選評
第24回R-18文学賞
選評―窪美澄氏
独自の世界観を楽しませてもらった
●『17(セブンティーン)』
三十四歳が十七歳と称してパパ活をしても不自然ではない、と思わせるのは、この人のうまさであり、持ち味だろう。とはいえ、自己肯定感の低いシングルマザー、頭のいい娘、あるいはパパ活をもちかける翔己のキャラも、どこかで読んだことがあるかも、という感覚が終始拭えなかった。先生の飯塚とパパの佐藤のキャラが若干かぶっているところも気になった。主人公が飯塚に妊娠を告げたときのシーン、「あたしも、利用したんだ、あたしを。あたしの若さを。先生を。だからこれは共犯なんだよ」という台詞には一瞬グッとくるものがあったのだが、やはり先生と生徒というアンバランスな関係、あるいは主人公の自己肯定感の低さを考えると、飯塚にうまく丸めこまれてしまったのでは、という印象が拭えなかった。それを書きたかったのだとしたら、このシーンは十分に成功しているのだが。こんな関係をひっくり返すような強さを(母性のようなもの以外で)、この方の文章で読んでみたかった。
●『女の檻』
いちばん好きな物語だった。理系女子がポスドクの立場・視点から、恋や妊娠、欲情のしくみを語っていて、非常に興味を持った。それらはすべて、ホルモンの作用によって脳のなかで起こっている現象なのである、という解釈が新鮮だったし、本能と理性が拮抗する様も興味深い。本能の銅鑼が鳴るシーンも愉快だ。そして、平坂と三城のセックスに至るまでのやりとりも、きちんといやらしくて素晴らしい。「わたしは日本で十番目くらいに発情した雌の脳の変化について詳しい自分に感謝をして、目の前でまばゆく幸福の光をひとつひとつドーパミンと呼んで。/そうしてわたしは恋心の器に、自己の化学反応を俯瞰的に見るという蓋をする」という文章も秀逸。とはいうものの、ラストがマウスに人間を重ねる、結局は同じなのだ、という結論は、わかりやすさに逃げてしまったのではないか、という印象も受けた。もっともっと難しくてもいい。この方の文章なら読み手は必ずついてくる。ポスドクから見た恋という現象の難しさ、空しさ、苦しさ、をもっともっと自由に怖れることなく書いてほしい。次の一編を読んでみたくなる作品であった。
●『みどりごを抱く』
タイトルも、作中に登場する短歌もいい、ラストシーンの娘さんとの展開も良かったが、小説の「現場」が少しわかりにくいように感じた。物語の舞台となっている場所の説明がもう少しあってもよかったのではないか。ラストの講演会のくだり。子どもをなくした碧子に対して「おそらく彼女が一番望んだただ一つを持っている私」と反応する主人公を正直なところ、少し怖い、と思ってしまった。物語中盤にある「わたしが病気で死ぬかもしれないってなったら、お母さんがちょっとおかしくなっちゃって。慌てて作ったんだってさ」という碧子の台詞も、確かに登場人物の造形を印象づけるものではあるのだろう。だが、やはりこうした台詞にはインパクトはあるけれど、かなりデリケートな話題で、小説に書くときには、取り扱いには十分な注意が必要なのではないか。主人公や登場人物たちに違和感を持ったまま、読み進めていく物語も、もちろん世の中にはたくさんあるけれど、この物語においては、その違和感が解消されないまま物語が終わってしまった、という印象が残った。
●『海を蹴る』
タイトル、主人公の少年である海向のキャラ、海辺の町の様子、海で泳ぐ描写、ラストシーン、どれもみな良かった。淡い水彩絵の具を重ねていったような丁寧さで、情景がふわっと目に浮かぶのはこの書き手の強みであると思う。一方で、あさぎ、という人魚を描くときに解像度がぐっと下がってしまうのがとても惜しい。「あさぎはいつも人用の水着とか着てるけど、たまに可愛いから欲しいみたいな理由で普通の服も着てて」とすっと書いてしまっているが、この姿を想像することが私には難しかった。それが人魚だから、と言われてしまいそうだが、どうしてもこのあさぎが無表情なままで海を泳いでいる姿ばかりが頭のなかに浮かんでしまう。また、あさぎに海向が海にひきずりこまれてしまうかもしれない、ということを皆心配していると思うのだが、あさぎの人魚としての存在の怖さや、不気味さというのが今ひとつ伝わってこない。海向を描くのと同じ熱量で、人魚のあさぎを描いてほしかったと思うし、この方なら描けたはずだ、と思うと悔しい。
●『笑うワーキングレディ』
原稿用紙換算で五十枚という短さのなかにたくさんの人が登場する小説だが、それぞれの書き分けが完璧にできている。文章の安定感、まとまり感も抜群にいい。哺乳類が笑うようになった理由「……口に入った有害なものを吐き出すときの動きが元になってるって説があるらしいよ」からの「飲みたくなかったら、飲まなければいいのだ」までの流れも自然で、説教臭さもない。岩橋さんという、ある種女性にとってストレスを感じさせない男性の存在というのも新鮮だったし、その心のうちを描いてみせたこの物語、この世の中から見えなくなってしまっている人を可視化する、という小説が持つ意味を再確認させてもらったような気がする。あえて、あえて、さらに一言言うのであれば、小説世界がむちっと出来上がりすぎていて余白がない。書き手の言いたいことが暴走してしまって、もしかしたら、読者がいろんな感情を寄せにくいところもあるのでは、とも思った。
どれも意欲作で、毎年同じことを言っているような気がするが、かなりレベルの高い闘いになった。原稿用紙換算で五十枚という限られた枚数のなかでそれぞれの世界が存分に展開されていて、選考ということを忘れて、素直に読んでいて楽しかった。自分のなかでは整合性がとれているつもりでも、一歩離れて、「この作品を初めて読む人」の視線になってみると、意外に、ここが足りなかった、ここが余分だった、ということに気づくことも多い。応募前に作品を少し寝かせて(時間をおいて)、新たな気持ちで作品に手を入れていくことも大事だと思う。
