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影に対して―母をめぐる物語―

遠藤周作/著

649円(税込)

発売日:2023/02/25

  • 文庫
  • 電子書籍あり

両親が離婚した。母についていくべきだったのに見捨てた自分の弱さ、卑怯さが苦しい。 

なぜ父と母は別れたのか。なぜあのとき、自分は母と一緒に住むと勇気を持って言えなかったのか。理由は何であれ、私が母を見捨てた事実には変わりはない――。完成しながらも手元に残され、2020年に発見された表題作「影に対して」。破戒した神父と、人々に踏まれながらも、その足の下から人間をみつめている踏絵の基督を重ねる「影法師」など遠藤文学の鍵となる「母」を描いた傑作六編を収録。 

目次
影に対して
雑種の犬
六日間の旅行
影法師
初恋
還りなん
解説 朝井まかて

書誌情報

読み仮名 カゲニタイシテハハヲメグルモノガタリ
シリーズ名 新潮文庫
装幀 Vilhelm Hammershoi/カバー装画、(C)AGE/カバー装画、PPS通信社/カバー装画、新潮社装幀室/デザイン
雑誌から生まれた本 新潮から生まれた本
発行形態 文庫、電子書籍
判型 新潮文庫
頁数 240ページ
ISBN 978-4-10-112340-0
C-CODE 0193
整理番号 え-1-40
ジャンル 文芸作品
定価 649円
電子書籍 価格 649円
電子書籍 配信開始日 2023/02/25

書評

封印された原稿

遠藤龍之介

 父の未発表原稿が発見された――遠藤周作文学館から連絡を受けた時には驚きました。死後二十五年も経って……。
 主人公は小説家になる夢をあきらめた男。「なんでもいいから、自分しかできないと思うことを見つけて頂戴」。母の言葉を胸に小説家を志したのに、ついぞ母の望む生き方はできずにいる。この主人公は明らかに父であり、「母」は父の母親である遠藤郁です。
 父はこれまで何度も小説に母親を登場させてきましたが、「影に対して」には母親への思いがより濃厚に描かれていました。家族描写など極めて私小説的ですので、父が生前この原稿を封印した理由も私にはよくわかりました。
 遠藤周作の遠藤郁に対する感情は、父がカトリック作家になったひとつの原点のようなもの、つまり「母なるもの」への憧憬のような気がしているのです。この小説を発表すれば、父の心の最下層に埋まっている部屋を開け放つことになる。私が勝手に公開してよいのか、随分と悩みました。しかしどうあれ書いたものが見つかったのであれば、世の中に出すべきなのだと勝手に解釈をし、出版を決めました。何十年かしたら、向こうで父に怒られるかもしれません。
 祖父・常久は銀行員で、郁はヴァイオリニストでした。常久と郁は次第に関係が悪くなり、離婚。その後、祖父は別の女性と再婚し、郁は両親が結婚する直前に亡くなりました。父と祖父は、ほぼ絶縁状態でしたから、「影に対して」にあるような、祖父、父、孫の交流は一切ありません。
 幼い頃から複雑な家庭環境は薄々感じ取っていました。例えばお正月に母方の祖父の家には挨拶に行くのに、父方の祖父の家には行かない。クリスマスプレゼントも誕生日プレゼントも来ない。子供心に不思議に思い、母に聞くと、
「お父様にとっての母親像は郁さん。お父様は郁さんのことをとても大切にしているのよ」
 とはっきり説明してくれました。父に直接聞いたことはありません。というのも父は郁のことを非常に偶像化していて、書斎に郁の写真が何枚も置いてある状態でしたから、あれこれ聞いてはいけないと子供心に思っていたのです。
 祖父と父については非常に印象深い出来事があります。確か私が三十歳の頃、老人ホームに入っていた常久のもとへ、父から「行こうよ」と急に誘われたのです。絶縁状態なのに珍しいことを言うなと訝しみながらお見舞いに行きました。部屋で祖父はベッドに横たわっていて、父は祖父の手を撫でたりして、三十分ほど滞在し、後にしました。
「蕎麦でも食うか」と誘われ蕎麦屋に入ると、父が、
「もういいかな」
 と呟いたのです。もういいかな、とは何なのか。常久の命が尽きても「もういいかな」なのか。それとも常久に対する積年の憎悪が「もういいかな」なのか。あるいは関係修復は「もういいかな」なのか。私の悪いところですが、深く聞かなかった。今にして非常に悔やまれます。
「影に対して」を読み衝撃が走った記述がありました。母親からの手紙で〈あなたも決してアスハルトの道など歩くようなつまらぬ人生を送らないで下さい〉とありますが、私は同じことを父から言われていたのです。
 私がフジテレビに内定し、父に報告をしにいくと、父は、
「先週、母さんと二人で湘南に食事をしに行った。江ノ島の砂浜を歩いていたら、足が取られて疲れてしまったので、舗装されている国道を歩いた。要するにそういうことだ」
 と言うのです。まったく意味がわからず、
「どういう意味ですか?」
 と訊ねると、
「お前は本当に物わかりの悪い男だなあ。俺は作家で組織も守ってくれないから一人で歩かなければならない。歩きにくい砂浜だったけどな。だけど砂浜は振り返ってみると自分の足跡が見えるじゃないか。お前はこれからサラリーマンになる。色々なところで守ってもらえるし、歩きやすい舗装道路を行く。歩きやすいかも知れないが、十年、二十年経って振り返ってみた時、自分の足跡は見えないんだ」
 と言われました。うまいことを言うなとは思いましたが、私がこれからしようとしていることは、この人の望むことではないのだという申し訳なさがありました。
 後日、父がニヤッとしながら、
「どうだ、舗装道路の歩き心地は?」
 と訊ねてきましたので、私は用意していた回答を。
「非常に快適な道を歩いておりますが、お父様が吸ったことがないような排気ガスも吸っています」
 父はまたニヤッと笑っていました。
 この舗装道路の喩えは遠藤周作オリジナルだと思っておりましたが、おそらく、父が郁から言われたことなのでしょう。自分の中で消化できないものとして残り、子供に投げつけて自分のストレスを軽減したのかもしれない(笑)。
「影に対して」は正直に申し上げると、心が躍るような楽しい作品ではありません。ただ、遠藤周作という作家に興味を持ってくださった方が、そのルーツを探すために読んでいただけたら非常に嬉しいです。

(えんどう・りゅうのすけ フジテレビジョン副会長)
波 2023年3月号より

著者プロフィール

遠藤周作

エンドウ・シュウサク

(1923-1996)東京生れ。幼年期を旧満州大連で過ごし、神戸に帰国後、12歳でカトリックの洗礼を受ける。慶応大学仏文科卒。フランス留学を経て、1955(昭和30)年「白い人」で芥川賞を受賞。一貫して日本の精神風土とキリスト教の問題を追究する一方、ユーモア作品、歴史小説も多数ある。主な作品は『海と毒薬』『沈黙』『イエスの生涯』『侍』『スキャンダル』等。1995(平成7)年、文化勲章受章。

判型違い(単行本)

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