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ファン必読のエッセイ集大成全15巻完結! 『この国のかたち』のころから絶筆までの95篇を収録。没後10年(2006年2月)記念刊行。

司馬遼太郎が考えたこと 15―エッセイ1990.10~1996.2―

司馬遼太郎/著

825円(税込)

本の仕様

発売日:2006/02/01

読み仮名 シバリョウタロウガカンガエタコト15エッセイ1990.10~1996.2
シリーズ名 全集・著作集
全集双書名 司馬遼太郎が考えたこと
発行形態 文庫
判型 新潮文庫
ISBN 978-4-10-115257-8
C-CODE 0195
整理番号 し-9-57
ジャンル エッセー・随筆、評論・文学研究、文学賞受賞作家、ノンフィクション、ビジネス・経済
定価 825円

1995年1月、阪神・淡路大震災、3月には地下鉄サリン事件と大惨事が続く。司馬遼太郎は『街道をゆく』『この国のかたち』『風塵抄』の連載なかばにして、1996年2月12日夜、腹部大動脈瘤破裂のため急逝した。享年72。この巻は、被災者を励ます「世界にただ一つの神戸」、小説家になった動機を明かす「なぜ小説を書くか」「二十二歳の自分への手紙」など、絶筆までのエッセイ95篇を収録。

著者プロフィール

司馬遼太郎 シバ・リョウタロウ

(1923-1996)大阪市生れ。大阪外語学校蒙古語科卒。産経新聞文化部に勤めていた1960(昭和35)年、『梟の城』で直木賞受賞。以後、歴史小説を一新する話題作を続々と発表。1966年に『竜馬がゆく』『国盗り物語』で菊池寛賞を受賞したのを始め、数々の賞を受賞。1993(平成5)年には文化勲章を受章。“司馬史観”とよばれる自在で明晰な歴史の見方が絶大な信頼をあつめるなか、1971年開始の『街道をゆく』などの連載半ばにして急逝。享年72。『司馬遼太郎全集』(全68巻)がある。

書評

波 2006年2月号より 司馬遼太郎と「筋目の周防岩国人」  司馬遼太郎『司馬遼太郎が考えたこと』全十五巻 (新潮文庫)

山内昌之

 司馬遼太郎は、評論家の河上徹太郎が自分を「長州人」と規定したことに、ひそかに驚いたと告白している。河上は「筋目の周防岩国人」ではないかというのだ。河上が「長州人」を自称するのは厳密ではないが、司馬はコチコチの実証史家じみた難癖をつけたかったわけではない。むしろ、河上のいう「長州人」とは、どこか「このひとにしか見えない別趣な精神像だったにちがいない」という洞察の鋭さがこめられているのだ。このエピソードは、『司馬遼太郎が考えたこと 11』(新潮文庫、二○○五年)に収められた「面晤」という文章で紹介されている。
 司馬の知人には、山口県人ながら長州と呼ばれることをきらい、そのつど、周防岩国です、と訂正する人がいたらしい。このこだわりは、地理や行政区分のうえで、岩国が長州(長門)でないという単純な違いからくるものではない。むしろ、河上と知人との差は、歴史に対する姿勢の違いが関係しているのではないか。司馬は、エッセイのなかですでに見事な答えを示している。
「江戸期のこの藩の立場は微妙で、長州領域ながら毛利家の家臣から嫌われ、岩国人もまた幕末のぎりぎりまでは、みずからを非長州的な気分のなかで規定してきた。しかしながら、歴史的には毛利グループの勁烈な根幹の一つであったという点で、岩国は矛盾を含んだ風土だった。」(「面晤」)
 岩国にこだわりながら、「長州人」とは何かという問いを逆に出すあたりが司馬の巧さといえよう。この問いだけでも分業で研究をする近世史家があまり気づかない大事な論点がひそんでいる。
 以下、すこし司馬が書いていない岩国藩について考えてみたい。藩祖は吉川広家である。小早川隆景と並んで、毛利の両川として知られた吉川元春の子にほかならない。関が原の戦いで徳川に内応して毛利の軍勢を非戦に決した謀将だったが、徳川家康に欺かれて毛利本家は百二十万石の大封を失い、周防と長州の三十六万九千石におしこめられた。本藩の家中からすれば、吉川のせいで身代が小さくなったという思いが消えない。吉川の方では、自分がいたから毛利の社稷は保たれたという自負を失わない。どうも萩の本藩と岩国藩との間はしっくりしなかったらしい。岩国三万石(のち六万石)は正式な大名になろうと画策するが、それをいつも本藩が邪魔した。複雑かつ遺恨じみた関係は、幕末まで続く。
 吉川家は、江戸にも藩邸があり殿中でも柳の間詰と定められていたのに、一代一勤といって代替わりに参勤するだけの奇妙な藩になった。平戸藩主だった松浦静山は、随筆集『甲子夜話』で、「吉川氏は萩侯に属す。陪臣の如きものなり」と書いている(巻四十一の一)。しかし、輿にも乗れる権利をもち、行列でも二本槍を立てられたというから大名の扱いではあったのだ。静山も殿中で吉川氏に会ったとき、無官でありながら白無垢を着用していたと証言する。ついでにいえば、白無垢とは、五位以上の者が衣冠や束帯の下に着る白羽二重などを指したので、大名に許された資格を吉川家はもっていたのである。高家や交代寄合(参勤交代する名門旗本)は、無位無官であっても白無垢が許されていた(市岡正一『徳川盛世録』)。してみると、吉川家は大名、高家、交代寄合の三者が交叉するあたりの珍しい家格だったのだろう。あえていえば、御三家の付家老あたりに近い格と見なされていたのかもしれない。松浦静山の「陪臣の如きものなり」という指摘はあたらずとも遠からずというところだ。作家の中村彰彦氏は、最近の私との対談で「まるで鳥類と哺乳類の特徴を併せもったカモノハシのような存在」と巧い表現をしておられる(『黒船以降――政治家と官僚の条件』中央公論新社)。岩国藩が正式な藩として認知されるのは、なんと明治元年のことだ。維新後も最初は男爵に留まるから、最低でも子爵になった大名諸侯では珍しい家柄といってよい。
 ところが、幕末の岩国藩の活動は目ざましい。歴史の表舞台に現れた藩主・吉川経幹の活躍は紹介に値する。経幹は、第一次長州戦争のときに、幕府と長州藩との間を周旋し、禁門の変の責任者として三人の家老の首級を差し出し、本藩を幕府に恭順させて事なきを得た立役者となった。それでいながら、第二次長州戦争では義がないとして抗戦派に変わるリアリストだったのだ。大佛次郎なども冷静沈着で古武士のような人物だと評価をおしまない。
 司馬遼太郎は、こうした事実をきちんと踏まえた上で周防岩国人のこだわりを語りたかったのだろう。吉川経幹は、大村益次郎を描いた『花神』にも地味ながら見え隠れする存在であるが、大村と同じく明治の隆盛を見ずに世を去る。吉田松陰や高杉晋作と違って時代の華々しいスターではなかったにせよ、歴史の転回に人知れず重要な役割を果たす人物もいた。大村と並んで吉川も、天の命がつきると表舞台から閃光を放ちながら退場した人物といってよい。司馬遼太郎のこだわりへの雑感である。

(やまうち・まさゆき 東京大学教授)

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