新潮文庫


おまけのこ
畠中恵

一人が寂しくて泣きますか? あの人に、あなたの素顔を見せられますか? 心優しき若だんなと妖たちが思案を巡らす、ちょっと訳ありの難事件。「しゃばけ」シリーズ第4弾は、ますます味わい深く登場です。鼻つまみ者の哀しみが胸に迫る「こわい」、滑稽なまでの厚化粧をやめられない微妙な娘心を描く「畳紙」、鳴家の冒険が愛らしい表題作など全5編。じっくりしみじみ、お楽しみ下さい!

ISBN:978-4-10-146124-3 発売日:2007/12/01

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おまけのこ


     1

「ぎゅわーっ……!」
 甲高い悲鳴が、廻船問屋兼薬種問屋、長崎屋の中庭に響き渡った。
 店表にいた者達も、奥の間や台所で働いていた者達も、一斉に手を止め顔を見合わせる。直ぐに何人かの奉公人が、店奥の中庭に走り出ていった。
 長崎屋は大店だが、店は江戸でも指折りの繁華な通町にあるから土地は貴重で、中庭はさほど広くない。よって離れや土蔵の辺りを確認するには、数人で手が足りた。母屋から若だんなの一太郎も顔を出し、その様子を不安げな顔で見ている。
 程なく、土蔵と塀に囲まれた、狭い場所に踏み込んだ奉公人の口から、鋭い声が上がった。
「誰かっ。人が倒れてる!」
 両の手を広げ、地面に抱きつくようにうつぶせになっていたのは、小柄で若い男だった。
「こりゃ、天城屋さんのお連れじゃないか。八介さんと言ったかね。確か櫛職人だよ」
「ちょいとお前さん、大丈夫かい?」
 奉公人らが声をかけたが返事がない。そこに、薬種問屋から手代の仁吉が走ってきて、倒れている八介の胸に耳を当てた。すぐに小僧に、長崎屋かかりつけの名医、源信を呼びにやらせる。ぴくりともしないが、八介は息をしているようであった。
 だが八介を見下ろす皆の顔つきは、強ばっている。否応もなく目に入ったものがあるのだ。八介の頭部、月代の真ん中辺りに、何かで強く殴られたかのような痕が、赤黒く付いていた。

 廻船問屋兼薬種問屋、長崎屋は、近江や伊勢、大坂の大商人の店のように、本店を上方に持った上で、こちらは大番頭などにやらせている江戸店とは違う。江戸に住まう者が開いた店だから、主と家族が店の奥で暮らしていた。中庭には、跡取りの若だんな、一太郎が寝起きする離れもあった。
 その離れは元々、先代の隠居所だったところだ。今は病弱な若だんなの他に、兄やである手代二人が寝起きしているだけであった。なのに離れからは、時折賑やかな声が聞こえてきたりする。不可思議な事だと、使用人らがたまに噂をしていた。
 そのことについて、長崎屋には余所に語れぬ事情があった。
 実は若だんなは、齢三千年の大妖である祖母皮衣の血を引いており、その生まれのせいで妖を見ることができるのだ。そんな若だんなの元には、日々妖どもが集ってくる。若だんなに甘え、喧嘩をし、飲み食いをして騒ぐものだから、長崎屋の離れは賑やかなのだ。
 長崎屋に巣くう妖で一番数が多いのは、何といっても家を軋ませる妖の鳴家だ。軒や廊下が軋むような音をたてたら、それは鳴家の仕業であった。
 今日もその内の一匹が、ぎしぎしと独り言を言いながら、店奥の廊下を歩いていた。離れから廻船問屋長崎屋へと向かっているところであった。
「ほんに珍しい。若だんなが廻船問屋の方で、お仕事なんて」
 病の時に飲ませる薬を集めている内に、薬種問屋長崎屋が出来てしまったほど若だんなは体が弱い。だから体調が良いので働くといっても、父親の藤兵衛と共に、来客の相手をするだけの話だった。
 だが、それでも久方ぶりのことには違いない。離れから母屋へ歩いた若だんなが疲れ果てて、廊下の途中で倒れてはいまいかと、鳴家はいささか心配しながら、藤兵衛の居間へ歩を進めていた。
 廻船問屋に向かうのは、勿論若だんなを気遣ってのことだが……実は他にも目当てがあった。来客が持参したであろう菓子だ。
 長崎屋へ来る客は大概、若だんなが寝付いてばかりだと承知していて、見舞いの品を欠かさない。若だんながたまに元気にしている時ですら、養生になるとかいって甘味を持ってくるのだ。そうすれば跡取り息子に大甘な、長崎屋藤兵衛が喜ぶと承知しているからで、その数は若だんなのため息と共に、増える一方であった。
 客が帰れば菓子は下げられ、若だんなが離れで妖達に分けてくれる。だが、もらい物は数が限られる。競争相手が多いので、鳴家は最近仲間に菓子を取られ、食べ損ねていた。今日こそは先んじて食べたいと、母屋まで取りに来たのだ。
 鳴家は人に姿が見えない妖なので、黙っていれば奉公人らに見つかることはない。無事藤兵衛の居間の前にたどり着くと、部屋の隅から入り込んだ。
 途中で倒れもせず父親の隣に座っていた若だんなが、直ぐに鳴家の姿を目に留めて、驚いた顔をした。だが婿養子で皮衣の血を引かぬ藤兵衛は、妖にはとんと気付きもせず、恰幅のよい商人とにこやかに話を続けている。
(菓子はどこだ? 見あたらないよ)
 鳴家がきょろきょろとしている横で、藤兵衛は懐から、小さな臙脂色の天鵞絨の袋を取り出し、天城屋さんと呼んだ客に手渡した。
「これを運んだ常磐丸が、間に合うように江戸に帰ってこられて、ようございました。今月の末には、お嬢さんのご婚礼ですからねえ」
「ほんに有り難い。おふさの母親には苦労ばかりかけ、あげく、まだ店が小さく報いてやれぬうちに、死なせてしまいました。だから娘だけは先々まで、暮らしに困らぬようしてやりたくてね」
 そう言って天城屋が、渡された袋から取り出したのは、月の光を丸く小さく固めたような、それは美しいものであった。白くて、ふわりと柔らかく光っている。まだ昼間なのに、部屋の内に月が現れたかのようだ。
(もしかして部屋の内に入ると、お月様の光はあんな風に、綺麗な玉になるのかな)
 見たとたん、鳴家は菓子のことなど、すっかり忘れてしまった。小さな胸はその美しさに驚いたかのように、どきどきと鳴りだす。藤兵衛達に聞こえるのではと、思わず手で胸を押さえたほどだ。だが二人は鳴家の方を見る気振りもなく、白い輝きを前に満足げに頷いたあと、話を続けた。

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