灯台へ
935円(税込)
発売日:2024/09/30
- 文庫
- 電子書籍あり
映画化絶対不可能。文学史を永遠に塗り替えた斬新さで、類まれなる愛を描き出した物語。
「いいですとも。あした、晴れるようならね」スコットランドの小島の別荘で、哲学者ラムジー氏の妻は末息子に約束した。少年はあの夢の塔に行けると胸を躍らせる。そして十年の時が過ぎ、第一次大戦を経て一家は母と子二人を失い、再び別荘に集うのだった――。二日間のできごとを綴ることによって愛の力を描き出し、文学史を永遠に塗り替え、女性作家の地歩をも確立したイギリス文学の傑作。
第一部 窓
第二部 時はゆく
第三部 灯台
訳者あとがき
解説 津村記久子
書誌情報
読み仮名 | トウダイヘ |
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シリーズ名 | Star Classics 名作新訳コレクション |
装幀 | 山崎杉夫/カバー装画、新潮社装幀室/デザイン |
発行形態 | 文庫、電子書籍 |
判型 | 新潮文庫 |
頁数 | 432ページ |
ISBN | 978-4-10-210702-7 |
C-CODE | 0197 |
整理番号 | ウ-28-1 |
ジャンル | 文学・評論 |
定価 | 935円 |
電子書籍 価格 | 935円 |
電子書籍 配信開始日 | 2024/09/30 |
インタビュー/対談/エッセイ
読む人びととしての『灯台へ』
ヴァージニア・ウルフはリアリズムのありかたを一変させた。作者がある人物を読者に「説明」するのではなく、その人の「目」を読者にじかに与える手法をとった。『灯台へ』でその技法はある意味頂点に達したと言えるだろう。
この小説の中にウルフが潜ませたのは、自身の読書論である。ウルフには読書の意義について論じた『一般読者』という評論書もあるが、それが理論編なら『灯台へ』は実例編と言えるかもしれない。人びとの本との接し方から人物像や心情がリアルに浮かびあがるように書かれているのだ。
まず、大学教授であり、著名な哲学者であるラムジー氏の本の読み方はなかなか特徴的だ。その姿は子どもたちからはこんな風に見えている。父が「あの本に没頭しているのはたしかで、たとえばいまみたいに一瞬顔をあげることもあるけど、それはなにかを見るためではなくて、頭を整理して考えをより明確にするためなのだった。それが済むと、心は本のなかへ帰ってゆき、また読書に没頭しだす」。
これはロラン・バルトが「読書のエクリチュール」に書いた「顔を上げながらする読書」そのものだ。「ある本を読んでいるときに、興味が持てないからではなく、むしろ逆に、思いつきや刺激、連想の波が押し寄せてきて、読書の途中で絶えず立ち止まるというようなことがかつてなかったであろうか。一言で言えば、顔を上げながら読むということがなかったであろうか」(『言語のざわめき』所収、花輪光訳)
また、ラムジー氏の弟子筋で若手研究者のチャールズ・タンズリーの読書も知識人のそれだ。自意識が強い。たとえば、ラムジー氏の旧友のウィリアム・バンクスがある歴史ロマンス小説を褒めると、すかさずこき下ろしにかかる。はっきり言ってモテないタンズリーはラムジーの娘に相手にされない八つ当たりで、好感度抜群の中年男性バンクスにマウントをとろうとしているのだ。が、横で見ているラムジー夫人には、タンズリーは難しい話をするけれど、結局、「ぼく、すごいだろう」という自己アピールをしたいだけなのだとばれている。ウルフの鋭利な人間観察が光る場面だ。
一方、タンズリーと対照的なのはポール・レイリーという青年だ。晩餐の席でラムジー夫人に、子どもの頃好きだった本の話を訥々とするのだが、二人とも文学には疎いので、「えーと、あれです」「あの登場人物の名前……」「なんでしたっけね」という感じで、みごとに盛り上がらない。タンズリーであれば気のきいた話の一つもできるのだろうが、とラムジー夫人は思いつつ、純粋に好きな本の話をしているポールを愛おしく思う(ちなみに思いだせない本とは『アンナ・カレーニナ』だった)。
ラムジー家の子どもたちはどうだろう。六歳の末っ子ジェイムズは、厳めしい父に抵抗する砦のような存在として使っている。「ジェイムズは本のページに一心に見入っていたら、父をやりすごせるんじゃないか」と思っているのだ。あるいは、「なにか単語を指さすことで、母さんの関心をとりもどせないかと」。けなげで泣けてくる。
その母のラムジー夫人は、自分でまだ本が読めない幼いジェイムズのために本を読み聞かせてやるのだが、彼女は本を読むことに何とも言いがたい倦怠感を感じている。この箇所の洞察は多くの女性読者に響くのではないか。
「肉体的な疲労とは出所の違う、なにかうっすらと不快な感覚がまじっているのに気づいた。『漁師と女房』という童話を読み聞かせてやりながら、夫人がその不快の元を正確につかめていたかといえば、そうではない」
その正体とは何か。「つまり――自分は夫よりすぐれているなどと、一瞬たりとも思いたくない。……大学も世間もあの人を必要としているし、あの人の講義、著作、それらが最重要の位置にあること――そうしたすべてを一瞬たりとも疑ったことはない」と思い込みたいのだが、世間的にはあそこの家は奥さん頼みだよね、といった風評が立っているのだ。それが不安なのだけれど、不安一色でないところがこのラムジー夫人像の新しさだ。
最後に、ウルフの人物造形の斬新さを。ラムジー夫人は古風で控え目な「家庭の天使」とみなされてきたが、実は自分の知性や才能に自覚的で、むしろ今っぽい女性だと思う。夫を立てようと気遣いつつ、自分が注目されて賞賛されるのも大好き。八人の子持ちにして、老年にも中年にも若者にもモテまくり、女性にも恋される。でも、ときには虚無感と孤独を覚え、子どもたちを寝かしつけると、家族に尽くす以外の自分って存在するのかしら? と考えたりするのだ。
夫人は子どもがみんな学校に上がったら、事業をやりたいなどとも考える。スカイ島には病院がないから、病院経営を手がけたい。清潔な牛乳を各家庭に配達するために酪農業もやりたい。名のある学者と結婚して子どもを育てながら、恋心も忘れず、美貌で夫をいつもドキドキさせ、五十代にしてキャリアパスをつくっていきたいと夢見るラムジー夫人。今なら、女性雑誌で憧れの的になっていそうだ。
(こうのす・ゆきこ 翻訳家)
著者プロフィール
ヴァージニア・ウルフ
Woolf,Virginia
(1882-1941)英国ロンドン生れ。父は著名な文芸批評家レズリー・スティーヴン。はやくから「ブルームズベリー・グループ」という知識人のグループを形成し、自らは文学を志す。1915年、最初の長篇小説『船出』でデビューを果たし、『ジェイコブの部屋』や『ダロウェイ夫人』以後、実験的な手法によって文学の可能性を切り開く。主著『灯台へ』『オーランドー』のほか、女性の地位向上を訴えた『自分ひとりの部屋』などのエッセイも遺した。
鴻巣友季子
コウノス・ユキコ
1963年、東京生れ。英米文学翻訳家。主な訳書にエミリー・ブロンテ『嵐が丘』、クッツェー『恥辱』、ウルフ『灯台へ』など。著書に『全身翻訳家』、『熟成する物語たち』。