ホーム > 書籍詳細:田嶋春にはなりたくない

田嶋春にはなりたくない

白河三兎/著

649円(税込)

発売日:2018/12/22

  • 文庫
  • 電子書籍あり

友達にはなりたくない。だけど彼女を見ていたい。

田嶋春(たじまはる)、通称タージ。サークルの新入生歓迎会で未成年者の飲酒を許さず学生証の提示を求めるような、鬱陶しく、空気読めない、まさに正論モンスター。近付きたくないけど、目が離せない。だって彼女は誰よりも正しく、公平で、そして優しいから。キャンパスに巻き起こる日常の謎を、超人的な観察眼で鮮やかに解き明かす彼女に、翻弄され、笑わされ、そして泣かされる青春ミステリ。

目次
第一章 肩を濡らさない相合傘
第二章 自作自演のミルフィーユ
第三章 スケープゴート・キャンパス
第四章 八方美人なストライクゾーン
第五章 手の中の空白

書誌情報

読み仮名 タジマハルニハナリタクナイ
シリーズ名 新潮文庫nex
装幀 けーしん/カバー装画、川谷康久(川谷デザイン)/カバーデザイン、川谷デザイン/フォーマットデザイン
雑誌から生まれた本 小説新潮から生まれた本
発行形態 文庫、電子書籍
判型 新潮文庫
頁数 320ページ
ISBN 978-4-10-180145-2
C-CODE 0193
整理番号 し-86-1
ジャンル キャラクター文芸、コミックス
定価 649円
電子書籍 価格 649円
電子書籍 配信開始日 2019/01/11

書評

「あの女は何を考えている?」の推理の先に

吉田大助

 使い古された言葉だしたいがいが雑な議論だし、普段は絶対口にしないようにしているけれどもどうにもこうにも、この言葉で表現するしかない人がたまにいる。「一作ごとに、作風が違う」。白河三兎のことだ。
 メフィスト賞受賞のデビュー作『プールの底に眠る』から一躍知名度をあげた第三作『私を知らないで』までは、青春ミステリーというジャンルで括ることはギリギリ可能だったかもしれない。ギリギリ。だが、それ以降はどうだろう? 百花繚乱とは、このことではないのか。おそるおそる、十作目となる最新刊『田嶋春にはなりたくない』を開いてみる。またしても、これまでとぜんぜん違う!
 主人公の名前をタイトルに掲げた作品は、今回が初めてだ。田嶋春。「タージ」というニックネームを持つ彼女と、彼女に翻弄される人々の物語だ。漫画で言えば『東京大学物語』や『DEATH NOTE』、小説ならば西尾維新の〈物語〉シリーズを彷彿とさせる、主人公VS他者のコミュニケーション・ゲームの物語でもある。
 とにもかくにも、田嶋春のキャラクターが完璧に立っている。東京にある有名私大の法学部二年生で、トレードマークはサロペット。イベント系サークル『N・A・O』に入っていて、恋愛に関しては「心に決めた人」がいる。ある登場人物は彼女をこう評価する、「口を閉じていれば、可愛い部類に入る」。では、口を開けばどうか? 「平穏なキャンパスライフを乱す疫病神」、「これぞ余計なお節介、という見本」、「人を苛つかせる天性の素質がある」、「善意の押し売り」、「デリカシーの欠片もなくて人の気持ちを簡単に踏み潰す」、「理解不能な不思議ちゃん」。罵詈雑言のオンパレードだ。彼女の行動原理を象徴するエピソードはきっと、これだろう。「飲み会では『まだ十九歳ですから』と言ってお酒を口にしないし、未成年のサークルメンバーの飲酒を許さない」。
 タージは正義の人なのだ。言えば誰かを傷付けてしまうかもしれないし場の空気を乱してしまう……からといって、言葉を飲み込むようなことはしない。相手がウケ狙いやキャラ偽装、空気を乱さないためにと放った言葉をとことん真に受けて、クソ真面目にリアクションしていく。そのKYっぷりは、安全地帯から見ているぶんには痛快で、抱腹絶倒もの。ただし当事者だったら、生き地獄だ。物語は全五章=五名の当事者(被害者?)の視点から、タージとの「対決」を描く。
 恋心を飲み込む者。浮気にうつつを抜かすもの。自分を卑下する者。他人の気持ちばかり考えている者。そして、過去の自分に囚われている者。五名+αの当事者たちはみな、それぞれ負い目を抱えている。だから「!」連発のタージの発言に対して、心の中で「?」の思考をぐるぐる巡らせてしまう。どういう意味だ? なぜそんなことを言ったのか。自分を試しているのだろうか。もしかして、あの秘密を知っているのではないか? そのぐるぐるが、丁寧に丁寧に書き込まれていく。本作は「日常の謎」系のミステリーでもあるが、文中にちりばめられている「推理」の多くは、タージが放つ言葉の真意を読み解こうとする「推理」だ。
 正真正銘、紛うことなきトラブルメーカーだ。タージと向き合ったならばみな、不安を掻き立てられ、見抜かれたと思って、墓穴を掘ってしまうのだから。でも、彼女は困っている人がいたら手を差し伸べずにいられないトラブルシューターでもある。ある人物は言う、「この子は人間を信じて疑わない。人間を愛しているんだ」。そんなタージと関わることで、いつの間にか自分も彼女のように「自分を見守り、自分を信じ、自分を愛すればいい」と心を動かし始めることになる。墓穴を掘ったと思ったことが、新しい道へ歩み出す契機だったと知る。
 最終章のラスト、観覧車の中で交わされる言葉の数々が、忘れがたい快感と感動を運んできた。ゲラゲラ笑いながら読み始めた時は、こんな感情が胸に突きつけられるなんて思いもしなかった。そうだった、白河三兎の作品にはひとつだけ、一貫して書き継がれている感情があったのだ。それは、せつなさ。
 誰も田嶋春にはなれないけれど、誰もがまた会いたくなる。読めば彼女の思考が心に宿る、最高傑作だと思います。

(よしだ・だいすけ ライター)
波 2016年3月号より
単行本刊行時掲載

第一章 試し読み

第一章 肩を濡らさない相合傘

 忍び笑いに起こされた。女子特有の高音が耳元で響く。隣に座っている女子高生が友達とクスクスしていた。不快に思いながらドアの上の電光掲示板を見る。目的の駅までまだ七つある。もう一眠りしよう。再び目を閉じる。

 深夜二時過ぎまで降り続いた雨のせいで寝不足だ。部屋の窓に激しく打ち付ける音で何度も目を覚ました。通学中に車内で少しでも寝ておきたい。今日の午前中は居眠りできる授業がない。

 でも女子高生たちはいつまでも下品な笑い声を漏らし続ける。耳障みみざわりで眠れない。

「チョー、ウケる」

「なんで気付かないの?」

 誰かのことを笑い物にしているようだ。僕は気になって目を開けた。ほとんどの座席が埋まっていて、立っている人がちらほらいる。

 女子高生の一人がドア付近にいるオバサンを指差している。エメラルドグリーンのマニキュアが塗られた人差し指を辿たどってみる。すると、オバサンのおしり橙色だいだいいろの何かがついていた。なんだ? 僕は眉間みけんに力を入れて凝視する。かきピーの柿の種だった。

 僕もクスリと顔をゆがめた。オバサンのたるんだ体形がずぼらな生活を連想させる。昨夜、ソファで横になってテレビをながら柿ピーを頬張ほおばって馬鹿ばか笑いしていた。そして翌朝、身支度を整えてからソファに座ったら、落としていた柿の種がお尻にくっついた。そういう映像が誰の頭にも浮かぶようなオバサンだ。

 みっともない大人だ。出かける前に後ろ姿を確認するのは最低限のたしなみだ。僕みたいな二十歳そこそこの大学生だって姿見で二回はチェックしてから家を出ている。

 嘲笑ちょうしょう伝播でんぱしたのは僕だけではない。二人の女子高生を中心にして忍び笑いが広まっている。オバサンは車内に背を向けて立っているので、周囲から冷ややかな視線を浴びせられていることがわからない。

 電車が駅に着き、ドアが開く。オバサンが降りないことに安堵あんどする。もうしばらく見ていたい。できることならオバサンが柿の種に気付く瞬間に立ち会いたいものだ。でもそんな期待はすぐにしぼんでしまった。

 乗ってきた人の中にタージらしき女がいたのだ。彼女のトレードマークと化している細フレームの眼鏡とボーイズライクなサロペットが目に入った瞬間、反射的に顔を伏せる。寝た振りをしつつ薄目で確かめる。やっぱりタージだ!

 今日も無垢むく微笑ほほえみを浮かべている。距離を置いて眺める分には、『可愛かわいらしい子だな』と思える。だが、あの人懐ひとなつっこい顔の裏には猛獣が隠れている。もうあいつとは金輪際関わりたくない。平穏なキャンパスライフを乱す疫病神やくびょうがみだ。

「あっ!」とタージの声がとどろく。

 見つかったか? 恐る恐る顔を上げる。ところが彼女はあらぬ方に体を向けていた。柿ピーオバサンのお尻に手を伸ばし、柿の種をつまむ。

「わっ!」とオバサンは飛び跳ねる。

 振り返り、いぶかしげな目でタージをにらむ。痴漢と勘違いしたのだろう。

臀部でんぶについていましたよ」

 そう言ってオバサンの眼前に柿の種を差し出す。一瞬にしてオバサンの顔が厚塗り頬紅よりも赤くなった。

「きゅ、急になんなの? 言いがかりはやめてちょうだい!」

 公衆の面前で恥をかかされたオバサンはしらばっくれた。素直に感謝すればそれで済んだのだが、気持ちはわからないでもない。人はみんなの前で失敗を指摘された時に、羞恥心しゅうちしんから自己防衛に走りがちだ。だからタージにも非がある。小声でこっそり教えればよかったものを。

 だけどタージこと田嶋春たじまはるには繊細な心の動きなど理解できない。うちのサークルでも前科はいっぱいある。誰かが言い間違えたり、記憶違いの薀蓄うんちくを語ったりすると、逐一訂正する。

 左右別々の靴下を履いている人を発見した時も『あっ!』と言ってから指摘した。汗臭い人、鼻毛が出ている人、生理の横漏れがジーンズにみ出ている人も、みんながいる前で普通の声の大きさで突っ込む。

 注意された人は決まって顔を強張こわばらせ、タージを睨み付ける。当然、彼女は浮いた存在になっている。みんなの嫌われ者だ。サークル内でも外でも友達がいない。

 オバサンの怒りはなかなかしずまらなかった。顔を紅潮させてからもう五駅を通過した。乗客はみんな目を背けながら『やれ! やれ! もっと! もっと!』と無言の声援を送っている。注目が集まれば集まるほど、オバサンは引っ込みがつかなくなるのだろう。

 オバサンはタージのお節介を海外でポピュラーなケチャップ詐欺さぎだと言い出した。

「わかった。詐欺なんでしょ。私は見かけにだまされませんからね。そうやってかまととぶって油断させるのが手なのはお見通しなんですから」

「詐欺にあったことがあるんですか! だからそこまで人を疑うんですね。心中お察しします」

「何を言ってるの?」とオバサンは更に興奮する。「私は警察に行ってもいいのよ」

 次の停車駅のアナウンスが流れると、僕はそっと席を立ち、タージたちがいるドアとは別のドアの前で待つ。どうなるか興味はあったが、彼女たちに背中を向けて見ないように努めた。巻き添えはご免だ。

 ドアが開き、いの一番にホームに降り立つ。なんとか脱出成功だ。冷や冷やした。タージに助けを求められたら、かなわなかった。

 タージを横目で見てみる。まだ言い合っている。何、やってんだ? 早く降りればいいのに。いつまで付き合っているんだ。授業に遅刻しても知らないぞ。本当に馬鹿だな。そうあざけって階段へ向かう。

 でも発車のチャイムが鳴り始めるやいなや、僕は血迷った行動に出る。引き返し、タージに一直線。ドアが閉まりかける。彼女の腕をつかんで強引にドアの間から降ろした。

「あっ、おはようございます」とタージはいつもと変わらない調子で挨拶あいさつをする。

 大学の構内で擦れ違った時と同じだ。緊張感のない声のまま。僕と腕を組んでいるような格好になっていることもまるで気に留めない。僕は弾みでタージの小ぶりな胸に触れたことを心配している。騒ぎ立てないか戦々恐々だ。

「おはよう」と返してぎこちなく体を離す。「さっさと逃げろよ」

 言ってすぐに、『ヤバい!』と悔やむ。これじゃ、車内にいる間は見殺しにしていたことを公言したようなものだ。

「私が逃げなければならない理由はありましたか? そもそも逃げるのは嫌いなんです」と力強く言ったタージは僕の失言に気付いているのかいないのか、よくわからない。

 彼女は喜怒哀楽がはっきりしているから、ポーカーフェイスとは掛け離れているのだが、のほほんとした顔付きがタージの手札を読ませない。

「なら、学生証を見せ付けて、『私は逃げも隠れもしませんが、授業に遅れてしまうので今日のところは失礼します』って言えよ」

「あっ、授業があることをうっかり忘れていました」と気がついてから僕の案を称賛する。「センパイ、さすがです! 学生証を見せて私が検事を目指している名門大学の学生であることを伝えていれば、安心して私に相談できましたね」

 タージは上級生を誰彼無しに『センパイ』と呼ぶ。複数の上級生がいる場でも『センパイ』としか言わないので、混乱することが多々ある。

「相談って?」

「あのかたは、詐欺被害で悩んでいるみたいでした。微力ながらも何かお手伝いしたかったのですが、私としたことがうっかりしていました」

 彼女は常に何かが抜けている。おまえが不注意なのはいつものことだろ、と言いたかった。だけどこらえる。

 タージはずっと摘んでいた柿の種を僕に向ける。

「食べます?」とあどけない顔でく。

「いらない」

 悪意はないのだろう。もしかしたら助けられたことに対する彼女なりのお礼なのかもしれない。いやいや、そんなわけない。なんで好意的にとらえるんだ?

 車内で加勢しなかった僕への仕返しで、オバサンのお尻でつぶされた柿の種を食べさせたいんだ。きっと、そうだ。元々、こいつは僕を嫌っている。僕が八代やしろ先輩の犬だから。

 

 八代先輩は僕が所属しているイベント系サークル『N・A・O』の前会長だ。頭の回転が速く、臨機応変に言葉を操る上に先陣を切る行動力も兼ね備えているので、サークルの中心人物だった。ややワンマンではあったけれど、集団を引っ張っていくリーダーには強引さが不可欠だ。

 彼の強気な性格は男に頼もしさを求める女子からは需要が高い。端整な顔立ちをしていることも手伝って、小学生の頃から女に不自由していないそうだ。「押しに弱い女を落とすのは朝飯前だ」と豪語していたこともある。

 八代先輩にとって女と寝るのは、ネットでエロ画像を検索するのと変わらない行為だ。大したことではないので、力まずに異性と接してスマートに口説ける。決して女子の前ではガツガツした顔を見せない彼にたいていの子はコロッと騙される。頭の弱い子なら簡単にまたを開く。

 僕は大学に入るまで交際経験のない恋愛ビギナーだった。緊張をひた隠しにして参加したサークルの新歓コンパで、近くの席にいた八代先輩に女の扱い方の手解てほどきを受けた。彼の助言に従って隣の席に座っていた二年の女子に言い寄ったら、その子が初めての恋人になった。

 ちょっと気になる程度の好意しかなかったが、かされるようにして童貞のくくりから抜けた。そしてなんとなく始まった交際はなんとなく終わった。そんな『とりあえずいろどりで』と皿に載せているパセリみたいな恋愛を三度経験した。経験したはずなのに、実感が乏しい。

 高校時代にやっていた弁当工場のアルバイトと同じだ。ベルトコンベアに載って流れてきたプラスチック容器に自分が担当しているおかずを詰め、次の工程に流していくだけの単純作業。何も考えずにマニュアルに従っていればいい。いや、僕自身がベルトコンベアに載って流されていただけなのかもしれない。

 相手のことを本気で好きだったか、と問われたら「嫌いではなかった」としか答えられない。きっと向こうもそうだろう。どうしても寝たかったわけではない。周囲から「奥手だなぁ」とめられたくなかったのだ。

 女子にもいると思うけれど、仲間内では異性と寝ることはアクセサリー感覚だ。当事者間で大切にするものではなく、周囲へ誇示するための道具の一つでしかない。

 みんな多かれ少なかれ虚勢を張っている。不必要に格好つけ、無闇むやみ威嚇いかくし、大袈裟おおげさに自負し、無理して価値観を擦り合わせる。いつの頃からかそうすることが習慣化した。他人に『弱い』と見なされることにビビッている。

 だから内輪で女と寝た数を自慢し合う。「これ、昨日買ったんだ」と時計や靴やLINEのスタンプを見せびらかすのと同じノリで、男の勲章としてひけらかす。

 八代先輩に至っては「証拠がないとうそつき呼ばわりされるから、ベッドインの写真や動画を撮ってる。思い出にもなるしな」と予防線を張った上で、モテぶりを誇示している。

 彼が相手の同意を得て撮ったり、寝入っているすきに盗撮したりしたコレクションを僕は見せてもらったことはない。ただ、彼と親しい友人の話では、「可愛かわいい子からブスまで見境がない」「AVみたいなのもあった」「好奇心が旺盛おうせいで色んなところで色んなプレイをやっている」「卒業までにコレクション数を百の大台に乗せたいんだって」ということだ。

 

 一ヶ月ほど前の五月末に、サークルの飲み会に八代先輩が顔を出した。就活を早々に終えて暇を持て余していたのだ。現サークルメンバーの中には、『先輩ヅラしに来やがって』とうとましく思った人も少しはいただろう。でも大半の人は「内定をあっさりゲットできた秘訣ひけつを教えてください」と歓迎した。

 飲み会の席で、八代先輩は三年生の女子といい雰囲気になっていた。その子はブランド品や流行はやりモノが好きなので、みんなから陰で『ミーハー』と呼ばれている。おそらく一流企業への就職が決まった八代先輩に色目を使っているのだろう。

 お開きになる頃には、ミーハーは酔い潰れてテーブルに突っ伏し、八代先輩が面倒をみていた。でも本当に泥酔でいすいしているのか怪しい。酔った振りをして八代先輩と二人きりになろうとしているんじゃ? 下手に『平気?』と心配して介抱に加わったら、ミーハーの恋を邪魔することになるかもしれない。

 少なくとも八代先輩にはよこしまな気持ちがある。彼の野望を知っている人は協力するために、知らない人は『さっきまで意気投合していたから、このあとに何が起ころうと当人同士の問題だ』と配慮し、二人を残して二次会のカラオケ店への移動を始めた。

 しかし空気を読めない人がいた。タージだ。彼女はみんなと一緒に居酒屋の出入り口へ向かわない。ミーハーに近付き、「酩酊めいていしているんですか?」と気にかけた。

「俺がついているから大丈夫だよ。タージはみんなと楽しんでおいで」

 八代先輩は笑顔で彼女をあしらったが、内心では『また、おまえか』と苦々しく思っているはずだ。彼が会長を務めていた頃、度々タージは無茶苦茶な要求を進言して手を焼かせた。彼女のいないところで『タージの子守りはつらいぜ』というようなことをよく愚痴っていた。

 ふと、八代先輩の視線を感じた。近くにいた僕に目配せをしたのだ。僕は即座に彼の意図を察し、「行こうぜ、タージ。いつものアニソンを聴かせてくれよ」と声をかけ、注意を二人かららそうとする。

 僕の発言に続いてミーハーが「ちょっと休んでいれば大丈夫だから」と言った。八代先輩に接近するために酔った芝居をしているのなら、彼女はタージを追い払いたいはずだ。本当に悪酔いしていたとしても、嫌われ者のタージからの親切は受けたくないだろう。

「駄目です。容体が急変することもあります。先日、こういう時に備えて消防署で急性アルコール中毒の講習を受けました。私に任せてください。センパイがたでは女子トイレに入って吐かせられないですよね?」

 これぞ余計なお節介、という見本だ。少しは相手の気持ちを推し量れよ。タージがしゃしゃり出て喜んでいる人はいるか?

「隣にいながら深酒を止められなかった俺のせいだ。だから俺が責任を持ってケアする」

「万が一のために私も付き添います」

 タージは一歩も引かない。

「じゃあ、一緒に俺んちに運ぶのを手伝ってくれ」と八代先輩が急に態度を百八十度変える。「俺んち、ここからすぐ近くだから、一旦いったん休ませよう」

 どういうつもりだ? タージがいたらミーハーと男女の仲になれない。

「名案ですね」

菅野かんのも来てくれないか? 何かあった時に人手が多い方がいいから」

 そういうことか。八代先輩が僕に何をさせたいのか理解した。頃合いを見計らってタージを二人から引き離す役を振ったのだ。頭が固いタージと押し問答を続けるよりは、一度協力を求めた方が話は早い。

 八代先輩に指名されて僕はうなずくほかなかった。逆らってもプラスなことは何もない。むしろ、いい機会だ。就活のために人脈の広い彼に恩を売ってパイプを太くしておきたい。就活は情報やツテが生命線だ。

 タクシーで八代先輩が一人暮らしをしているマンションへ行き、ミーハーを彼のベッドに寝かせた。三人で一時間ほどすやすや寝息を立てるミーハーを見守る。

 彼女が目覚めると、八代先輩は「近くのコンビニで胃腸薬とスポーツドリンクを買ってきてくれ」と僕に頼んだ。

「タージ。買い物に付き合ってくれないか?」と僕は力まないことを意識しながら誘う。

「嫌です。まだ油断はできません」

「もう大丈夫だろ。顔色も良くなった。な?」と八代先輩は起きたばかりのミーハーに同意を求める。

「は、はい」

 言わされたような感じで返事した。

「菅野はタージに大事な話があるんだよ。俺たちに聞かれたくない大事な話が。そうだよな?」

「はい」と僕も言いなりになる。

「今夜話さなければ眠れないような事柄ですか?」

「そう。かなり深刻なことなんだ」

「わかりました。お付き合いします」とタージは了承して介抱を八代先輩に任せる。「容体が急変したら躊躇ためらわずに救急車を呼んでください」

 僕は八代先輩にコンビニへの行き方を訊いてからタージと家を出た。徒歩で十分くらいかかるらしい。一分も歩かないうちにスマホが震えた。八代先輩からのLINEだ。 〈一時間は帰ってくるな。道に迷うとか、タージに悩み相談をするとかして引き延ばせ。〉

 僕は歩調を緩め、「実は、将来のことで悩んでいるんだ。自分はどの道へ進んだらいいのか。タージなら忌憚きたんのない意見を聞かせてくれそうに思えて」と出任せを言った。

「それでははっきり言わせてもらいます。センパイは……」

「いや、ちょっと」と彼女の言葉を制する。「早いよ。まだ具体的なことは何も話していないじゃないか。俺はどっちに進むか悩んでいるから、まず選択肢について話させてくれ」

 業種をいくつか並べ、それらのメリットとデメリットを順々に語っていけば時間を稼げる。罪の意識は限りなくゼロに近かった。恋愛は化かし合いだ。騙される方が間抜け。何があっても自己責任。それがルールだ。

 それに、ミーハーだって満更でもない。その気がないなら八代先輩の家に持ち帰られていないし、彼と二人きりになるのを避けた。きっと彼女も見せびらかすアクセサリーを増やすために八代先輩に近付いたのだろう。

「話す必要はありません。なぜなら、センパイは深刻に悩んでいないからです」

「へ?」

「言葉が軽すぎます。その程度の悩みなら自分で解決できるはずです。ですから、私は戻ります」と言ってUターンした。

 嘘を見破られた! なんで? 人の気持ちを全然めない子なのに? 僕はどこをしくじった? でも今は理由探しをしている場合じゃない。

「待て!」とタージの肩を掴んで引き止める。「ごめん。相談したいのは別のことだ」

「なんですか?」

「実は、あの……その……」

「言うか言わないかはっきりしてください」

「タージのことが好きなんだ」

 手段を選んでいる余裕はなかった。どんな手を使ってでも八代先輩のために時間を作らなくてはならない。彼女が『私も好きです』と返すことはないだろう。ほぼ百パーセントの確率で断る。

 タージに『ごめんなさい』と言われたら、『数分でいいから自己PRをする時間をくれ』と食い下がるつもりだ。仮に『友達からなら』という反応をしたとしても、『少し話をしよう』へ持っていける。

「本気ですか?」とタージは真顔で訊く。

「もちろん」

「嘘ですね」と断定する。

「いや、本当だって」

「本当だとしても軽い気持ちです。センパイの真剣さはまるで伝わってきません。どうしたんですか? 今日のセンパイはおかしいですよ。酔っ払っているんですか?」

「もう酔いは覚めてる」

「でもなんか変なんですよね」と疑って首をかしげる。「言葉は上滑りしているのに、苦悩や葛藤かっとうを感じます。何か後ろめたいことがあるんですか?」

 ことごとく見透かされ、動悸どうきが激しくなる。普段はぼんやりしているくせになんでわかるんだ? 勘か? たまたま勘がえているだけか? だとしたら、つくづくタイミングの悪いやつだ。

「あっ!」とタージは唐突に声を張り上げた。

「どうした?」

 彼女は僕の問い掛けには答えずに、一目散に駆け出した。猛烈なスピードで八代先輩のマンションへ。ヤバい! 僕たちの魂胆にまで気付いたのか? あわてて追走する。

 だけどタージは足が速く、差が縮まらない。どうする? 八代先輩に『タージが向かっています!』と連絡したいけれど、スマホをいじっている暇はない。

 待てよ。マンションの共用玄関はオートロックだ。タージは入れない。部屋は四階なのでバルコニーからも侵入できない。だから八代先輩のスマホに連絡するか、インターホンを押すかして、中から開けてもらうのを待たなければならない。僕は安心してスピードを緩めた。急がなくてもマンション前で彼女を捕まえられる。

 ところがタージが素早く暗証番号を打ち込んでオートロックを解除した。自動ドアが開く。なんで知っているんだ? ひょっとして八代先輩と恋仲だったことがあるのか? いや、さっきミーハーを運び入れる際に、八代先輩の指の動きを横目で見ていたのかも?

 タージはマンション内に入り、階段へ向かう。自動ドアが閉まりかける。僕は大急ぎで突っ走り、体を斜めにしてドアの間に滑り込んだ。そして彼女を追う。

 僕が四階に到着した時には、「バン! バン!」とドアをたたき、「センパイ、すぐに開けてください。さもないと、警察を呼びますよ」と八代先輩に呼びかけていた。深夜の住宅街にタージの声が響き渡る。

「やめろ。タージ」と僕は小声で訴え、背後から彼女を取り押さえる。

 しかしタージは足でドアをり始めた。「ドガン!」という大きな音が静寂な空気を震わせる。三回目のキックのあとに、慌ただしくドアが開いた。八代先輩が「早く入れ」と声を潜めて手招きする。

 彼はパンツ一丁で困り果てた顔をしていた。僕は咄嗟とっさに目を伏せる。顔向けできない。タージは八代先輩のわきをすり抜けてベッドのある部屋へ急行する。八代先輩と僕も続いた。

 タージはベッドに歩み寄り、肩までタオルケットをかぶっているミーハーに「平気ですか?」と訊く。裸なのだろう。きっと衣服をタオルケットの中に隠している。ミーハーはすっかり狼狽ろうばいしていて小さく頷くのが精一杯だった。

 彼女のひとみうるんでいるように見える。嫌々だったのか? もし拒んだら今後の大学生活や就活で窮屈な目に遭うのでは、とゾッとして八代先輩を受け入れざるを得なかったのかもしれない。

「何をやっているんですか?」とタージは八代先輩に詰め寄る。

「これは男女間の問題だよ。互いに合意の上で行っていることだから、タージには関係ない」

「酔って判断能力が低下していることに乗じて性交渉をするのは、準強制性交等罪に当たります。私は最近授業で教わったばかりですが、センパイがたは知らないんですか?」

 タージは何があっても法律を遵守じゅんしゅする。どんなに交通量が少なくても、横断歩道が五メートルもなくても、赤信号を無視して渡らない。飲み会では『まだ十九歳ですから』と言ってお酒を口にしないし、未成年のサークルメンバーの飲酒を許さない。

 ほろ酔いの女を口説いた男が取り締まられるようになったら、世の中の大半の男は犯罪者になってしまうだろう。ちょっとは現実的に物事を考えるべきだ。タージは理想を追求し過ぎる嫌いがある。だから周囲から冷たい目で見られる。

「タージは法律に縛られがちだ。確かに法律は大事だ。でも世の中にはもっと大事なものがある。それは人の心だ」と八代先輩は歯が浮くようなセリフを吐く。「自然に芽生えた愛情に身をゆだねることは、人として正しい行いじゃないか? 法律に反しても俺は自分の気持ちに正直でいたいんだ」

 さすが切れ者だ。綺麗事きれいごとでやり過ごそうとした。いい子ちゃんのタージには『法律よりも人の心が大事だ』が胸に響くはずだ。

「私だって鬼じゃありません。状況によっては酌量減軽しますし、目をつぶることもあります」

「なら、今回は俺たちの恋を温かい目で見守ってくれ」

 どうにか話がまとまりそうだ。タージが八代先輩に論破されたら『邪魔者は退散した方がいい』と促して彼女を外へ連れ出そう。

「できません。後輩を使って私を部屋から追い出した行為は悪質です。打算を働かせたセンパイが真心のこもった恋をしているはずがありません」

 なんてことを口にするんだ! 僕を密告者みたいに言うな。八代先輩がこっちをちらりと見る。僕は小刻みに首を横に振って、裏切り者じゃないことをアピールする。

「ごめんなさい。私がいけないんです。八代先輩にあこがれていたから、つい思わせ振りな態度をとってしまって」とミーハーが八代先輩を擁護する。「誤解を与えるような言動をした私が全部悪いんです。ほとんど私の方から誘ったようなものだから」

「センパイのことが好きなんですか?」とタージはストレートに訊く。

「うん」

 肯定したけれど、曖昧あいまいなニュアンスが漂っていた。

「じゃ、告白は酔っていない時にしましょう。今はお互いに判断能力が低下していますから」

「うん」とミーハーが聞き入れたことで、この場が収まった。

 後日、ミーハーが八代先輩に交際を申し込むことはなかった。彼女は騒動を引き起こした責任を感じて八代先輩をかばい、タージの暴走を食い止めたのだ。タージが「うっかり犯罪者扱いしてごめんなさい」と八代先輩に謝ると、彼は簡単に許した。

 僕のことも「ついてなかったな。タージは準強制性交等罪を習った直後だから、ピンときたんだな」ととがめなかった。その気になればいつでも女を抱けるから、ミーハーを取り逃がしたことへの未練はないのだろう。八代先輩に貸しを作ることはできなかったが、『使えない奴だ』と見切りをつけられずに済んだのは幸いだった。

 ただ、この一件で最もダメージをこうむったのは僕だ。タージに「人の恋を応援したいからといって、好きでもない人に告白して時間を引き延ばそうとするのは最低な行為です。もし私が真に受けていたらどうしていたんですか? 人の気持ちをもてあそんではいけません」とたしなめられた。

 それ以降、タージと顔を合わせ辛い。僕を下衆げすな男だと思っているに違いない。彼女にどう思われても気にならないが、僕の浅ましい所業を吹聴ふいちょうされたらたまらない。僕の評判はガタ落ちだ。女子から軽蔑けいべつされる。

 今のところは、まだ誰にも話していないみたいだ。タージに友達がいないからか? それとも切り札のカードとして温存しているのか? いずれにせよ、僕は蛇に睨まれたかえるだ。厄介な奴に弱みを握られている。

 

 改札を抜けて地下から地上に出た瞬間に、長傘を電車内に置き忘れたことに気付いた。端の席に座れたから、傘の『J』型の手元を手すりに引っかけていた。三十分ほど前に『今日は端が空いてる。ラッキー!』と喜んだ自分が憎らしい。そしてタージのことも。明らかに彼女に気を取られたから傘のことを失念したのだ。

 税込みで三万七千八百円もしたのに。一昨年おととしの夏に見栄みえを張るために奮発した。昭和五年創業の傘専門メーカー。シルク百パーセントの生地。紫外線防止加工が施された晴雨兼用。お洒落しゃれなストライプ柄。カーボン製の十六本骨。重厚なしなの木の手元。

 溜息ためいきしか出ない。今から電車を追いかけることは不可能だから、帰りに駅員に訊こう。乗客に盗まれずに駅員や清掃員が見つけてくれることを祈るばかりだ。

 タージがトートバッグから真っ赤な折り畳み傘を出し、ワンタッチで差した。

「持ってくれますか?」と傘の手元を僕に握らせようとする。

「いや、いいよ」

 相合傘を遠慮した。どう見ても不自然なツーショットになる。少しは周囲の目を気にしろよ。駅前はまだいいとして、大学の近くでは知り合いに目撃される確率がぐんと上がる。僕まで奇人扱いされるのは免れたい。

「平気です。この傘は一見普通の雨具に見えますが、二通りの使い方ができるので安心してください」と得意げに説明した。「もちろん一人で使えば悠々と歩けます。でも二人で使うと窮屈でも仲良くなれるんですよ」

 なれるとは限らない。どんな傘であろうとも『相合傘をした二人は親しくなる』という機能はついていない。

「なんか悪いからいいって」

「駄目です。私、知っていますよ。センパイが傘好きだってこと」

「特別、傘が好きってわけじゃないよ」と否定しておく。

 大学でたった一人でレンタル傘の活動をしているタージに仲間意識を持たれたら面倒だ。彼女は大学の最寄り駅の鉄道会社にお願いして、一定期間を経て持ち主不明となった傘を提供してもらい、学生にも自宅で余っている傘の寄付を募った。そして手元に自分がデザインしたハート型のシールをり、無料で学生へ貸し出すサービスを始めた。

 構内の数ヶ所に『ご自由に使用して、晴れた日に戻してください』という貼り紙のある傘立てを設置している。だけど借りる時も返す時も一切手続きをしないので、返さない人が多い。タージに怒られても怖くない、と軽視しているのだ。

 返却率が悪くてもタージはめげない。学生に傘の寄付を呼びかけるチラシを配り、構内の掲示板に貼り紙をし、鉄道会社に掛け合って不要傘を集め、補充している。

 そんな彼女に対して周囲の反応は冷淡だ。『暇人』『クレイジー』『変わり者』『気色悪い』などなど。好意的な意見を探す方が難しい。みんな変人扱いしている。僕もその一人だ。

「そうなんですか。色々な女の子と相合傘をしているのをよく見かけるので、傘好きなのかと思っていました」

 今のは嫌味か? しれっと僕を『この、女好きが!』と非難したのか? ミーハーの一件以来、タージは切れ者なんじゃ、と僕は疑っている。

「たまたま俺が傘を持ってて、相手が持ってない時が何回かあっただけだよ」

 サークル内ではよくあることだ。天気予報で小さな傘マークがつけば必ず折り畳み傘を携帯している僕は相合傘をする機会が時々ある。でも下心があって常に天気を気にしているのではない。

 天気をかろんじることは人生を台無しにすることにつながるからだ。気温差に体はストレスを感じ、小雨でも打たれれば体温は低下し、風邪を誘発する。紫外線はシミ、そばかす、皮膚がんの原因になる。

 僕は病気の予防のために天気予報のチェックを欠かさない。紫外線が強い日はSPF50のPA++++フォープラスの日焼け止めを塗りたくるし、熱中症の危険度が高い日は直射日光を避け、小まめに水分を補給する。

 また、天気とファッションは切り離せない。湿気が多い日は癖毛が爆発しないよう念入りに整髪料をつける。雨の日は服やかばんや靴を悪くしたくないから、れても平気なコーディネートにする。

「今みたいに?」とタージは何気なく訊く。「今は私がたまたま傘を持っているんですよ」

 はかったのか? だとしたら、相当の策士だ。有無を言わせない状況に僕を追い込んだ。

「そうだな」

 認めるしかなかった。

「それじゃ、行きましょう」

 僕は彼女の傘を手にし、体を密着させて歩き出す。

「センパイは初心うぶなんですね? 傘から肩が出ています。気にしないでいいんですよ。私にはちゃんと心に決めた人がいますから」

 タージの恋バナなんか興味ない。おおかた、彼女に勝るとも劣らない変人に恋しているのだろう。でなければ、幼少期におままごとで『大人になったら結婚しようね』と誓い合った程度の相手だ。思い込みの激しいタージが一方的におもいを寄せていることは充分にあり得る。

 いや、本当にかまととぶっているなら、容姿や肩書きを重視して男を選んでいるのかもしれない。ひょっとしてタージは八代先輩をねらっているんじゃ? そう考えれば、あの夜の突飛な行動は合点がいく。彼女はミーハーをライバル視していただけか?

 タージが天然なのか計算なのか、どちらか判断がつかない。すっかり疑心暗鬼に陥っている。彼女は何事も起こらなかったかのように今までと変わらない接し方をするから、綺麗さっぱりと水に流している可能性がある。

 でも腹の底では『人でなし!』と敵愾心てきがいしんを燃やしているおそれもある。僕を油断させておいて、虎視眈々こしたんたんと女心を弄んだ罰を与える機会をうかがっているのでは?

 警戒して歩いていると、「あれは、河本こうもとさんですね?」とタージが人差し指を前方に向ける。三十メートルほど前を河本さんが歩いていた。タージと同じ二年生の素朴な女子だ。地方出身でまだ東京に染まっていないところ、なかなか染まりきれない不器用さに郷愁を覚える。

 高校時代の僕だったら、彼女のことが気になって仕方がなかっただろう。河本さんが聴いている音楽や読んでいる本を人づてに聞いてニンマリし、彼女と挨拶を交わすだけで舞い上がったはずだ。

 あの頃の僕は告白するどころか話しかける勇気すらなかった。だから恋心を悶々もんもんとさせるばかりで、何もアクションを起こせなかったに違いない。だけどそれはそれで楽しかったと思う。

 河本さんが手にしている傘の色が彼女のさり気なさを表している。薄い緑色。目立たず、騒がず、ひっそりと存在している。まるで臆病おくびょうつぼみのようだ。彼女を視界の片隅に捉えるだけで心が和む。

「タージは河本さんと仲いいの?」

「一緒の授業がない曜日もありますが、生協でうまい棒を買うのを日課にしているので、頻繁に顔を合わせています」

 河本さんは生協の売店でアルバイトをしている。

「へー」

「好きなんですか?」といきなり核心をついてくる。

 やっぱりこのぼけっとした顔は周囲をあざむくための仮面か? それともいつもの脈絡のない発言が偶然的中しただけか?

「地味な女は苦手だ」

 河本さんのような華のない女子と交際してもはくがつかない。仲間内から『趣味が悪いな』と弄られるだけだ。一度きりの関係なら『アクセサリーを増やしたかった』で済ませられるけれど、遊び半分ではあの子に手を出すことはできない。

「河本さんはあきらめた方がいいですよ」

「だから、違うって」と否定し続ける。「って言うか、彼氏がいるのか?」

 浮いた話は耳にしていない。

「だって、傘を持って仲むつまじく歩いているじゃないですか」

 河本さんの隣には深井ふかいという三十代前半のオッサンがいる。生協の職員で既婚者だ。彼がだらしなく持っている真っ黒の傘からは、邪悪なものしか感じない。

「たまたま駅で一緒になっただけさ」

 不謹慎な想像をするなよ。河本さんに失礼だ。体を寄せ合って一つの傘に入っている僕たちの方がずっと親密な関係に見える。でもタージは納得がいかないようで口をとがらせる。

「前にも一度、通学路で二人の姿を見たことがある。並んで歩いているだけでカップルに見えるなら、俺たちはおしどり夫婦になる」

「不純です。心に決めた人がいるんですよ」と鼻息を荒くする。

 おいおい。他愛ない比喩ひゆだろ。僕には夫婦気取りでタージと相合傘をしている気持ちなど、これっぽっちもない。

「言葉のあやだよ。俺たちは夫婦じゃないし、河本さんたちだって違う」

「当たり前のことを言わないでください。河本さんたちが夫婦のはずありません」

「いや、カップルじゃないっていう意味で言ったんだ」と取り違えた彼女のために補足する。

「なんでわからないんですか? だって傘が二本……」

 向きになったタージは声が大きくなる。

「ピザまん、買おうかな。食べる?」と僕は慌てて言葉を被せる。「傘に入れてくれたお礼におごるよ。アイスでもいいけど」

「食べます! 食べます!」

 一転して明るい声を出した。現金な奴だ。でも今回だけはその単純さを重宝する。通り過ぎようとしていたコンビニに立ち寄って河本さんたちとの距離を空ける。相合傘をしているところを彼女にだけは目撃されたくない。

 あの調子でタージがエキサイトしていったら、彼女の声に河本さんたちが振り返る可能性があった。仲間内ならいくらでも言い訳できるし、冗談で誤魔化せる。だけど河本さんとは一緒の授業が二つあるものの、特別な接点がないから誤解されたままになってしまう。

 タージにピザまんを買い与えると、「いただきます」とかぶり付く。むしゃむしゃとあっという間に平らげた。

「ところで、河本さんのことなんですが、諦めはつきましたか?」

 また蒸し返すとは、しつこい奴だ。だからみんなから煙たがられるんだ。

「ああ。ついた」と受け流す。

 彼女は深井が妻帯者であることを知らないのかもしれない。そして河本さんが深井を嫌っていることも。

 

 河本さんとは一度だけじっくり話したことがある。去年の忘年会シーズンのことだった。学年の垣根を越えたゼミの親睦会しんぼくかいで、端っこの席でビールをチビチビ飲んでいた彼女に話しかけてみた。どことなく寂しそうな気がしたし、心かれるものを感じた。

 大学生になってからの僕は女子に対して不必要に緊張をすることがなくなった。気軽に声をかけられる。でもそれは借り物の言葉を使うからだ。他人の真似まねをし、『俺って昔から社交的な男だ』とよそおうことはそう難しくなかった。

 一度なりきってしまえば、それが通常になる。演じているうちに本当の自分との境界線が消える。みんなやっていることだ。程度の差こそあれ誰しも自分をっている。そしてみんなそれを自覚しているから、相手の化けの皮をがそうとしない。相互不可侵が暗黙のルールになっているのだ。

 河本さんは見かけ通り内気で自分の盛り方をまだわかっていない子だった。警戒心が強くて打ち解けるまでに一時間以上かかった。アルコールが回ってくると、彼女の舌も転がりだす。親元を離れて暮らす苦労や、度々ホームシックに陥ることや、なまりが恥ずかしくて積極的に会話できない悩みをこぼした。

 そしてバイト先の不満も。いまだに電子マネーに慣れなくてレジでもたついてしまうことから始まり、徐々にディープな話題を口にするようになる。僕たちは顔を近付け、声を潜める。

 彼女は生協職員の深井の悪行の数々をこっそり打ち明けた。セクハラすれすれの言動、サボり癖、賞味期限一日前の食品を盗み食いして廃棄扱いにしていること、などなど。

 次の日、サークルの仲間と学食でたむろしていたら、居合わせた八代先輩が「なんであの地味な子を持ち帰らなかった?」と訊いてきた。彼も親睦会に参加していて、言うまでもなくロックオンした女子をテイクアウトした。

「重そうな女だったからやめました。あれは間違いなくストーカー予備軍ですよ」

 八代先輩を牽制けんせいするための話をでっちあげた。彼は重い女には手を出さない。八代グループから多少変な目で見られることになるけれど、これで八代先輩が軽々しく河本さんに近寄ることはない。

「そっか、災難だったな」

 八代先輩は同情的な笑みを浮かべる。

「全く」と言って、僕はくたびれた顔を作った。「危ないところでした。話しかけた時から、なんかおかしい気がしたんですよ。危険を察知する嗅覚きゅうかくがビンビンに反応して。でもからまれて逃げられなくて」

 翌週に「あの」と河本さんから声をかけられた。恋の予感に胸が弾んだが、仲間に紹介しにくいことを懸念けねんした。彼女は一頻ひとしきりもじもじしてから切り出した。

「この間のことは忘れてください。酔っていて、尾鰭おひれをつけたことばかりしゃべっちゃったんです」

 素面しらふに戻ったら、よく知りもしない男に愚痴ったことを後悔したのだろう。浮ついたサークルに所属している僕を信用できないのはもっともなことだ。僕が深井の悪行を言い触らし、回り回って彼の耳に入ったら、河本さんはバイトを続け辛くなる。

「逃げずに闘おう」と僕は提案した。

 深井を告発するためなら協力を惜しまないことを申し出た。不正行為の証拠を彼に突き付けて河本さんを救いたい。でも彼女は「困ります」と迷惑がった。大事おおごとになることを恐れたのか?

「出過ぎた真似をして悪かった」と僕は謝り、口外しないことを誓った。

 それ以降、言葉を交わしていない。彼女は僕を避けた。失態を演じたのを恥ずかしがっているのか、秘密を握っている僕が怖いのか、教室では顔を背け、構内で僕と出くわしそうになるときびすを返した。

 彼女の意を酌んで僕からも話しかけなかった。生協の売店を使うのもやめた。僕は交際を申し込んだわけではないのに、失恋したような気分をしばらくった。

 

 夕方になっても今朝のお天気アナが言っていた通りの空だった。こんな時に限って当たるんだよな、と恨めしい気持ちで空を眺める。それから出入り口脇の『ご自由に使用して、晴れた日に戻してください』の貼り紙のある傘立てを睨む。

 ビニール傘が一本。骨が数本折れていてごみ同然だ。緊急時だからり好みをするつもりはなかったが、この傘ではしのげない。

 強行策しかないか、と覚悟を決めて外へ踏み出そうとした。その瞬間に、頭の上から影がおおい被さってきた。背後から傘を差したタージが現れ、横に並ぶ。

「どうぞ」と傘の手元を僕に向ける。

 呆気あっけにとられた僕は無意識に傘を受け取ってしまう。

「さあ、行きましょう」と彼女は何食わぬ顔をして言う。

「え? どこへ?」

「まだ授業があるんですか?」

「いや」

 ゼミで提出したレポートがC評価だったから、担当のじゅん教授に指導を受けていて遅くなった。いつもつるんでいる仲間は僕を見捨てて先に帰った。

「私もです。じゃ、駅へ行きましょう」

 タージじゃなければ、僕のことを好きな女子が一緒に帰りたくて待ち伏せしていたんだな、と浮かれられたのだが。

「いや、いいよ。これくらいなら傘がなくても平気だ」と傘を返そうとする。

 朝からずっと代わり映えのしない天気だけれど、登校時よりは体に優しい空模様だ。彼女と相合傘をして心に受けるダメージよりは軽傷なはず。

「やせ我慢は駄目です」

「そういうわけじゃ……」

「私じゃ嫌なんですか?」

 タージにすごまれてひるむ。彼女には逆らえない。僕はむ無く、二人で外へ歩みだす。

「なんで、そこまで人を傘に入れたがるんだ?」

「センパイは傘を盗まれたことがありますか?」

「あるよ。何回か」

 同じ回数、盗んだこともあるけど。

「私もあります。とてもとても大切にしていた傘だったんですけど、コンビニの傘立てに入れてから店内を何周もしていたら、いつの間にか無くなっていたんです」

 よくある話だ。

「鼻とあごにピアスをした店員さんにたずねたら『傘は盗まれる方が悪い』と教えてくれました」

 正論だ。盗まれる奴が悪い。無くす奴が間抜けなのだ。今日の僕みたいに。傘の奪い合いは人生の縮図のようだ。るか、盗られるかの狂騒曲きょうそうきょく。盗った奴が勝ち組。傘を手にできなかった奴はどんなにえても負け犬にしかなれない。

「私、知りませんでした。ほとんどの人がそう思っていたことを」

 誰もが盗られた経験、無くしたまま戻ってこなかった経験がある。だから自分も他人の傘を盗って何が悪いんだ。文化的な生き物とは思えないスパイラルが延々と続いている。きっと未来永劫えいごう連鎖していくのだろう。モラルなんてお構いなしだ。

「だから、私、うれしくなったんです」

「は? 何が?」

「だって、凄いことじゃないですか? 人の傘を無断で使用していいってことが人類共通のルールになっているんですよ」

「喜ばしいことじゃないだろ」

 意味不明なことに興奮するタージに苛立いらだつ。いつもの生真面目きまじめさはどこへ行った? 『どんな物でも窃盗は許せません』って言えよ。こいつのちぐはぐさには人の精神をチクチク刺すような不愉快さがある。

「そうですか? 勝手に自分の傘を使われても、いちいち腹を立てないってことですよ。凄い寛容さです」

「まあ」と少し迷ってから同意する。

 タージの解釈は大間違いだ。誰だって盗られたら腹が立つ。ただ、『傘は盗まれる方が悪い』という理不尽なルールを改正する手立てがないから、泣き寝入りするしかないのだ。

「素晴らしいことです。世の中には個人の傘はなくて、どの傘もみんなで自由に使っていいんですよ。なんて優しいルールなんでしょう」

 正気で言っているのか? 完全に頭が沸いていやがる。

「でもさ」と反論する。「先にみんなに傘を使われちゃって、渋々コンビニとかで購入する人ってしわ寄せを食ったことにならないか?」

「どうしてですか? ボランティアみたいなものですよ。その人が買った傘は、いつかは誰かの手に渡って有効利用されるんですから、誇らしいことじゃないですか。私が無くした傘もたくさんの人の手から手へと渡って活躍していることを想像すると、鼻が高くなります」

 やっぱりこいつは天然ちゃんか? 本心からの言葉だとしたら、相当な馬鹿だ。よく、今まで生き残ってきたな。違うな、どうしようもない馬鹿だからこそ、周囲の忠告や妨害などものともせずに唯我独尊ゆいがどくそんで突き進んできたんだ。

「本当はもっと相合傘の習慣が広まればいいんですけどね。そうすれば、雨に濡れる人がいなくなるじゃないですか? 恥ずかしがり屋さんが多いみたいで、なかなか定着しないのが残念です。見ず知らずの人と同じ傘に入るのってそんなに難しいことじゃないのに」

 いやいや、難しいって。軒下などで雨宿りしている時に『どうぞ、入ってください』と相合傘を勧めてくる人がいたら、大半の人は怪しむものだ。

 だけどタージは「有言実行しています」と主張する。面識のない人を傘に入れてあげて、その人の自宅まで相合傘をして送ったことがあるそうだ。それも一回や二回ではない。にわかには信じがたい奇行だ。

「乗りかかった船ですから」と彼女は言い切った。

 個人情報保護の重要性が叫ばれる昨今で、他人に自宅を知られるリスクを考慮できないものか? それに、こんな奴でも一応乙女だ。口を閉じていれば、可愛い部類に入る。相合傘を進んで申し出たら、勘違いする男もいる。家に連れ込まれて襲われることだってないとは言えない。

 タージは危機を察知する能力が高いのか? 僕と八代先輩の悪意をぎ取った時のように、天性の勘が働いて危ない目に遭わずに済んでいるのかもしれない。でも過信は悲劇の呼び水だ。

 彼女は男の下劣な執着心を知らない。世の中には『どこまでも追っかけ、逃がしはしない』という男もいる。いつでも回避できると思っていたら、泣きを見ることになるぞ。その時になって後悔しても、知らないからな。

 

 タージは『乗りかかった船』だから、僕が下校するのを待ち構えていた。家まで送り届けないと気が済まないらしく「ここまででいいよ」「駄目です。家まで送ります」の言い合いを何度も繰り返した。

 僕の自宅の最寄り駅では、「そのへんの店で傘を買うから、もういいだろ?」と提案したけれど、「これは私の自己満足なんですから、素直に従ってください。わざわざお金を無駄に使うことはありません」とタージは譲らなかった。

「買えばボランティアになるってさっき言ってた」

「あれはビニール傘に限ったお話です。ビニール傘は消耗品のイメージが強いので、みんなで気軽に使い回せます。センパイはビニール傘を嫌っていますよね? 私、知っているんですよ」

 僕は傘にこだわりがある。傘もファッションの一部であるし、実用性の面からもビニール傘は選択肢に入れていない。お金を払うなら生地が布製の傘を選ぶ。だから急な雨に降られた時でも安価なビニール傘で妥協しない。

 それにしても、目ざといな。やっぱりしたたかな女なのか? いや、タージも傘への関心が高いから、人が手にしている傘に自然と目が向くのだろう。

「ですから、ビニール傘を買わないセンパイはボランティアに貢献することはできないのです。きっと無くした傘はどなたかが一時的に使ってから届け出てくれますよ」

 電車に乗る前に、駅員に訊ねたら、『そのような傘はどこの駅にも届けられていません』と返ってきた。盗られた可能性が高いが、簡単には諦めきれないからしばらくはタージの言葉を信じて待とう。

「タージが盗まれた『大切にしていた傘』ってビニール傘だったのか?」

「はい」

「その傘に何か思い入れでもあったのか?」

「お恥ずかしい話なんですが、私って貧乏性なので、五千円以上する傘だったから惜しかったんですよ」

「五千円!」と目の玉が飛び出るような衝撃価格に声が飛び跳ねた。「ビニール傘なんだろ? なんで、そんなに高い?」

「徳川幕府御用達ごようたしのビニール傘なんです」

 ああ、と思い出した。雨の日に政治家が演説中に差しているビニール傘がバカ高いって話を聞いたことがあった。特殊なビニールが使われているそうだ。

 あれが五千円以上もするのか。特別仕様と言ってもビニール傘に過ぎない、と軽んじていたから価格に驚いた。まさにVIP御用達の傘だ。

 ただ、本当にタージはうっかり者だ。江戸時代にビニール傘があるはずがない。おそらく『徳川幕府御用達だった老舗しにせの傘メーカーが作ったビニール傘なんです』と言いたかったのだろう。

 

 僕が住んでいるワンルームマンションの前に着くと、タージが「では、私はこれで」と言って大きくお辞儀する。

「助かったよ。少しうちで涼んでいくか?」と勧めたけれどすぐに取り消す。「あっ、いや、なんでもない」

 他意はなかった。蒸し暑い中わざわざ駅から十五分も歩いて送ってくれたから、冷たい飲み物でも振る舞うのが礼儀だと思い、深く考えずに発言してしまった。でも僕なんかが部屋へ誘ったら、如何いかがわしい行為を警戒されないわけがない。

「ごめん。変な意味で……」

「それでは、お言葉に甘えさせていただきます」

 タージの即決に戸惑いながらも、マンション内へ招き入れた。玄関を開けた途端に、彼女が「あっ、これは!」と傘立てに入っている傘に目を留める。手元にハート型のシールが貼ってある傘があったのだ。

「ついつい返しそびれて……」と言葉が窮屈になる。

 一年ほど前、思わぬ夕立にあい、やむにやまれぬ事情でレンタル傘を手に取った。バイトの時間が迫っていたから、雨が上がるまで待っていられなかった。

「ちゃんと役立っているんですね」と嬉々ききとして声を弾ませる。

 なんで僕を咎めないんだろう? 思えば、タージが配っているチラシは、不要になった傘の寄付をお願いしているだけだ。『使ったら返して!』とは訴えていない。この子は人を憎んだりしないのか?

 僕が冷蔵庫から烏龍ウーロン茶のペットボトルを出してグラスに注いでいる間、彼女は窓辺のソファに座ってくつろいでいた。

「お茶しかないけど」と僕はグラスを手渡そうと腕を伸ばす。

「いらないです」

 そりゃ、そうだ。ミーハーの一件を踏まえれば、怪しげな薬が入っているかも、と用心して当然だ。僕の信用など地に落ちている。そう思っていたら「ホットココアはありますか?」と厚かましく要求してきた。

 先に言えよ。そう言い返したくなったけれど、僕はグラスを持った手を引っ込めた。タージのために用意したお茶に口を付けて、気持ちを落ち着かせる。きっと悪意はないんだ。馬鹿正直なだけ。僕の弱みを握っているからって踏ん反り返っているわけじゃない。

 今日、彼女にお節介を焼かれてわかったことがある。こいつは悪い奴ではない。僕に意地悪をしたくてまとっているとは考え難い。親切以外に僕を家まで送る理由が見つからない。

「ホットチョコレートでいいなら、作れるけど」と僕は頭を切り替えた。

「じゃ、それでいいです」

 タージの物言いをぐっと堪えて聞き流し、冷蔵庫から牛乳を出して片手なべで温める。その間に板チョコを包丁で刻む。泡立て器がないからできるだけ細かく切る。温まった牛乳に刻んだチョコを入れて菜箸さいばしき混ぜる。溶けきったらマグカップに注いで出来上がり。

「熱いから気をつけて」とタージに手渡す。

「ありがとうございます」

 フーフーとホットチョコレートの表面に息を吹きかけると、眼鏡のレンズが曇った。だけど彼女は全く気にせずにおちょぼ口で一口飲む。

美味おいしいです!」と両頬をツヤツヤさせて歓喜する。

「なあ、タージ」

「なんでしょう?」

「タージの目には俺がどう映っているんだ?」

「センパイはセンパイです」

 当たり前のことを訊かないでください、と言いたげな顔をしている。

「そうじゃなくてさ、ほら、俺には前科があるだろ? 八代先輩の家に行った時にやらかしているだろ? なのに、なんで俺のことを怖がったり、さげすんだりしないんだ?」

「そのことに関してセンパイはもう謝ったじゃないですか」

「だけど、俺は最低なことをしたから」

「罪を憎んで人を憎まずって言葉を知らないんですか?」

「一応は知っている」

 その知識はある。でも心では理解していない。ポジティブシンキングで簡単に人への憎しみがなくなるなら、争い事は起こらない。

「私、授業でたくさんの判例を勉強しました。仲間意識は犯罪の温床です。人間が二人集まれば、同調圧力が働きます。自分がしたくなくても仲間がするから、自分もしょうがなく加わる。本当はみんな嫌々なのに、集団心理にって犯罪に加担してしまうことがあります」

 そう言ってまた一口だけ飲んだ。

「特に男の子って背伸びしたがるから、みんなの前で『できない』って言えないんですよね? センパイは格好がつかなかったから、自分を守りたくてああいうことをしただけです。全部が全部センパイが悪いのではありません」

 なんて甘い奴なんだ。大甘だ。どう考えても僕が悪いだろ。格好つけようとして、八代先輩に気に入られようとして、ただそれだけの理由でミーハーを生贄いけにえささげた。

「それでも怖がれよ。少しは軽蔑しろよ」

 タージは無垢な顔を斜めに傾ける。

「男の部屋に上がったら、襲われることを警戒するもんだろ? なんでリラックスして美味しそうにホットチョコレートを飲んでいるんだ?」

「襲いたいんですか?」と目を丸くして驚く。

「そんな気はないよ。でもさ、普通なら『変なことをするのが目的で家に連れ込んだんじゃ?』って怪しむところだ」

「私はセンパイのこと、よく知っているんです。今朝、乗り過ごしそうになった私を電車から降ろしてくれました。相合傘をしている間はずっと、私の肩幅と歩幅を気にかけていました。マグカップを渡す時に、私が受け取りやすいようにと自分は取っ手を持たないで我慢していました。本当は熱かったんですよね? 顔が険しかったですから」

 図星だ。思っていたよりも熱かったから、タージに『気をつけて』と言ったのだ。

「あっ、あと登校時には水溜みずたまりにも配慮してくれました」

 昨日丸一日降り続いた雨で道の所々に水溜まりができていた。僕は悪路を見越して完全防水のショートブーツを履いていたが、彼女は何も考慮していなかった。レザーサンダルだった。だからタージに歩き易いコースを譲り、僕が率先して水溜まりに入ったまでだ。

「そんな心優しいセンパイが単独で悪いことをするはずはありません。センパイが私を気遣って『涼んでいくか?』と勧めたことくらい、きちんと知っています。しかも、センパイが嘘をつくことを不得意にしていることも知っていますから」

 言葉に詰まった。ここ数年でこんなにまで人から信頼されたことがあったか?

「月曜にはレンタル傘を返すよ」と絞り出すのがやっとだった。

 

 週明けの月曜、今朝は河本さんと登校することになった。駅を出てすぐに後ろから「菅野さん、おはようございます」と挨拶された。

「おはよう」とどうにか返したものの、思ってもみない展開にしばし思考がフリーズしてしまう。

 心臓が高鳴り、淡い期待を抱く。河本さんは僕が手にしているレンタル傘の手元をちらっと見てから、「この前の金曜、田嶋さんと一緒に帰ったそうですね。田嶋さんが菅野さんのことを『センパイは凄く初心なんですよ。肩が触れ合う度に、傘から飛び出さんばかりに体を離すんです』って言っていました」とタージのことを話題にする。

 河本さんとタージは土曜に授業を入れているけれど、単位に余裕がある僕はオフ日にしている。きっと土曜に二人は軽い立ち話でもしたのだろう。

「ついてなかったよ」と僕は慎重に言葉を選ぶ。

 タージがどこまで話しているかわからないうちは、ペラペラ喋れない。女子を家に連れ込む軽薄な男だと思われたくない。

「私はずっと地下にいたから気付かなかったんですけど、雨が降っていたんですね。バイトが終わって地上に出た時にはやんでいました」

 生協の売店は地下一階にあって地上の様子がわからないから、長居して地上に戻るとちょっとした『浦島太郎』状態になる。うちの生協の『あるあるネタ』の一つだ。河本さんにとって、『バイトが終わったら雨が降っていた』や『バイト中に夕立があったみたいだけれど気がつかなかった』などは日常茶飯事だ。

「私も田嶋さんと相合傘をしたことがあります。バイトが終わって帰ろうとしたら、土砂降りだったんです。生協で傘を買おうと階段を下りかけたところを『どうぞ、私の傘に入ってください』って声をかけてくれました」

「その時にどんな話をしたの?」

 話題を相合傘から遠ざけようと試みる。

「私には難しい話でした」と言いながら複雑そうな表情を見せる。

 やっぱり河本さんとタージはさほど親しくないらしい。毎日生協で買い物をしていても、タージは客の一人としか認識されていない。

 以前よりも河本さんは訛りが抜けていて、寂しい気持ちになった。久し振りだから差異がはっきりわかる。僕と河本さんもその程度の仲なのだ。

「タージにも好きな人がいるみたいなんだけど、河本さんは知ってる?」

 僕とタージがただの先輩後輩の関係であることをそれとなく伝える。

「この間の土曜に、田嶋さんから『心に決めている人がいます。いつかその人と相合傘をしたいです』って聞きましたが、詳しいことは教えてくれませんでした」

 どうやらタージは気を遣ったようだ。僕とタージが相合傘をしたことで良からぬうわさが立つ前に、河本さんに事情を説明して『ほかに好きな人がいる』を強調した。

「田嶋さんは親切な人ですよね。恋心とか見返りとか関係なく、傘がなくて困っている人に優しくできるなんて。私には真似できません」

「まあ」

「本当に立派です。レンタル傘の活動もしていますし。みんな田嶋さんの誠実さを見習うべきです。そうすればレンタル傘の返却率が上がるのに」

「そうだね」

「みんながちゃんと返していないから、菅野さんと田嶋さんが一本の傘に身を寄せ合わなければならなかったんです。相合傘ってどうしても外側の肩が濡れてしまいますよね?」

「あ、ああ……うん」

「でも一本だけでもレンタル傘があってよかったですね。みんなのために傘を集めている田嶋さんが雨に濡れるなんて、理不尽すぎますから」

 タージの説明は不充分だったと思われる。相合傘をすることになった経緯が河本さんに正確には伝わっていない。齟齬そごが生じている。彼女は僕がレンタル傘を持っているから、『その傘で金曜に田嶋さんと相合傘をした』と思い込んだ。

 だけど僕には訂正できない。レンタル傘を返さない人を非難したばかりの河本さんに『これは一年前に借りてずっと返しそびれていた傘なんだ』と言うのは気まずい。その上、タージとの相合傘の経緯がややこしい。僕まで変人だと思われかねない。

 河本さんの思い違いを解いても、手段や過程が違うだけで結果は一緒なのだから、墓穴を掘るおそれがある。下手なことを言ったら、タージを家に入れたことまで露見するかもしれない。

「そうだね」と僕は話を合わせる。

「あの、田嶋さんから聞いています?」

「何を?」

 河本さんは少し言いよどむ。

「えーとですね、深井さんからレンタル傘の活動をやめてくれって迫られていることです」

 聞いてない。

「そりゃ、横暴だろ!」と思わず興奮してしまった。

 深井はレンタル傘を人知れず盗んでどこかに隠している。生協のビニール傘の売り上げを伸ばすためだ。『毎日、一本ずつ盗んでいるセコい男なんです』と河本さんがゼミの親睦会で愚痴っていた。深井にとってタージのリサイクル活動は営業妨害なのだ。

「近頃は、盗んでいないようです。後悔したのか、盗った傘は全部傘立てに戻したんです」

「それでも前科は前科だ。自分のしたことを棚に上げていることに変わりはない」

「深井さんは『傘の返却率が悪いと、この学校の品位が下がる。訪問者からモラルの欠けた学生ばかりの大学だと見られる。ツイッターで騒がれたら就活で不利になる』ということを建前にして撤去を求めています」

 痛いところを突く。さすが大人だ。本音と建前を巧妙に使い分ける。

「河本さん、僕と……」とつい『俺』を使い忘れたけれど、言い直すのはもっと格好悪いからそのまま続けることにした。「一緒に深井を告発しないか?」

「そう言う気がしていました。私に交渉させてくれませんか? 深井さんの性格から考えると、みんなでよってたかって断罪したら、素直に引き下がり難くなると思うんです」

 特に僕のような若造にやり込められたら、悔しくって堪らないだろう。いくつになっても男は女の前で恥をかきたくないものだ。ちっぽけなプライドから交渉が決裂する可能性がある。

「わかった」

「では、あのビデオカメラを貸してくれませんか? 証拠として提示したいので」

「明日、持ってくるよ」と僕は約束した。

 

 ゼミの親睦会で深井の悪行を聞かされた僕は、翌日から成敗に乗り出した。遅くまで大学に残って深井を見張る。そして彼が四日連続でレンタル傘を盗むところをビデオカメラに収めた。

 河本さんを助けたい。セクハラで悩んでいたから、窃盗の証拠を突き付けて脅し、迷惑行為をやめさせるつもりだった。しかし河本さんは「困ります」と僕を迷惑がった。

「私が少し我慢すればいいだけです。そういうことをされると、働き辛くなってしまいます。私が誤解していたんです。セクハラなんてありませんでした」

 僕の独りよがりだったのだ。ヒーロー気取りで自分に酔っていた。分不相応なことをしようとしていたのだから、当然の帰結だ。僕なんかが何かを成し遂げられるわけがない。犯行の瞬間をしっかり捉えるために、わざわざビデオカメラを購入した僕はとんだお調子者だ。

 八代先輩の真似をしていればよかった。彼の服の趣味に合わせ、髪型をころころ変えてお洒落ぶり、男でもスキンケアを怠らず、彼と同じ音楽を聴き、女に不自由していない風を装い、無理に自分を『俺』と言い、自分たちのグループに入れない奴らを小馬鹿にする。それが僕にはお似合いなんだ。

 

 火曜日、二限目と三限目の間の昼休みに河本さんと密会して、ビデオカメラを渡した。彼女が「交渉の結果をお伝えしたいので、連絡先を教えてください」と頼んだので、僕は喜んで教えた。そして夜遅くに彼女からメールが届く。

〈交渉はうまくいきました。田嶋さんのレンタル傘は存続です。その代わりに深井さんはビデオカメラの動画の削除を求めたので、止むを得ずその条件をみました。ですから、動画のコピーがあるなら、明日持ってきてくれませんか?〉

〈別のメモリーカードにコピーしてあるし、パソコンにも保存してあるけど、信頼して大丈夫なのか?〉と返信する。

〈はい。任せてください。深井さんは心から反省しています。根っからの悪人なら『自由に使っていいんだから、毎日傘を借りて何がいけなかったんだ? それに、すべて返却している』と開き直ることもできますよね? 本当に反省しているんです。こじれないうちに穏便に解決しましょう。〉

〈了解。明日、コピーしたメモリーカードを持っていく。今日と同じ時間と場所でいい?〉

〈はい。平気です。では、パソコンに保存している動画の削除をお願いします。人と人との繋がりは信頼が大事ですよね? 信頼し合いましょう。私を信じてください。私も菅野さんのことを信じていますから。〉

 僕はパソコンを立ち上げ、深井の動画を迷った末に削除した。背中を押したのはタージだ。『自分が信頼しないうちは、相手から信頼されないに決まっています』と彼女なら言うだろうな。そう苦笑しながらクリックしたのだった。

 

 水曜日、校舎の一号館と三号館の間にある古ぼけたベンチで河本さんと落ち合う。人通りがまばらで寂れた場所なので、密会に適している。できる限りサークル仲間の目に触れたくなかった。

 河本さんから返されたビデオカメラからSDHCメモリーカードを抜き取り、持ってきたメモリーカードを差し込んだ。そしてタッチパネルを操作し、深井の動画を削除した。

「これでもう残っていないんですよね?」

「ああ」

「本当ですか?」

 やけにしつこく確認するな、と違和感を抱きつつも「俺を信頼してくれ」と少しだけ格好つけて言った。

「わかりました」

 彼女は肩の荷が下りたように吐息を漏らした。

「これで一件落着だな」

「ごめんなさい」と突然頭を物凄い勢いで下げる。

「河本さんが謝ることはないよ。全部、深井が悪いんだ。その深井も改心したんなら、もう恨みっこなしだ」

「ごめんなさい」

「いいって。もう終わったことだ」

「ごめんなさい」

 頭を下げたまま繰り返す。

「だから、もう……」と言いかけている途中で、背中に悪寒おかんが走った。「もしかして、深井サイドなのか?」

「ごめんなさい」と謝罪の言葉で認める。

 一昨日おとといは偶然を装って声をかけてきたのか? 駅で待ち伏せしていたんだ。先週の金曜に僕とタージが急接近したことに河本さんは気をんだ。レンタル傘の廃止を深井に迫られているタージが僕に泣き付いたら、マズいことになるかもしれない、と。

 僕がタージに肩入れし、窃盗の動画を盾に取って深井を糾弾することを懸念した。なんとしてでも阻止せねば、と河本さんはあせって僕に接触してきた。あるいは深井の差し金かもしれないが、完全な早とちりだった。タージはそんなことを僕に一言も相談していない。どいつもこいつもうっかりしていやがる。

 でも一番間が抜けているのは僕だ。まんまと騙された。秘めた恋心にうつつを抜かし、勝手に『タージに償いをするのは今だ!』と意気込み、善人ぶって人を信頼しようとした。どうしようもない間抜けだ。柄にもないことをするから、こんな目に遭うんだ。

 だけどなんでなんだ? どうして彼女は深井なんかの味方をするんだ? 彼が窮地に陥ったとしても、なんの不都合があるんだ? 不機嫌になると、八つ当たりでもされるのか?

 僕は河本さんの両肩を掴んで「なんで? なんで騙したんだ?」と問い詰めた。でも彼女は顔を上げない。

「困るんです」とか細い声を出す。「深井さんが困ると、私も困るんです」

 頭がくらくらする。地面と空がぐるぐると回っている。

「だから、なんで? なんか深井に脅されていることがあるのか?」と河本さんの体を揺する。

 彼女は答えようとしない。はたからは、僕の方が河本さんを脅しているように見えるだろう。だけど他人の目なんて気にしていられるか! 僕はほとんど半狂乱で「なんでなんだ?」と尋問に等しい訊き方で追及した。

痴話喧嘩ちわげんかですか?」という緊張感のない声が僕と河本さんの間に割って入る。

 タージだった。

「センパイ、駄目ですよ。女の子を泣かしちゃ」

「いや……これは……」としどろもどろになる。

 おまえのことで揉めてんだよ。悠長にしている場合じゃないんだ。

「良いところにいました。河本さん」とタージは話しかける。

「はい」とビクビクしながら顔をゆっくり上げる。

 瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。

「この間はすみませんでした。せっかく傘を寄付しようと持ってきてくれたのに、受け取りに行くのをど忘れしてしまいました」

「はい?」と要領を得ない顔をする。

「私、知っているんです。うーんとですね」とタージは右手の親指から折って数える。

 親指。人差し指。中指。薬指。小指。

「五日前の金曜日のことです。傘を持って登校していたじゃないですか? 実は、私とセンパイは後ろから見ていたんですよ」

 僕もはっきり記憶している。河本さんは薄緑色の傘を手にして歩いていた。

「そう……でしたっけ?」と不安げな言い方をする。

「センパイの前だからって恥ずかしがらないでいいんですよ。ボランティア精神は清らかな心の働きですから、謙遜けんそんしないでください」

「いいえ、寄付するつもりなんて」と頭を振って否定する。

 タージは勘違いをしている。ビニール傘ならともかく、布地の傘はよほど使い込んでいない限り寄付しない。レンタル傘にはあまりいたんでいない布地の傘もあったが、それは鉄道会社が提供したものだろう。

「隠さないでいいんですよ。センパイは良い行いをしている人を偽善者呼ばわりするような人じゃないんです。ね?」と僕に向けて首を斜めにして同意を求める。

「まあ」

「本当に違うんです」と河本さんは再度否定する。

「えー!」とオーバーアクションで驚いた。「変ですね。なんで傘を持っていたんですか? 前日は雨だったけど、あの日の東京の降水確率はゼロでしたよ」

 河本さんの顔が硬直した。口元がかすかに震えている。何かを言おうとしているみたいだが、言葉にならない。

「そうでした」とタージに何かがひらめく。「掲示板に私の電話番号が書いてあります。内密に寄付したいんでしたら、今度からは電話してください。すぐに駆け付けますから」

 タージはスマホの番号を平然と貼り紙やチラシに載せている。個人情報の流出に全くの不用心なのだ。

「そうそう。深井さんにもそう伝えてくれませんか? 同じ日に深井さんも傘を持っていましたよね?」

 そうだ。彼も手にしていた。黒い傘をだらしなくつえみたいに突いて歩いていた。確かに、なんで二人とも傘を持っていたんだ? 少しの間、考えを巡らせる。

 そういうことか、と僕は脱力する。自分の鈍感さに笑うしかなかった。前日の雨。二本の傘。朝のツーショット。当日の晴天。それらが導く答えは一つしかない。お泊まりだ。

「あの日は雨が降りそうな気がしたんです。予感がしたんです。それで天気予報を無視して傘を持って……」

 苦しい言い分に河本さんの声が縮こまっていく。もしもの時に備えるなら折り畳み傘にするはずだ。不倫関係になって長いのかもしれない。どう考えても、一ヶ月やそこらで生じた秘め事ではない。すっかり警戒心が緩んでいて、傘のことを見落とした。

 前日と違う服を着てこそこそせずに堂々と歩いていれば不倫を疑われない、と気を抜いていたのだろう。もう幾度となくお泊まりをしているのだ。

「そうなんですか!」とタージは目を爛々らんらんとさせて感嘆する。「凄いですね! お二人そろってピーンとくるなんて!」

「でも、でもちゃんと降ったじゃないですか!」

 思い出したかのように早口で言った。

「河本さん、降ってないんだ」と僕は見かねてそっと引導を渡す。

「降りましたよ。『二人で相合傘をして帰った』って田嶋さんが言っていました。ですよね?」

 彼女はタージをすがるような目で見る。

「はい。先週の金曜はセンパイと仲良く帰りました」

「ほら」と勢い付き、声のトーンが上向く。「経験的に天候が読めるようになるものですよ。天気予報に関係なくピンとくることがあるんです」

「僕たちが相合傘をしたのは、タージの日傘なんだよ」

「日傘って?」

 河本さんは表情を失う。普通なら不自然な光景を思い浮かべて笑みを零すところだ。男のくせに日焼けを気にしやがって、と嘲笑あざわらってもいい。だけど今の河本さんには困難な行為だ。どんな笑い方もできない。

 彼女は土曜にタージから『金曜に菅野センパイと相合傘をして帰った』とだけ聞いていた。そして月曜に待ち伏せた際に僕が手にしていたレンタル傘を見て、『菅野さんと田嶋さんは夕立にあい、レンタル傘で相合傘をして帰った』と思い込んだ。

 年に数回、『ゲリラ豪雨』と呼ばれる突発的で局地的な大雨のニュースを見聞きする。晴天からの豪雨はさほど珍しくない。『またか』くらいの感覚だ。そのことも彼女が思い違いをした一因になっているのだろう。

「日傘じゃないですよ」とタージが細かいことを気にする。「あれは晴雨兼用の傘です」

「そうだったな。晴雨兼用だ」

「二通りの使い方ができる優れものなんです」

「河本さんたちの傘は雨専用だったでしょ?」と僕は訊いたけれど、彼女は答えない。

 真っ暗な瞳を足元に落としている。

「あの日は朝から晩まで僕たちの頭には一滴も雨は降ってこなかった。雨傘は必要のない日だったんだ」

 前日からの雨はうし三つ時にやみ、日中はずっと快晴だった。

「嘘よ!」と声を荒らげたけれど、動揺しているせいか弱々しく聞こえた。

「バイトが終わって地上に出た時に、地面は濡れていた?」

「それは……」と河本さんは記憶を探る。「濡れていなかったけど……。でもあの日は日差しが強かったから、夕立がやんでからもまだ強くて、それですぐに乾いたんですよ」

「そんな日差しの強い日だからタージの傘に入れてもらったんだ」

 男でもスキンケアをしないと年を取ってから後悔する。八代先輩の言葉だ。サークル内では、彼を真似て日傘を愛用している男は少なくない。周囲から気味悪がられることもあるけれど、『あとになってづらをかくのはそっちだ』と仲間内で先見の明のない奴らを見下していた。

 初めは僕も抵抗があった。日焼け止めで充分だと思っていた。でも八代先輩たちと円滑な関係を築くために、紫外線の強い季節に日傘を差すようになった。日傘もファッションやトレンドと同じで、仲間意識を確認する踏み絵の一つだ。

「嘘よ!」と河本さんはわめく。

 彼女にはもう言い返す言葉がないのだろう。可哀想かわいそうに。僕のことを避け、視界に入れないようにしていたから、僕が日傘愛用者であることを知らなかったのだ。

「金曜の天気を調べればすぐにわかることだ」

 河本さんは何も言わずに駆け出した。

「おなかでも痛くなったんでしょうか?」とタージはとぼけた顔をして彼女の背中を見つめる。

 こいつはどこまで知っていたんだ? 河本さんと深井の傘を見た瞬間から、二人の不純な関係を察していたのか? だから僕に『河本さんは諦めた方がいいですよ』と助言した?

 女って怖い生き物だ。平気で嘘をつくし、素知らぬ顔で天然ちゃんを押し通す。今、僕は完全に女性不信に陥っている。だけど晴れやかなものを感じているのはなんでだ? 手痛い失恋をして感覚がおかしくなっているのかもしれない。

 まさか深井みたいなオッサンにさらわれるとは、ダブルショックだ。親睦会で彼のことを散々愚痴っていたのはなんだったんだ? 親身になって頷いていた僕はとんだピエロだ。

 でも最初の印象が悪い方がハードルは下がり、相手のささやかな美点がキラキラして見えることがある。深井にだってどこかしら良いところがあると思う。僕も今ではタージがまぶしく感じるから、河本さんが彼にれる気持ちを理解できないこともない。

 にもかくにも、これでレンタル傘は撤去されないで済む。河本さんは『田嶋さんに不倫がバレた!』と深井に伝えるはずだ。彼はタージの顔色を窺わずにはいられなくなるだろう。

「あっ! ビデオカメラじゃないですか! 撮ってくれます? 新しいダンスを思い付いたばかりなんです」

 タージは定期的に変なダンスをみんなの前で披露する。リズム感のなさに誰もが乾いた笑みを浮かべる。そんな反応などお構いなしに創作ダンスを更新し続けている。

「たっぷり撮ってやるから、その前に一つ訊いていいか?」

「なんでしょう?」

「タージは人に裏切られたらどうするんだ?」

「どうもしません」とあっさり答える。

「どうもって?」

「だって人は人、自分は自分じゃないですか? 私は裏切りません。それだけですよ」

 僕の頬は緩やかに崩れる。そう。それだけでよかったんだ。僕は僕だ。無理に『俺』になる必要なんてなかった。自分の傘が盗られたからって、人の物を盗っていい道理なんてない。自分だけが貧乏くじを引いたとしても、自分が人の傘を盗らなければ、負の連鎖は断ち切れる。

「もういいですか?」とせっかちに訊きながら屈伸する。

 すでに踊る気満々だ。僕はビデオカメラのレンズキャップを外して構える。

「ちょっと待って」

 撮影モードを『スポーツ』に切り替えようとするが、使い込んでいないからもたもたする。

「早く、早く」とタージは急かす。

 何やってんだろ、僕は? 彼女の言いなりになって撮影すれば、僕も変人の仲間入りだ。サークル仲間に目撃されたら顰蹙ひんしゅくを買うだろう。八代先輩から『キモッ!』と絶縁されるかもしれない。だけど、それがどうした? 今の僕はタージのダンスが見たい。新しい変なダンスをビデオカメラに収めたいんだ。

 きっと僕は後々になって『なんで、あの時はアホなことをしたんだ? これまで確保し続けてきた俺のポジションが……』と歯ぎしりをするだろう。でもそれは仕方ないことなのだ。それが僕だ。タージとは違う。そして八代先輩とも違う。

「いいよ、踊っても」

 言い終わらないうちから、タージは楽しげにステップを踏み始めていた。

著者プロフィール

白河三兎

シラカワ・ミト

2009(平成21)年『プールの底に眠る』でメフィスト賞を受賞しデビュー。2012年『私を知らないで』が『おすすめ文庫王国2013』のオリジナル文庫大賞ベスト1に選ばれ、ベストセラーに。他の著書に『田嶋春にはなりたくない』『冬の朝、そっと担任を突き落とす』『無事に返してほしければ』『他に好きな人がいるから』『計画結婚』などがある。

判型違い(単行本)

この本へのご意見・ご感想をお待ちしております。

感想を送る

新刊お知らせメール

白河三兎
登録
キャラクター文芸
登録

書籍の分類