新潮社

TRY48中森明夫

[第二回 3/4]

 力石徹よ
 君はあしたのジョーのあしたであり
 橋の下の少年たちのあしたであり
 片目のトレーナー丹下段平のあしたであり
 すべての読者のあしたであった

 力石徹よ
 ジョーは君を倒す事だけに貧しさにたえ
 流木やごみくずの集まる街からはい出て
 血と飢えのボクサー生活にたえてきたのだった

 力石徹よ
 マンガあしたのジョーの中で
 君に与えられた役割は、ひと口に言えば
 体制社会の権力の投影によって成り立っていた
 君はアメリカのスーパーマンの戯画のような顔して
 資本家の支援を得て技術と判断によってリングに君臨していた

 力石徹よ
 すべての読者は君がリングの上で
 いつかはジョーに叩きのめされるのを夢見ながら
 同時にジョーは君には決して勝てないのだということを
 自分の日常生活の中で思い知っていた

 力石徹よ
 それゆえこそ君はあしたであり
 川岸にさす陽の光りであり
 リングの中央にそびえる樫の巨木であったのだ

 力石徹よ
 君は英雄ではなかった
 君はスラムのゲリラだった矢吹ジョーの
 胸の内なる幻想、権力の露払い
 仮想敵にすぎなかった男よ
 ジョーの風来橋の下での犯罪
 そして貧困と反乱の河の流れは
 すべて君にむかって鍛えられていた

 力石徹よ
 おまえを殺したのは誰だ、誰なのだ
 少年感化院の優等生、その挫折なき青春よ
 おまえを殺したのは誰だ、誰なのだ
 資本家づらしたサンドバッグよ
 おまえを殺したのは誰だ、誰なのだ

「俺たちに明日はない」と
 時代を先取りして死んでいった
 機関銃ギャング、ボニーとクライドも密かに夢見た
 明日という名の凱歌よ
 おまえを殺したのは誰だ、誰なのだ

 暗黒の航路のひとすじの光り
 明日という名の生きがい死にがい
 もう決して訪れては来ないのか
 夢よふりむくな
 おまえを殺した者の正体を突きとめるまでは

 力石徹よ
 おまえを殺したのは誰だ、誰なのだ
 おまえを殺したのは誰だ、誰なのだ
 おまえを殺したのは誰だ、誰なのだ
 おまえを殺したのは誰だ、誰なのだ
 おまえを殺したのは誰だ、誰なのだ

 力石!

 ひと声、叫んで、昭和精吾は弔辞を破り裂き、紙吹雪のように宙に舞い上がらせた。
 呆然とする。あまりにも大げさで、深刻で、芝居がかっていて……というか、お芝居そのものだ。しかも、異様に熱苦しい。とても漫画のキャラを悼む、お遊びイベントのムードではない。客席には、目を真っ赤にして泣きじゃくっている若者たちもいた。
 今からおよそ半世紀前、1970年3月24日に行われたという。ああ、そういう時代だったのかな? と百合子は、ぼんやりと考えた。
「すごいねえ。でもさ、これで終わらなかったんだよ」
 サブコは、しんみりと言う。
「それから35年後、2005年2月に『デスノート』のLが死んだんだ」
 えっ?
『デスノート』なら知っている。漫画も読んだし、映画やドラマも見た……テレビの再放送や、DVDでね。自分が生まれた頃に、こんな漫画が連載されてたのかって、驚いたもんだ。
 憎い相手の顔を思い浮かべ、その名前をノートに書くと、そいつは死ぬ。デスノートを手に入れ、死神と取り引きする少年・がみライトが主人公。次々と起こる怪死事件、その謎を追う名探偵こそ、Lだった。
 主人公の夜神月は、イマ風のさわやかなイケメン少年の風貌で描かれている。
 だけど、Lは違う。
 ボサボサ髪で、ぎょろ目で、血の気の失せた顔色をして、裸足で、椅子の上に乗っかり、膝を抱え、猫背で、いつも白いシャツを着て、親指をなめ、意外に運動神経がよく、極端な偏食で、ケーキやドーナツやフルーツポンチや、甘い物ばかり食べ……どこか奇妙な子供のように見える。
 たちまち百合子は魅せられた。Lのファンになった。エキセントリックな魅力がたまらない。映画やドラマで夜神月を演った藤原竜也や窪田正孝よりも、うん、L役の松山ケンイチや山﨑賢人のほうが、ずっとずっとかっこよかったしね。
 それゆえコミックスの7巻目で突如、Lが死んだ瞬間には、呆然とした。
 そんな、そんな……嘘でしょ!? と思わず、声を上げ、涙が出た。
 ああ、そういえば『あしたのジョー』を読んでいて、力石徹が死んだその場面で、Lが死んだ時のショックが百合子の内に甦ってきたのだ。
 サブコはスマホを操作している。
「あのさ、当時、こんな文章が発表されたんだよね」
 モニターを見せた。

   誰がLを殺したか
寺山修司  

「週刊少年ジャンプ」の今週号で、『デスノート』のLが死んだ。夜神月に操られた死神に名前を読み取られ、殺されたのだ。巧妙にもこの漫画の作者は、Lの本名を我々読者に明かしていない。Lとは誰か? いったい何者だったのだろう?
 ノートに名前が記されると、その人間は死ぬ。これは何の暗喩であろうか? 『デスノート』の卓抜な設定に、ふと想起したことがある。
 かつて私は、こう書いた。
〈偉大な思想などにはならなくともいいから、偉大な質問になりたい〉
 私は思ったものだ。私自身の存在は、いわば一つの質問であり、世界全体がその答えなのではないか、と。
 町ゆく人々に次々と質問をぶつける『あなたは……』というテレビ・ドキュメンタリー番組を作ったことがある。
〈今、一番ほしいものは何ですか?〉
〈もし、あなたが総理大臣になったら、まず何をしますか?〉
〈天皇陛下は好きですか?〉
〈あなたにとって幸福とは何ですか?〉
〈では、あなたは今、幸福ですか?〉
 質問は多岐にわたるが……。
〈最後に聞きますが、あなたはいったい誰ですか?〉
 これに対する人たちの反応は、まことに興味深いものであった。
「会社員です」「学生です」「一般市民です」「いえ、名乗るほどの者じゃありません」「名前は勘弁してください」「ははは、大した人間じゃないです」
 829人のインタビューされた人たちの中で、自身のフルネームを明確に答えた者は、ほとんどいなかった。
 私は思ったものである。
 人々は自らの名前を赤の他人に知られること、おおやけに晒されることを、極度に恐れているのではないか、と。
 メキシコのインディアンの部族には、名前を書いた紙に呪術をかけられると、その者は死ぬ――との言い伝えがある。それゆえ部族民らは真の名前を隠して、偽名によって生活する風習があるのだという。案外、『デスノート』の発想は、こうした類感呪術的な実名禁忌の民族神話に根ざすものかもしれない。
 思い出すのは、宮崎駿監督のアニメ映画『千と千尋の神隠し』だ。主人公の少女は千尋という本名を隠して、千という偽名で異界を旅する。本名を大切に守り抜くことで、現実世界にぶじ帰還を果たすのだ。
『千と千尋の神隠し』と『デスノート』、21世紀に入ってからの大ヒット作品は、奇妙にも共に「名前を守る」という同一主題によって貫かれていた。これはいったい何の教訓であろうか?
 現在のインターネット社会では、名前を晒すことで、思わぬ攻撃に遭う。たとえば匿名の少年犯罪者が、その名前を暴かれ、批難や中傷の集団リンチに遭ったりもする。時には社会的生命すら抹殺されるのだ。その意味で、ネットの匿名掲示板=2ちゃんねるこそ、デスノートなのだと言えるかもしれない。
『千と千尋の神隠し』の千尋にとって千とは、いわゆるハンドルネームであって、これはインターネット社会を生き抜く智恵をもたらす教訓譚でもあった。『デスノート』がこれほど若い世代に支持されたのも、SNSの過酷な匿名空間で、日々、名前を晒されることに脅えて生きる若者たちの恐怖心が根底にあったからに違いない。
 すると、さて、Lとは何者か? 『デスノート』の主人公・夜神月と宿敵・Lのその風貌に着目したい。さわやかな美少年・夜神は正義の味方であり、対するLは異形の悪人のように見える。実際は、夜神こそ殺人鬼(=キラ)であり、Lはそれを追う名探偵なのだ。いったい、どういうことだろう?
 夜神月は、単純な悪人ではない。法律によって裁かれない悪人を、『デスノート』によって抹殺する過剰な正義の使徒だ。彼は法律を超えている。やがて新世界の“神”をも自称するまでに自意識を肥大化させるだろう。
 ハンス・マグヌス・エンツェンスベルガーの『政治と犯罪』によれば、「犯罪者は国家の競争相手であり、国家の暴力独占権をおびやかす存在である」という。これこそキラ=夜神月の定義にふさわしかろう。
 夜神月は、悪ではない。過剰な正義だ。過剰な正義を、正義によって裁くことはできない。凡庸な正義=警察権力は屈伏するしかないだろう。
 そこで、Lが召喚される。Lは、正義ではない。善でもなければ、悪でもない。善悪の彼岸(ニーチェ)に立つ、異形の者だ。
 ボサボサ髪の隙間から、ぎょろ目を覗かせる――特異なその風貌に、私はどこかで逢ったような気がしていた。
 そうか……はた、と膝を打つ。
『忍者武芸帳』の影丸だ!
 安保闘争の60年と70年の分岐点で、反体制運動にさまざまな分裂が起きていた頃、白土三平の漫画『忍者武芸帳』は、貸本屋の本棚からとび出して、幻の指導の役割を果たした。
 農民一揆を指揮する革命家の影丸が主人公である。死んでも、すぐに生き返る超人的な忍者・影丸が、実は不死身ではなくて、他の仲間によって「影丸」を引き継がれていたのだと知った時のショック!
『デスノート』の第21話「裏腹」には、こんな場面がある。夜神月とLが面識を得て、カフェで対話する。互いの腹を読み合い、推理合戦を繰り広げるのだ。自らがLだと名乗る目の前の男に、夜神は疑いを抱く。それに対する返答――。
「正直に言うと、今、Lと名乗っている者は私だけではありません」
 その上で、夜神にもキラの捜査に加われと言うのだ。つまり、Lの一員になることを要請するのである。
 これは夜神を引っかけようとするトラップ(罠)、レトリックにすぎないかもしれない。が、存外に重要な意味を孕む。
 つまり、『忍者武芸帳』の影丸が単体の忍者ではなく、複数の分身によって引き継がれていたように、Lもまた、個人の名前ではなく、集合名詞であるということ。その風貌のみならず、両者はそっくりだ。
 もう、言ってしまってもいいだろう。
 そう、Lとは影丸の子孫なのだ!
 さて、Lの名前である。この奇妙な「L」というアルファベット表記、頭文字に続く全体の名前は、いかなるものだろうか?
 ところで、夜神月は「月」と書いて「ライト」と読む。月明かり、すなわち、ライトとは……Lightである。
 頭文字は「L」だ。
 さらに言えば、月の女神、ルナ(Luna)。ルナティック(Lunatic)とは、月の影響による狂気――を意味する。
 すべて頭文字は「L」。
 なるほど、Lとは、夜神月のことであった! いや、夜神月のアルターエゴ、分身。エドガー・アラン・ポーの短篇「ウィリアム・ウィルソン」に現れるドッペルゲンガー。Lが夜神の分身なら、彼らの知力が拮抗し、テニスの腕前も互角なら、夜神が一発殴れば、即座にLが一発蹴り返す……その対照の妙も容易に了解できる。
 Lを殺したのが夜神月であるならば、すると、彼は自らの分身を抹殺したことになる。
 今から35年前、『あしたのジョー』の力石徹が亡くなった。私は、力石が矢吹丈のリアクションであり、丈の胸の内なる幻想であったと書いた。
 今、その力石とLの姿が、ぴたりと重なり合う。
 力石が死んで、『あしたのジョー』の物語は急速に求心力を失った。やがて丈は破滅に向かい、真っ白に燃えつきる。
 歴史は繰り返す。『デスノート』の物語もまた同じ轍を踏むのだろうか?
 いや、Lが影丸の子孫である限り、その分身たちが、そう、Lの遺志を継ぐ者らが次々と現れ、夜神月に対峙するのであろうか?
 それは、わからない。
 しかし、Lが死んだこの今、一度はきちんと彼の魂を葬り、その死を悼みたいものだ。
 力石徹の葬儀以来、35年ぶりに私は喪主を務めたいと思う。
 そうだ、Lの葬式を開こう。
 ぜひ、参列を願いたい。