ホーム > 書籍詳細:光の犬

生まれ、育ち、生きて、病み、死んでゆく――。
その瞬間、たしかにそこにあった生のきらめき。

  • 受賞第6回 河合隼雄物語賞
  • 受賞第68回 芸術選奨文部科学大臣賞

光の犬

松家仁之/著

2,160円(税込)

本の仕様

発売日:2017/10/31

読み仮名 ヒカリノイヌ
装幀 Cornelia Foss "Wainscott Pond II" 2007 Oil on canvas, 70X72 inches Collection Joanna and Daniel Rose/Painting、(C)2014,Christopher Foss/Photograph、新潮社装幀室/デザイン
雑誌から生まれた本 新潮から生まれた本
発行形態 書籍、電子書籍
判型 四六判
頁数 444ページ
ISBN 978-4-10-332813-1
C-CODE 0093
ジャンル 文芸作品、日本史
定価 2,160円
電子書籍 価格 1,728円
電子書籍 配信開始日 2018/04/06

北の町に根づいた一族三代と、そのかたわらで人々を照らす北海道犬の姿。助産婦の祖母の幼少時である明治期から、父母と隣家に暮らす父の独身の三姉妹、子どもたちの青春、揃って老いてゆく父母とおばたちの現在まで……。百年以上に亘る一族の姿を描いて、読後、長い時間をともに生きた感覚に満たされる待望の新作長篇!

どういう本?

タイトロジー 『光の犬』の舞台は北海道東部の枝留(えだる)という小さな町です。ある一族の三代にわたる人々の姿が描かれるのですが、その二代目の一家で飼われているのが北海道犬(ほっかいどういぬ)。北海道犬は先住民であるアイヌ民族が飼育してきた日本固有の犬種で、天然記念物にも指定されています。
『光の犬』にはこの北海道犬がぜんぶで4頭登場します。かれらは一家の子どもたち(歩と始の姉弟)の成長に寄り添うようにいつもそばにいるのですが、かといって、犬たちがこの小説の中心というわけではなく、あくまで人とともにただそこにいる、という存在です。
この小説はどうして『光の犬』というタイトルなんだろう、と思いながら読み進める読者もいらっしゃるのではと思います。その答えは、小説のあちこちにちりばめられている、とも言えますし、さいごまで読んでも、やっぱりわからない、ということもあるかもしれません。
ひとつだけお伝えできるのは、『光の犬』というタイトルが、この小説を書きはじめるまえ著者の頭にふと浮かび、あるいはどこかから降りてきて、書き進めるあいだも書き終えてからも、ずっとそこにあったということです。「光の犬」は書き進める著者を照らし、小説で描かれる人びとを照らし、さいごに読者であるわたしたちを照らす、そういうものであるのかもしれません。
反響 「2017 この3冊」毎日新聞(2017年12月10日)抜粋
角田光代氏
「『光の犬』では大きな事件はなく、人が生まれて、生きて、次の世代がまた生まれていく。北海道を舞台に、そうした営みが緻密に精巧に描かれていて、息をひそめるようにして読みふけった。人生を美化することなく、残酷なほど客観視して描いているのに、なんだこのうつくしさは。」
装幀 『光の犬』の装画は、コーネリア・フォスというアメリカの女性画家の絵です。
著者はこの画家の絵を、「芸術新潮」の編集長時代、〈武満徹特集〉で初めて知ったそうです。武満徹の遺品のなかに一枚の絵はがきがあり、その風景画が深く印象に残っていたとのこと。絵はがきの送り主は、コーネリアの夫で、高名な作曲家ルーカス・フォス。武満徹とルーカス・フォスは親しい友人同士でした。そしてコーネリア・フォスは、グレン・グールドともゆかりの深い人だったのです。
コーネリア・フォスとグールドをめぐる話は、著者のエッセイ「グールドの恋人」(日経新聞 2017年11月19日)で読むことができます。

著者プロフィール

松家仁之 マツイエ・マサシ

1958年、東京生まれ。編集者を経て、2012年、長篇小説『火山のふもとで』を発表(第64回読売文学賞受賞)。『沈むフランシス』(2013)、『優雅なのかどうか、わからない』(2014)につづき、『光の犬』は四作目。編著・共著に『新しい須賀敦子』『須賀敦子の手紙』、新潮クレスト・ブックス・アンソロジー『美しい子ども』ほか。

書評

「私の読書日記」週刊文春(2017年11月23日)抜粋

池澤夏樹

 ×月×日
 二十世紀イギリスのあるカトリックの作家が自分の小説のまえがきにこう記している――(これは)「性格はさまざまでもきわめて親密な一群の人々にたいする神の恩寵の働き」を書いた小説である。
 松家仁之の『光の犬』を呼んでいてふとこれを思い出した。宗教が正面から扱われているわけではないが、何人かの登場人物は明らかに作者によって祝福されている。その生きかたが肯定されている。
 北海道の東部、オホーツク海に近い枝留という架空の町が舞台。ここで暮らした三代の家族とその周辺の人々、並びに四代に亘る北海道犬の物語である。
 いちばん若い世代の添島歩と始という姉弟を基点にすれば、祖母のよね、父の眞二郎が直系の尊属になる。よねは信州の追分で生まれて、東京に出て、助産婦になった。夫の眞蔵とともに枝留に来て、たくさんの赤ん坊を取り上げた。
 長男の眞二郎は父が重役を務める薄荷精製工場の電気技師。この一帯は長く薄荷の生産で栄えた地域だ。妻の登代子との間に二人の子がいて、それが歩と始。
 眞二郎には三人の姉妹がいて、みな独身のまま同じ敷地内で暮らしている。
 そして犬たち。家族も同様だったイヨとエスとジロとハル。それぞれの性格の違いが細やかに描かれる。
 多くの登場人物について多くのエピソードが連なるのだが、とりわけ丁寧に足取りを辿られるのは歩と始である。だから二人とそれぞれに親しくなる工藤一惟いちいの存在は大事だ。
 群像を扱う小説であるから、色の違う何本もの糸が縒られるようにして話が進む。その中から歩と一惟という糸を辿ってみようか。二人は小学生の時に出会う。父子家庭の一惟が転校生としてやってくる。彼の父が牧師を務める教会の日曜学校に歩は通う。高校になると絵を描くという絆ができる。やがて一惟のバイクの後ろに歩は乗るようになる。「歩はまだ自分が一惟の恋人だとはおもっていなかったが、そうとられてもべつにかまわないと、なかばひらきなおっていた」。
 その後、彼女は札幌の大学の理学部に進み、一惟は京都の大学の神学部に行く。それぞれに恋人を得て、それも何人かを経るけれど、歩は最後まで結婚しない。一惟の方は沙良という妻を得て、二人の子供も生まれる。歩とは手紙のやりとりはあるものの疎遠になって十数年後、一惟は牧師として彼女の終油礼を執り行う。本来ならばプロテスタントにこの秘蹟はないのだが、臨終を前に彼女が懇願するのだ。
 歩は大学では天文学を専攻し、三鷹の国立天文台に勤め、野辺山の電波天文台に移り、また東京に戻った。弟の始に言わせればこの姉は「意志のつよさ。ひとりでなにかを大胆に決めると、そこへ向かって計画を立て、実行する。笑顔がいつも晴れ晴れしていて機嫌がいいこと」などの長所を持っている。だいたい理性的で何かに狂うということがない。
 子供の頃ならば、「飼われてきた北海道犬はみな、ほかの誰より歩に懐いた」ということもある。
「エスにとって歩は姉のような存在だった。いっしょに散歩にでれば、眞二郎とのお決まりのコースを外れて、もっとずっと先まで歩いてくれる。気が向けば湧別川沿いの道を小走りでゆくこともある。人影がなければ、川沿いの広場で引き綱を外してしばらく好きに遊ばせてくれもする。首のまわりや喉もとをたっぷり撫でてくれる。爪や目や耳をチェックして、具合の悪いところはないか調べるのも得意だった」
 このようなアフェクションをもって語られるから、彼女は作者に祝福されていると思えるのだ。同じことが祖母のよね、始や一惟、その友人で名前のごとく毅然と生きながら不慮の死を遂げる石川毅などについても言える。それを神の恩寵に帰することができるか否かはともかく、彼らは生きるに値する人生を生きたという気がする。
 しかし、添島の一族は途絶える。眞二郎の三人の姉妹はみな独身で終わるし、歩も独身、始と妻との間にも子供はいない。振り返ってみればそうなのだ。
 彼らとつかず離れずで長く付き合って、やがて別れの時が来て去ってゆく彼らの背中を見送る。この本を読むのはそういう体験である。
 タイトルがとりわけいいと思ったのは、光と犬という相似形のせいかもしれない。

(いけざわ・なつき 作家)
単行本刊行時掲載

言葉にならないものの豊かさ

養老孟司

 久しぶりに小説を読んだ。途中で投げ出したら困るなあ。書評を引き受けてから、そう思った。ところがなんと、そのまま読み続けて、とうとう一気に読了してしまった。
 なぜそうなったか。よくわからない。途中で感動して、涙が出そうになった。私はもう80歳になるから、テレビで水戸黄門を見たって、うっかりすると泣き出す。要するに脳動脈硬化じゃないかと思うが、その説明だけでは、自分でも納得がいかない。なぜなら、意図してわかりやすく、感動的に作った話というわけでもないからである。淡々とした家族三代の物語に過ぎない。
 それを読んで、なぜ感動するのか。いい年をしているのに、自分とはわからないものですなあ。自分でもよくわからないんだから、他人が感動するかどうか、そんなことまでわかるわけがない。テレビを見ていたら、カズオ・イシグロのノーベル賞受賞が報じられていた。そういえば、この人の作品を読むときの気分に似ている。地味な話を、なにかボソボソ呟いている。それだけのことである。
 舞台は北海道の田舎町。家内の実家がまさにそうで、家内の弟が名寄で実家を継いでいる。家内の家族の話だと思っても、感覚的に不思議はない。雰囲気がそのまま通じてしまう。ただしこの物語には北海道犬が登場する。家内の実家に犬はいない。
 犬が中心かというと、そういうわけでもない。だから表題の意味は、最後に近い部分まで読まないとわからない。読んでもわからないかもしれない。主人公の1人である「歩」はまだ幼く、言葉も発しない。その幼児の視界にあるものとして、光に包まれた犬たちが描かれる。言葉がない幼児の視界の中だから、もともと言葉にならない。だからわかるかというと、よくわからない。わからないままだが、まあそれでいい。北海道で暮らしてきた家族の話に、北海道で長年暮らしてきた犬の話が付く。それで当然という気がする。
 小説はロマンで、現代社会はロマンをバカにする。クール・ジャパンとか言う。なにがクールだ。もともと感動することもできない人間に、クールもクソもあるか。そう悪態をつきたくなる。
「教会になぜ音楽があるのか。ことばだけでは追いつくことができないものがあるからだ。一惟いちいは神学部にくる前から、そう考えていた。人間が絵を描くことも、ことばにならないものをかたちに仮託している。ことばは不自由だ。」
 一惟は主人公の一人の名前である。音楽も絵も、まさに言葉にならないから、存在している。じゃあ、小説とはなにか。書かれている部分は当然だが、さらに言外を想起させるものである。言葉で書いていくけれども、そこに直接には言葉にならないものが表れてくる。その部分が豊かであるほど、優れた作品になる。メタ・メッセージといってもいい。日本語で雰囲気とか空気とかいう。私はそれをバカにしない。言葉が人を動かすのは、じつはメタ・メッセージのせいである。自分で理屈を言うから、そこはよく知っている。要するに理屈はつまらないものである。理屈は後付け、ほとんど言い訳に過ぎない。
 読み続けるうちに、北海道が浮かんでくる。自然と人生が独特の調和を保つ。犬が登場するのも、それである。うまく表現されているなあ。どこがというのではない。ちょうど札幌から戻ったばかり、冬に外に出たらすぐにわかる。いくら部屋の温度を調節しても、外はやたらに寒い。東京のオフィスやマンションとは違って、そこでは自然を消すことができない。
 高校生のときに、はじめて大雪山に行った。北大に行きたかったが、母親に断られた。家内もそうだが、意図したわけではないのに、北海道出身の知人が多い。親しくなって、聞いてみると、北海道だとわかることがある。歌なら中島みゆき。べつにふられる歌がいいというのではない。メロディーが美しい。
 政治家は地域振興を言う。そんなことを言わなくても、地域はそれとして存在している。それを上手に書いてくれたなあ。北海道の贔屓としては、それが嬉しい。そういえば、来月は小樽、ここには毎年行く。

(ようろう・たけし 解剖学者)
波 2017年11月号より
単行本刊行時掲載

イベント/書店情報

各紙書評

朝日新聞(2017年12月17日)書評 市田隆氏 「読者はこの家族の物語を読み終えると、自分の人生を振り返り、思いふけることになるだろう」
毎日新聞(2017年12月24日)書評 湯川豊氏 「読んで、いいようがないほどの強い衝撃を受けた。しばらく、読んだことを忘れようとさえした。黙り込むしかない。しかし、その沈黙のなかに、長篇のさまざまな断片が、語りかけてくる」
読売新聞(2017年12月10日)書評 朝井リョウ氏​「​短い時間で気軽に味わえる娯楽が持てはやされる風潮の今、腰を据えじっくりと贅沢ぜいたくに味わいたい一冊だ」
日経新聞(2017年11月25日)書評 清水良典氏「本書が記すいくつもの生の瞬間は、読者の記憶に光の粒のように吸収されていくだろう。孤独に耐えうる力を与えてくれる光だ」


書店員さんのご感想

紀伊國屋書店 西武渋谷店

竹田 勇生さん

神の前に跪坐く――あの姿は生命の発する光を受けとめてもらう姿なのだろうか。

何という豊潤な文章だろうか。松家さんと同じ深度で文章を紡ぐことのできる作家は
いない、そう断言できる重層な物語だった。

言葉を重ねて文章となり、それが紙の上に落ちた瞬間、雫のように滲んで香る、
その連続。物語を運ぶ用途としての言葉も文章も皆無で、僕は最初その緊張から
逃げたことを、正直に告白せねばならない。
小説を読む上で、読者はまず己の身の置き所を探す。ただ、私の浅薄な宗教観では
どこか立ち入れない、扉がまずあったように思う。

それをこじ開けることができたのは、松家さんの北海道という土地に吹く風を直に
当ててくれるような描写の数々とやはり自分と同じように神の前で所在無く立ち尽くす
若者たちの群像であった。
ただ、若者は若者のままではいられない。
老いさらばえてゆくものがそれを許さない。
親子、或いは親族の中で、否応なく機能を失っていかざるを得ないのは年長者であり、
その役目は持ち回り的に受け継がれてゆくしかないのだ。それを成長と呼ぶのは、
あまりに酷だと思うのは、私が今ちょうどその境目にいるからかもしれない。

あの、始がどんな思いで認知症の進む叔母たちの世話をし、父を見送ったのか。
それでも、彼はその役目を放棄することなく、家族の円環を守り抜いた、
その姿にはやはり感動を禁じ得なかった。
早くに逝った姉の歩がそうさせたのか。前だけを向いて走り抜けたように見えていた
姉を看取ることとなったことも、始の人生を大きく変えたのだろう。
彼がどこかに消失点を幻視するくらいには。

歩の存在はどこまでも眩しかった。自分の過去を掘り起こして、それと同じような
日々をどこかに探り当てたとき、信じられないほどの悲しみが押し寄せた。

私たちは結局、どんな痕跡も、神の施しすらその身には刻めないまま、別れていく。
確かな思い、その言葉すら、いつか受け止める術を失って、それが宇宙の営みの中で
芥子粒ほどの価値もない生命であったとして、それでも人間は最後の最後まで光を
放っているのだと思うと、どうにもやりきれない。
ただ、その葛藤こそ人を人たらしめるものであるという当たり前の理解に、
私は体を預ける他なかった。

ああ、一惟のオルガンが聴きたい。そう、思った。彼の教会で弾く音色に、
この物語を通してどのような変化があったのか、それを自分なりに確かめてみたい。
無論そんなことは叶わないのだが、彼の音楽だけがすべてを知っているという
確信がある。野生の摂理や万物の法則をもってしても、割り切る事のできないもの、
言葉を超えたところにある知覚は、いつか誰かの発した光なのかもしれない。

この作品における感情の反射はまたいつか私のもとに帰ってくるだろうか。
そうではないとしても、私が最後に放つ光の中には、今日この日この時、この作品を
読んで得たものが光っているであろうことに、この上ない喜びを感じることができる。

谷島屋 営業本部

野尻 真さん

読後様々なことを想い出した。
これまでの自分の人生、大切な家族の人生。
生まれてきた二人の子どもたち。
亡くなってしまった自分の父、妻の母、色々と想い出した。
うれしくて、なつかしくて、寂しくて、涙が出た。
とめどない涙が溢れ出た。

人がこの世に生を享けるその瞬間から、日々の暮らし、家族、血、繋がり、死別、生別、老い、記憶、ことば、影響、信仰、祈り、祝福、妬み、怒り、憎しみ、苦しみ、罪、絶望、悲しみ、涙、愛、真実、全てがここにある。

この物語は、人がこの世で生きる『人生』そのものが記された、『人生』の物語だ。

短評

『光の犬』は読後、しばらく黙っていたくなる小説だ。物語の静寂の中に、たたずんでいたくなる。

――読売新聞 文芸月評より
(2017年5月4日)

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