第7回R-18文学賞 選評―角田光代氏
今年の最終候補作はそろってレベルが高く、それはひっくり返せばあたまひとつ抜きん出たものがないということでもあるのだが、それでも、どの作品が受賞してもおかしくないと思うほど、みなすぐれた小説ばかりだったように思う。

「自縄自縛の二乗」は、だれに見せるでもなく自分で自分を縛る、という題材が新鮮で、引きこまれて読んだ。体があるからこその快楽と、その体という入れ物がもたらす不自由さ、という矛盾が、この小説にしか描き出せない孤独感となって、かなしいほど切実に伝わってくる。私は最初、ラストにW氏と主人公が果たして二人でともに部屋にこもる意味があるのかと思ったのだが、同胞でありつつも混じり合うことができない、それこそがこの小説の世界観であるという、他の選考委員の指摘に、非常に深く納得した。大賞受賞にふさわしい意欲作だと思う。

「たままゆ」の作者は、昨年も最終候補作に残った人で、この作者は本当に、この人にしか持ち得ない感性を持っているし、その感性を言葉にできる力を持った人なのだと思う。今回作者は、幻想的で脆弱な幸福というものを見事に作り上げたと思う。けれど、主人公の家にやってくるひなの「カテイノジジョウ」が明かされないことで(それは作者の意図だと思うが)、ひなという女の子の存在が希薄になってしまっている。後半に出てくる先輩の生き生きとした魅力だけが頭に残り、それがひなの脆さとの対比として機能せず、かえってひなの魅力を弱めてしまっている。多く書けば書くだけ、感性を表現しうる自分だけの言葉を獲得できる人だと思うので、どうかまた一作、書いてほしい。

「真夜中の孔雀茶屋」の持つ、清潔感、爽快感というものが、私はとても好きだった。男娼の館という架空の世界を、架空に逃げ切らず、場所も限定して描くことで、しっかりと存在させたと思う。主人公がうんと年上の人しか好きなれないという設定にも無理がない。非常に好感の持てる作品である。が、せっかく架空の場所をきちんと存在させたのに、春をひさぐ男の子たちの姿が見えてこない。肉体を売る部分を書かないことで、もしこの小説の持つ清潔感が生じているのだとしたら、何も男娼の館を舞台にしなくともいいのではないかという根本的な疑問が生じてしまう。

「ワタシゴノミ」の作者も、昨年最終候補に残っていたのだが、私感として、この人は一年でものすごく文章がうまくなった。私は去年の『珍蝶』の作者だと選考会がはじまるまで気づかなかった。昨年とまったく同様、この作者しか持ち得ない奇抜なアイディアの小説である。昨年は、そのアイディアが先行してしまった観があるが、今年はじつにうまく小説というかたちに仕上げたと思う。そして今年確信したのは、この作者には、この人しかどうにも持ちようがないユーモアのセンスがあるということだ。かなしい場面を書いて、読み手をせつない気持ちにさせながら笑わせられるのは、この人にしかできない芸当かもしれない。ただ残念なことに、今回、小説に仕上げようとするあまり、平板な結末にしてしまった。本当はもっと自由に書きたかったのではないか。羽目を外したい気持ちを抑えこんでしまったのではないか。この一年で培った力で、その自由さを解放させて書けば、本当にすごい小説になると思う。それこそが読みたい。

「聖橋マンゴーレイン」も、私は評価に値すべき小説だと思った。白でも黒でもない、はっきりとした言葉にならないものを、主人公が自分の人生に受け入れていく時間が見事なくらいうまく描かれている。とくに私が読んでいてはっとしたのは、最後のラブホテルの場面での、恋の終わりが見える下りである。この文章は本当にすばらしい。その後の小説が、この文章に引きずられていないのもいい。ラストの突き抜けた一文もいい。けれどこれほど凄い文章が書けるのに、ときどき無自覚に、筆が走るまま書いてしまっている部分もある。性と果物の関連、二十代の女の子と家庭のある四十代のおじさん、という設定はありきたりで、あんなに凄い一文が書ける人なのだから、設定から文章の細部まで、もうひとひねりしたら、さらに魅力的な小説になるのではないだろうか。ぜひもう一回、書いてほしいと思う。
「16歳はセックスの齢」もおもしろく読んだ。やりたくてしょうがないが、いちばん好きな人は聖なるもので、性で汚すことはできない、というのは、長らく、男性だけの感覚とされてきた。それをこの作者は、見事に女性のものに転換させ、なおかつリアリティまで持たせた。この小説の持つリアリティの強さの原因のひとつとして、会話文の巧みさがあると思う。何気なく書いているようだが、じつは慎重に、軽妙とユーモアというリアリティを考えたのではないか。展開の意外性も魅力だった。惜しいのは、タイトルが魅力的ではないのと、最後の一文。この一文はそれまでせっかく緻密に作り上げた小説世界を台無しにしてしまう。「結局」で小説を終えるのは、九十歳のおばあさんになって、性も生も人に関することはもう知り尽くしました、というときにしてほしい。九十歳で知り尽くせるとも思わないのだけれども。


 今回受賞を逃した人に、「もう一度書いてほしい」と言うのは、酷かもしれない。でも、社交辞令ではなく、本気でそう思っています。書いて損するようなことはひとつもないです、是非書いて、また読ませてください。たのしみにしています。