだが、とにかく本作は、文章で惹きこみ、文章の力で読ませるという、小説としてあたりまえの、しかし実際はとてもむずかしいことに真っ向から挑戦し、見事に成功した作品だと思う。辻村さんが選考会で、非常に魅力的かつ刺激的な読みの可能性を示唆してくださったのだが、たしかに本作は、「だれの語りなのか」に関して、多様かつ奥行きのある読解が可能だと思った。
 私が気になったのは、体位の描写がやや曖昧で、脳内に絵を描きにくい点だ(すみません、体位描写にうるさくて。でも大事だと思うんですよ!)。あと、「あなた」の背中の傷が相当の重傷のように見受けられ、「ベルーガ、シロイルカじゃなくてシロクマなんじゃないのか?」と思えてしまう点ですかね。当然ながら、いずれも些末な部分なので、本作のよさの根幹部分は揺るがない。あ、最後のセリフの前後に一行アキを入れるのは、絶対にやめたほうがいい。「肝心なセリフだから」と目立たせたいお気持ちはわかるが、これは悪目立ちというもので、標語みたいに見えてしまうからだ。
「セリフの発言者がだれなのかわかりにくい」「必要のない一行アキが頻発する」は、ほかの最終候補作でも見受けられた。この点に気をつけて書くようにすると、文章の練度がより上がり、書きたいことをもっと自由に表現できる力がついていくと思う。