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夏の闇 直筆原稿縮刷版

開高健/著

3,520円(税込)

発売日:2010/05/31

  • 書籍

いま生まれたばかりの小説の息づかいが聞こえる……。

発表以来、世代を越えて読み継がれてきた名篇の肉筆原稿408枚を完全収載。人なつこさと繊細さを兼ね備えた書字の列なりから、作者自ら“第二の処女作”と呼んだ作品に掛ける意志と情熱が、男と女の間に潜む闇を描く文体のリズムとなって浮かびあがる。創作の現場に立ち会うのにも似た、かつてない読書体験の喜びに満ちた408頁。

書誌情報

読み仮名 ナツノヤミジキヒツゲンコウシュクサツバン
発行形態 書籍
判型 四六判変型
頁数 432ページ
ISBN 978-4-10-304909-8
C-CODE 0093
ジャンル エッセー・随筆、文学賞受賞作家
定価 3,520円

書評

夏の闇との一夜

原田宗典

 5月某日、私は矢来町の新潮クラブに入った。通された部屋は一階の和室、通称“開高健の間”である。
 夕方から小雨が降り出していた。
 ひとまず煙草に火を点けて、がらんとした室内を見るともなしに眺めやる。実に何とも不思議な心持ちだった。
 開高健の傑作『夏の闇』は、この部屋で生まれた。昭和46年(1971)というから、もう四十年近くも前のことだ。この作品を“第二の処女作”にしようとした作者の意気ごみ、集中力のすさまじさは、一つの伝説として語りつがれている。そして今、同じ部屋に自分はいて、『夏の闇』を直筆原稿で読もうとしている。どういうわけかこういうことになってしまった不思議を、私はただ驚いていた。
 私は煙草を消し、ぶ厚いゲラの束をどさりと机上に置いた。一頁めには、作者四十歳の肖像写真が載っている。若くもなく、老いてもいない開高健は、実に作家らしい、いい面構えをしている。
「作家が三年かけて書いたものを、読者は二時間で読んでしまいますからねェ」
 以前聴いた講演CDの中で、ボヤいていた開高健の声が、ふと甦ってくる。
「小説を書くにあたって、ずいぶん苦しい思いをさせられたんですが……年をとるにしたがって、小説は難しくなっているような気もします。一番苦しめられたのは、言葉の問題です……」
『夏の闇』刊行直後の講演で、開高健は関西訛りのイントネーションで、そう語っていた。長らくルポルタージュの仕事をして、ノン・フィクションの文章ばかり書いてきたので、フィクションの言葉が出てこない。それを書こうとして七転八倒の苦しさを味わった、というのである。
 夜半、雨音が繁くなった。
 私は、書き始める前と同じように、直筆原稿をなかなか読み始めようとしなかった。長すぎる時間をかけて十分に自分を焦らした後、何げなく読み始めた。
 一枚め、有名な書き出しの一行を読むなり、胸の奥が甘酸っぱく疼いた。二十数年前、初めて『夏の闇』を読んだ時に感じたのと、同じ疼きだ。
〈その頃も旅をしていた。〉
 そっけないようでいて、実は含みのある、見事な書き出しである。さいしょの一文のそっけなさは、もちろん意図的なもので、以降の各章に共通してみられる。
〈雨はまだ何日かつづいた。〉
〈裏通りは谷のようでもあり、溝のようでもある。〉
〈一週間ほどしてから移った。〉
〈甘くて、静かで、柔らかい。〉
〈また、眠くなってきた。〉
 このように各章とも、ぶっきらぼうな一文から始まって、その後に人なつこい、饒舌なリズムの文章が続く。なるほど、この“フィクションの文体”を見つけるまでに味わったであろう生みの苦しみは、察してあまりあるものがある。ましてや直筆の生原稿で読むと、書いたり消したりの跡が明らかなために、作家の苦悩が生々しく伝わってくる。
〈……これまで書くことを禁じてきたいくつかのことをいっさい解禁してペンを進めた。これを“第二の処女作”とする気持で、四十歳のにがい記念として書いた。この作品で私は変った。〉
 最後の著者の言葉を読み終えて、ふと顔を上げると、夜は明けていた。雨はいつのまにか上がって、朝陽がさしていた。もう一度原稿をめくり返すと、最後の一行は、こうある。
〈明日の朝、十時だ。〉
 耳元で、囁かれたような気がした。

(はらだ・むねのり 作家)
波 2010年7月号より
単行本刊行時掲載

著者プロフィール

開高健

カイコウ・タケシ

(1930-1989)大阪市生れ。大阪市立大卒。1958(昭和33)年、「裸の王様」で芥川賞を受賞して以来、「日本三文オペラ」「流亡記」など、次々に話題作を発表。1960年代になってからは、しばしばヴェトナムの戦場に赴く。その経験は「輝ける闇」「夏の闇」などに色濃く影を落としている。1978年、「玉、砕ける」で川端康成賞、1981年、一連のルポルタージュ文学により菊池寛賞、1986年、自伝的長編「耳の物語」で日本文学大賞を受けるなど、受賞多数。『開高健全集』全22巻(新潮社刊)。

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