2011年07月

 大船渡線には少なくとも1度以上乗ったことがある。にもかかわらずこの細浦駅の存在を知らなかった。細浦の町は大船渡湾の一郭にある小さな浦にある。小さな湾は、太平洋から大船渡湾に侵入した津波が見過ごしてもおかしくない向きに湾入している。
 瓦礫の町を進んで駅前に辿り着く。駅舎はなく、作業用のプレハブ小屋が建っていた。ホームに上がると元下り線側に大きな桜の木が目に入る。大きな木が3本、花は散ったばかりだった。大船渡方、陸前高田方にも大きな屋根が流れ着いた。

大船渡線 <投稿日:2011年07月28日>

 大船渡には3つの鉄道がある。JRは大船渡線で大船渡駅は町の中心地にあるが、終点は盛駅。この盛で接続しているのが、三陸鉄道南リアス線と岩手開発鉄道だ。南リアス線の盛~吉浜は、昭和59年まで国鉄盛線だった。盛から一つ目の駅が陸前赤崎。駅の標高が12.7mで被害は軽微だったが、1枚目の写真のように、ホームから見える赤崎地区の様子は息をのむ。

大船渡線 <投稿日:2011年07月25日>

 ……ほかに連絡が取れないのは、宮城県気仙沼市の松岩―最知を走行中だった気仙沼線(2両編成)1本と、岩手県大船渡市の大船渡線(同)の2本。大船渡線の1本は大船渡―下船渡、もう1本は盛駅付近を走行していたとみられる。地震発生直後は連絡が取れたが、その後連絡がつかなくなった。――

大船渡線 <投稿日:2011年07月21日>

 小石浜の次は綾里。この2つの駅の間にはかつて白浜海岸という臨時駅が夏の間だけ開設されていた。綾里湾の湾奥に位置する白浜海岸は、明治29年の明治三陸津波で津波遡上最高記録(38.2m)を残した。小さな半島の付け根を津波が両岸から襲い、津波同士がぶつかったという。被害戸数296戸、溺死1350人と石碑に刻まれている。

三陸鉄道南リアス線 <投稿日:2011年07月19日>

 南リアス線を訪れた5月2日、沿線は心地よい春の日差しが降り注いでいた。三陸駅のホームから見る越喜来湾(おきらいわん)の静かな碧さが目にしみた。この海が突然どす黒いヨダ(三陸沿岸では津波をこう呼ぶらしい)となって陸地を襲った。作家高山文彦氏はヨダについてこう解説する。「怪物でも呼ぶようなこの言いかたは、津波というものがまるで別世界のものではなく、つねに身近に存在する恐ろしいものとしてとらえられていたことを教えている」(『オール讀物』平成23年5月号)
 三陸駅は難を逃れたが、同じ越喜来湾を望む甫嶺(ほれい)駅はよだの餌食になった。ホームは残ったが線路・路盤はずたずた。東大地震研究所の津波調査地点ともなり、15.5mの記録を残した。

三陸鉄道南リアス線 <投稿日:2011年07月14日>

 すでに2区間で運転再開をしている北リアス線とは違い、未だ全線で運休が続いている。「トンネルを出ると津波被害」が南リアス線の状況。全線至る所で寸断されている。ホーム下の駅事務所が浸水した釜石から2駅目の唐丹。奥州藤原氏の唐との密貿易を起源とする説もある地名らしい。
 唐丹駅は唐丹湾に面して、道路を隔ててすぐ前が海。地形からするとひとたまりもない感じがある。しかし、駅前の自動販売機等は流出したようだが、ホーム、待合室などはほぼ無事。われわれが訪れた時は、瓦礫が多少残っている程度だった。

三陸鉄道南リアス線 <投稿日:2011年07月11日>

 大槌湾には2つの川が流れ込んでいる。ひとつは前回紹介した大槌川。大槌の惨状を後にして山を越えると、また惨状が目の前に広がった。鵜住居(うのすまい)川が大槌湾に注ぐ河口付近にできた平野部が鵜住居地区。ここは釜石市内である。築堤上の線路が消え廃線跡のようである。鵜住居橋梁を渡るとすぐに鵜住居駅。中世に鵜住居氏の居城がここにあったことから、この地名が残っているという。印象に残る地名である。駅は瓦礫の集積で何がどうなっているのかわからない状態だった。

JR山田線 <投稿日:2011年07月07日>

 車がトンネルを抜けると破壊された町が目の前に広がった。大槌川の手前海側の新港町では自衛隊が瓦礫の整理にあたっていた。その向こうに山田線の築堤から線路が斜めに落ち、切れているのが見える。大槌川橋梁の橋桁はすべて消失。東大地震研による津波の測定値は12.7mである。何もかもが破壊されている。

JR山田線 <投稿日:2011年07月04日>

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