
文明の憂鬱
539円(税込)
発売日:2005/12/22
- 文庫
- 電子書籍あり
情報の洪水から本質を射抜く。単行本未収録エッセイ24編収録。
AIBO、皇太子妃ご懐妊報道、略字体、口蹄疫、ピッキング、大リーグ、臓器移植、世界同時多発テロ、加工食品……。私たちを取り囲んでいるモノ、技術、現象、事件、情報……そうした文明のちっぽけなしっぽの一端から、巨大な憂鬱が見えてくる。明晰な論理と非凡な視点、そして鋭い感覚で日常に潜む微細な欺瞞をも見抜いてゆく。単行本未収録の24編を加えた全49編の文明批評エッセイ。
書誌情報
読み仮名 | ブンメイノユウウツ |
---|---|
シリーズ名 | 新潮文庫 |
発行形態 | 文庫、電子書籍 |
判型 | 新潮文庫 |
頁数 | 272ページ |
ISBN | 978-4-10-129037-9 |
C-CODE | 0195 |
整理番号 | ひ-18-7 |
ジャンル | エッセー・随筆、評論・文学研究、文学賞受賞作家、ノンフィクション、ビジネス・経済 |
定価 | 539円 |
電子書籍 価格 | 594円 |
電子書籍 配信開始日 | 2014/10/03 |
書評
波 2006年1月号より 「パトリオティズム」の悪用 平野啓一郎『文明の憂鬱』(新潮文庫)
作家、平野啓一郎の登場(デビュー)はとても扇情的(センセーショナル)であり、爽快でもあった。
まだ京大の学生であることや、穴開耳環(ピアス)を付けた男前(ハンサム)な若者であることも新鮮だった。
だが、もっと衝撃(インパクト)が大きかったのは、その作品と書き手との間の途方もない「距離」だった。「今どきの若者」と作品に描かれた世界、時代との間には全くと言ってよいほど脈絡が付けられない。
それが不可思議な魅力を醸し出していた。
なかでも、デビュー作(『日蝕』)での、今どき消え去せた漢字表現を駆使した擬古典風な筆使いは読む者に感染りかねない魔術的(マジカル)な力を持っていた(そのまま真似るのは癪だから、近ごろ氾濫しているカタカナ日本語をルビ代りに使ってこれを書いているのだが、どうもうまくいかない上に面倒くさい)。
私小説の伝統が濃厚なこの国で、その片鱗すら見せずに登場したこの作家が、その「正体」を見せたのが、小説ではなく、時事風随筆(エッセイ)の連作『文明の憂鬱』であった。
だが「正体」と言っても、小説を書く際の手の内を細々と明かしているわけではない。
たしかに、西洋古典(クラシック)音楽の愛好者(ファン)として私と時々交差する人物が、子どものころ電気(エレキ)ギターを欲しがっていて、マイケル・ジャクソンには強い関心を抱いていたといった身辺上の「発見」がそこに全くないわけではない。
だが、おおむねの主題(テーマ)は、題名(タイトル)の示す通り「文明」の現在についての観察と所感である。
では、その何が「憂鬱」なのか。
いつも、何についても「憂鬱」でいるわけでもないし、私はほとんど観ていない「テレヴィ」(著者の表記)を結構よく観ている気配があって、それが余計な「憂鬱」を抱え込むことに貢献しているところもある。
しかし、これが書き始められた前世紀末から今世紀初頭の現在までの情況を一望して見れば、やはり「憂鬱(メランコリー)」の感と観が生ずるのは免れがたい。
そして、この「憂鬱」の多くは、「テレヴィ」が代表しているように、あまりにも一様で、表層的な思考がこの「文明」を覆い尽していて圧倒的であることへの、苛だちに由来している。
それは、豊かな、とまで言わずとも、まともな感受性を持つ者ならばだれしも抱かざるをえない感覚である。
一例をあげよう。
愛「国」心(パトリオティズム)と愛「国家」心(ナショナリズム)――という一文がある(偶然だが、漢字に外来語ルビをふっているのは私ではなく、著者である)。
「ナショナリズム」とは、元々、近代の「ネイション(国家)」の成立時に「国民」を創設するために産み出された人工的な概念であり、同国人や自国の風土、文化に対する自然な愛情である「パトリオティズム」とは区別される概念なのに、この二つの概念の「曖昧な(時には乱暴な)混同」が起きていることを著者は危惧する。「それが、単に個人的な無知に起因する混同であるのみならず、『ナショナリズム』の昂揚を計ろうとする権力(政府やマスコミ)の意図的な混同である」ことにも。
これが最も成功している9・11以後のアメリカを著者は主として論じ、他山の石としようとしているのだが、私はその最新例を観たばかりである。
朝日新聞社、テレビ朝日が製作の主力となり、海上自衛隊全面協力の戦後60年記念作品、正月映画「男たちの大和」のことである。
「もう会えない君を、守る」「彼らはただ愛する人を、家族を、友を、祖国を守りたかった……」(いずれも映画の惹句〔キャッチフレーズ〕)。
ここでは見事なほどの「混同」が起きている。戦争末期、断末魔の水上特攻(燃料片道、航空機掩護なし)である戦艦大和の出撃は三千人の将兵を無残、無益に死地に向かわせた点で、実態は「ナショナリズム」が「パトリオティズム」を悪用した悲劇だった。
この映画が出現するずっと前に書かれたこの一文の最後はきわめて予言的である。
歯止めのかからない、この「文明」に「憂鬱」にならざるをえないではないか。
まだ京大の学生であることや、穴開耳環(ピアス)を付けた男前(ハンサム)な若者であることも新鮮だった。
だが、もっと衝撃(インパクト)が大きかったのは、その作品と書き手との間の途方もない「距離」だった。「今どきの若者」と作品に描かれた世界、時代との間には全くと言ってよいほど脈絡が付けられない。
それが不可思議な魅力を醸し出していた。
なかでも、デビュー作(『日蝕』)での、今どき消え去せた漢字表現を駆使した擬古典風な筆使いは読む者に感染りかねない魔術的(マジカル)な力を持っていた(そのまま真似るのは癪だから、近ごろ氾濫しているカタカナ日本語をルビ代りに使ってこれを書いているのだが、どうもうまくいかない上に面倒くさい)。
私小説の伝統が濃厚なこの国で、その片鱗すら見せずに登場したこの作家が、その「正体」を見せたのが、小説ではなく、時事風随筆(エッセイ)の連作『文明の憂鬱』であった。
だが「正体」と言っても、小説を書く際の手の内を細々と明かしているわけではない。
たしかに、西洋古典(クラシック)音楽の愛好者(ファン)として私と時々交差する人物が、子どものころ電気(エレキ)ギターを欲しがっていて、マイケル・ジャクソンには強い関心を抱いていたといった身辺上の「発見」がそこに全くないわけではない。
だが、おおむねの主題(テーマ)は、題名(タイトル)の示す通り「文明」の現在についての観察と所感である。
では、その何が「憂鬱」なのか。
いつも、何についても「憂鬱」でいるわけでもないし、私はほとんど観ていない「テレヴィ」(著者の表記)を結構よく観ている気配があって、それが余計な「憂鬱」を抱え込むことに貢献しているところもある。
しかし、これが書き始められた前世紀末から今世紀初頭の現在までの情況を一望して見れば、やはり「憂鬱(メランコリー)」の感と観が生ずるのは免れがたい。
そして、この「憂鬱」の多くは、「テレヴィ」が代表しているように、あまりにも一様で、表層的な思考がこの「文明」を覆い尽していて圧倒的であることへの、苛だちに由来している。
それは、豊かな、とまで言わずとも、まともな感受性を持つ者ならばだれしも抱かざるをえない感覚である。
一例をあげよう。
愛「国」心(パトリオティズム)と愛「国家」心(ナショナリズム)――という一文がある(偶然だが、漢字に外来語ルビをふっているのは私ではなく、著者である)。
「ナショナリズム」とは、元々、近代の「ネイション(国家)」の成立時に「国民」を創設するために産み出された人工的な概念であり、同国人や自国の風土、文化に対する自然な愛情である「パトリオティズム」とは区別される概念なのに、この二つの概念の「曖昧な(時には乱暴な)混同」が起きていることを著者は危惧する。「それが、単に個人的な無知に起因する混同であるのみならず、『ナショナリズム』の昂揚を計ろうとする権力(政府やマスコミ)の意図的な混同である」ことにも。
これが最も成功している9・11以後のアメリカを著者は主として論じ、他山の石としようとしているのだが、私はその最新例を観たばかりである。
朝日新聞社、テレビ朝日が製作の主力となり、海上自衛隊全面協力の戦後60年記念作品、正月映画「男たちの大和」のことである。
「もう会えない君を、守る」「彼らはただ愛する人を、家族を、友を、祖国を守りたかった……」(いずれも映画の惹句〔キャッチフレーズ〕)。
ここでは見事なほどの「混同」が起きている。戦争末期、断末魔の水上特攻(燃料片道、航空機掩護なし)である戦艦大和の出撃は三千人の将兵を無残、無益に死地に向かわせた点で、実態は「ナショナリズム」が「パトリオティズム」を悪用した悲劇だった。
この映画が出現するずっと前に書かれたこの一文の最後はきわめて予言的である。
![]() | 「国家」の頂点にある権力は、民衆の素朴な「パトリオティズム」を絶えず自らに好都合な「ナショナリズム」のうちに取り込もうとする狡猾さを孕んでいます。それが実現するや、「パトリオティズム」の悪用に歯止めを掛けることは困難です。我々は、二○世紀にその悲惨を嫌というほど経験しました。今こそその教訓を、一人一人が思い返してみるべきです。 |
(ちくし・てつや ジャーナリスト)
著者プロフィール
平野啓一郎
ヒラノ・ケイイチロウ
1975年、愛知県生れ、北九州市出身。京都大学法学部卒。1999年、大学在学中に文芸誌「新潮」に投稿した「日蝕」により芥川賞を受賞。以後、一作毎に変化する多彩なスタイルで、数々の作品を発表し、各国で翻訳紹介されている。著書は小説作品として、『日蝕・一月物語』、『葬送』、『高瀬川』、『滴り落ちる時計たちの波紋』、『決壊』(第59回芸術選奨文部科学大臣新人賞)、『ドーン』(第19回Bunkamuraドゥマゴ文学賞)、『かたちだけの愛』、『空白を満たしなさい』、『透明な迷宮』、『マチネの終わりに』(第2回渡辺淳一文学賞)、『ある男』(第70回読売文学賞)、『本心』などがある。評論、エッセイとして、『私とは何か 「個人」から「分人」へ』、『「カッコいい」とは何か』、『死刑について』、『三島由紀夫論』(第22回小林秀雄賞)などがある。
この本へのご意見・ご感想をお待ちしております。
感想を送る