女による女のためのR-18文学賞

新潮社

選評

第5回R-18文学賞 
選評―角田光代氏

角田光代

今年は最終候補作のほとんどが、官能を強く意識した作品で、それはこの賞にとって本当にすばらしいことだと思った。官能小説、もしくは性というもののみを書く必要はないけれど、せっかくR-18と冠された賞なのだから、子どもには読ませたくない、読ませてたまるもんかという気骨がほしい。今回はそういう意味で気骨あふれる作品が多く、また、性というものを通じていろいろな方向へ広がっていて、この賞の可能性を教えられた気がし、それもまた、うれしいことだった。

「なくこころとさびしさを」は、だれもが憧れるかっこいい恋人がいながら、さえない中年男に痴漢をされるのを待ってしまう女子高生の話で、欠点の目立つ小説ではある。たとえば、主人公を含め登場人物のすべてが類型的で、新鮮味がない。痴漢男にしても、女子高生にしても、その恋人にしても、たくさんのパターンを思い浮かべ、そのなかからテーマに応じて吟味した結果、ひとりひとりのキャラクターを描いたのではなくて、最初に思い浮かんだ「きっとこんな感じだろう」をそのまま書いてしまったという印象がある。もう少し想像力を駆使したら、もっと小説世界が深まったと思う。けれど、痴漢男と被害者という設定が欠点には決してなっていない、そのことに無理を感じないのは、読み手を説得させるだけの力があるからだと思う。痴漢という、女性から見て忌むべきものを、無理なく読ませたという点において、私は彼女を評価した。きっとこの作者は、想像の枠を広げればもっともっと書ける。そういう理由で、優秀作に選ばせていただいた。

「花宵道中」は、ここ数年でずば抜けてすばらしかった。江戸時代の吉原を舞台にし、女郎と染め物職人の短い悲恋を描き出す。細かい時代考証の正誤、パターン化されている悲恋、それらがまったく欠点にはなっていない。天保の時代に舞台を設定したこと、書きはじめのテンションが一分の隙も見せずラストまで持続していることなどが、欠点を見事にカバーしている。官能を描きながら、女のかなしさやせつなさ、美しさやずるさ、そうして人の持つ運命という理不尽なものまで、この作者は言葉で説明するのではなく、読ませる。性というものを見事に自分のものにして、かつ凌駕した希有な作品だと思った。また、場面ごとに浮かぶ色彩の美しさもこの小説の大きな魅力となっている。読み手の内に色彩を残すというのは、並大抵のことではない。文句なしの大賞受賞である。

 二人の男の子とひとりの女性が住まいをシェアする「遊戯生活」は、おもしろく読んだものの、説得力に欠ける。共同生活に女性が加わる理由や、もともと友人であった悠星ではなく、ともに住んでから知り合った一史に彼女が惹かれる理由などが、言葉で説明してあるのだが、いかんせん説得力がない。また、悠星が(それまでずっと知り合いだった)主人公に欲情することも、読み手には今ひとつ伝わりづらい。第三者の存在を仲介にしてはじめて芽生えた欲望と、親切に読めばとれないこともないが、しかしもう少しの工夫で、読み手をぐいと引っ張ることのできる書き方ができたのではないか。けれど、ラスト、主人公が「見られている自分」に気がつくところはとてもよかった。読んでいてはっとさせられた。これもまた、性を通して、普遍的なことを描いている。この強さが前半から中盤にあらわれれば、もっと作品が力を持ったのではないか。
蛇足だが、この小説は既成のある小説に設定がとてもよく似ている。作者は知らず書いたのかもしれないけれど、知らなかったと宣言したところで、損にこそなれ得をすることは絶対にない。世のなかのすべての小説を読むことは不可能だが、応募するからにはそれなりの注意と神経が必要だと思う。

 違う男と結婚しながら、昔関わりのあった男性からの連絡を待つ「Decade」を、私はたいへんおもしろく読んだ。ラストが衝撃的で心に強く残った。しかしながら、文章の乱雑さが、ていねいに書いたという印象を与えない。また、現実味を持たせた小説にするか、それとも現実味より設定の強さで押し切るか、作者自身が決めかね、リアリティを持たせるために書いたのだろう細部が、この小説の持ち味であるスピードとトーンのダウンにつながってしまっている。ひょっとしてこれは、この作者がはじめて書いた小説ではないか。だとするならば、これから幾度も書くことで、確実に文章はうまくなると思う。そのとき、この小説が持つ光を作者が失わなければ、きっとものすごい小説が書けると思う。ぜひ書き続けてほしいと願う。

「クロルカルキの夏」は、不仲な両親と暮らす中学生が主人公である。うまくまとまってはいるのだが、登場人物、会話、シーンと、ほとんどすべて、型にはまりすぎている。両親のパーソナリティや喧嘩の内容、すべてに倦んだような中学生、教師たちの情事と、はみ出すところがひとつもなく、不可がないぶん、可もなくなってしまっている。唯一、プールでの同級生との関わりが、型からはみ出していておもしろいのだが、もったいないことに作者はここをあまりていねいに描いていない。水中で人と触れ合うとどんな感触がするのか、水に濡れた衣服はどのように体にまとわりつくのか、濡れたくちびるというのは触れるとどのようであるのか、首にはりついた髪は、水を含んだ下着は、サンダルを脱いだあとの足の裏は、濡れた背中を押しつけたコンクリートの熱さあるいは冷たさは――。この水中場面を、「サンダルのスパンコールとラメが、小さな月明かりによって水底で揺れる。」という一文と同様の注意力と細やかさを持って、五感を駆使しつつ書いたならば、今とはまったく違った、強さのある小説になったと思う。