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敦煌

井上靖/著

737円(税込)

発売日:1965/07/02

  • 文庫
  • 電子書籍あり

九百年間、眠り続けた仏典四万巻。敦煌文書を巡る雄大なロマン。西域の夢の都敦煌の衰亡を描く不朽の名作。

官吏任用試験に失敗した趙行徳は、開封の町で、全裸の西夏の女が売りに出されているのを救ってやった。その時彼女は趙に一枚の小さな布切れを与えたが、そこに記された異様な形の文字は彼の運命を変えることになる……。西夏との戦いによって敦煌が滅びる時に洞窟に隠された万巻の経典が、二十世紀になってはじめて陽の目を見たという史実をもとに描く壮大な歴史ロマン。

書誌情報

読み仮名 トンコウ
シリーズ名 新潮文庫
発行形態 文庫、電子書籍
判型 新潮文庫
頁数 320ページ
ISBN 978-4-10-106304-1
C-CODE 0193
整理番号 い-7-4
ジャンル 歴史・時代小説、文学賞受賞作家
定価 737円
電子書籍 価格 605円
電子書籍 配信開始日 2014/02/07

書評

記憶に残る〈イメージ〉

田中空

 マンガを描く時、常に探し求めているものがある。それは記憶に残る〈イメージ〉だ。
 物語のストーリーは、時間が経てばあっという間に忘れてしまう。だが、ある場面の風景やそこに生きるキャラのイメージはずっと残り続ける。むしろ、時間のふるいにかけられても残り続ける鉱石のようなイメージこそが物語の本当の部分だと思っている。現実でも、三日前の昼に何を食べたかはたいてい忘れるが、何十年も昔に友人から何気なく言われた一言をずっと覚えていたり、卒業以来会っていない恩師の顔や声色が今でもモノマネできるほどリアルに思いだせたりすることがあって、そういった場面や人のイメージはしっかりと心に残り、自分の体の一部になっている。
 物語の中で記憶に残るイメージを生み出すのは難しい。読者の心がハッとする場面やキャラをいかに描けるかに掛かっている。だがヒントは過去の名作にたくさんある。自分は小説からそのヒントを得る場合が多い。小説は絵がない分、自分の頭の中で想像を膨らませやすいからだ。作品からのイメージを自分流に構築しやすい。そこから次の作品につながる新たなイメージが生まれてくる。
 新潮文庫からの三作もそういった観点で選んだ。どれも自分が高校生の頃に読み、それ以来ずっと頭の中にイメージが残り、自分の創作に影響を与え続けている作品だ。

 一つ目は井上靖の『敦煌』。およそ千年前の浪漫あふれる中国のエキゾチシズムはまるでファンタジー世界だが、そこには確かな血肉を持ったキャラたちが生きている。個性豊かなキャラが多数登場するが、中でも猛々しくも純粋に生きる朱王礼がお気に入りで、彼のある場面をずっと忘れられずにいる。それは次の場面だ。

井上靖『敦煌』書影

 逆さになって馬に吊り下がっている趙行徳の視野の中に、この時血で顔面を赤く染めた仁王のような男の姿がはいって来た。男は馬上から声をかけた。

 趙行徳は主人公。馬上の男が朱王礼だ。天地逆転して見下ろしている真っ赤な男の姿が頭の中にありありと浮かび、当時絵に描いたほどだ。そのくらいこの場面はキャラの生き様とシンクロしたイメージとして記憶している。頭の中で彼の燃えるような赤のイメージはどんどん広がり、自分にとって『敦煌』といえば朱王礼の赤である。キャラが色を発散させているイメージは面白い。

 二つ目は安部公房の短編集『無関係な死・時の崖』。彼の作品の夢か現実かその境目が分からなくなるような場面描写が好きなのだが、収録作で一番印象に残っているのは「人魚伝」だ。例えば次の場面がある。

安部公房『無関係な死・時の崖』書影

 彼女はまさに、緑そのものだったのである。皮膚はもちろんのこと、髪も、眼も、唇も、なにからなにまでが緑色だった。

 主人公が出会う人魚の描写だが、全てが緑色の人魚。このイメージは一度読んだら忘れられない。奇妙な夢を見ているような感覚に包まれる。本作では人魚の描写がこれでもかと登場するが、アパートの風呂場にいる一言もしゃべることがない人魚の匂いまでが本から漂ってくる気がした。個人的に夢の中の風景は、現実とは別の本質が潜んでいると思っていて、本作が描くイメージは夢の中で感じる得体の知れない本質に似ている。イメージが身体にねっとり張り付き、五感が刺激される作品だ。

 最後はマーク・トウェインの『トム・ソーヤーの冒険』。誰もが知っている作品であり、目に浮かぶ場面はたくさんあるが、意外に最もイメージを記憶しているのは、女友達のベッキーが先生に追い詰められ絶体絶命の窮地に陥る次の場面だ。

マーク・トウェイン、柴田元幸 訳『トム・ソーヤーの冒険』書影

 ベッキーの両手が嘆願するように持ち上がった

 彼女の手はきっと小刻みに震えている。その振動が紙から伝わってくるようだ。両手が持ち上がるという描写もたまらない。そしてこの後の展開は何度思い出しても楽しい。十九世紀のアメリカに暮らす彼らが文庫の中でずっと生きていると本気で思ってしまう。
 こうした本から得たイメージは永遠に消えない。自分もそんな記憶に残るイメージを作品で生み出したい。

(たなか・くう 漫画家)

波 2024年5月号より

著者プロフィール

井上靖

イノウエ・ヤスシ

(1907-1991)旭川市生れ。京都大学文学部哲学科卒業後、毎日新聞社に入社。戦後になって多くの小説を手掛け、1949(昭和24)年「闘牛」で芥川賞を受賞。1951年に退社して以降は、次々と名作を産み出す。「天平の甍」での芸術選奨(1957年)、「おろしや国酔夢譚」での日本文学大賞(1969年)、「孔子」での野間文芸賞(1989年)など受賞作多数。1976年文化勲章を受章した。

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文学賞受賞作家
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