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マイクロバス

小野正嗣/著

1,760円(税込)

発売日:2008/07/31

  • 書籍
  • 電子書籍あり

すべてが土地の思惑通りに進んでいた――。圧倒的な幻視力と豊饒な語りが織り成す、土地と人間の、記憶の物語。

口のきけない青年は、入り組んだ海岸線に沿って、ただバスを走らせ続けることしかできなかった。まるで、世界を縫い合わせるかのように――。芥川賞候補となった表題作と、自身が人魚であると信じる老婆の物語「人魚の唄」を収録。寂れた漁村が特異な輝きを帯びる、神話的な二篇。三島賞受賞作家、渾身の野心作。

目次
人魚の唄
マイクロバス

書誌情報

読み仮名 マイクロバス
雑誌から生まれた本 新潮から生まれた本
発行形態 書籍、電子書籍
判型 四六判
頁数 224ページ
ISBN 978-4-10-309071-7
C-CODE 0093
ジャンル 文芸作品、文学賞受賞作家
定価 1,760円
電子書籍 価格 1,408円
電子書籍 配信開始日 2015/06/12

書評

波 2008年9月号より 難解さの輝き

佐伯一麦

数年前、作者の故郷だという、そして本書の表題作の「マイクロバス」と、併録された「人魚の唄」との、双方の舞台となっていると覚しい、九州地方の大分と宮崎を結ぶ海岸沿いの国道388号線を車に乗せられて走ったことがある。カーブが多く、ガードレールもない一車線幅の道が続き、アスファルトが剥がれて荒れた箇所もあって、大型車は通行困難である標識が立っていた。
そのときに、海の見える方角がしょっちゅう変わるのと、道路標識が、上が南で下が北というように、普通と反対の記述がされていることがあるために、方向感覚がまるでつかめなくなってしまい、土地勘が狂いっ放しで困ったことがあった。本書は、そんな複雑に入り組んだ海岸線を持つ土地が内包している、錯綜した記憶や時間、人物を描いて、難解ながらも、その難解さが魅惑的な輝きとなっている快作である。
「マイクロバス」の主人公の信男は、知的障害があるらしい三十五歳の男だが、マイクロバスの運転だけはうまく、毎日、遠い親戚であるヨシノ婆を乗せて、国道388号線を走る。彼は、言葉を欠いていて、さらに感情表現にも欠けている、いわゆるボディーランゲージのようなものも通じないというような存在である。これは、日本語という単一言語の中で、作者の専門の、意思疎通ができない者同志の間で自然につくり上げられた言語であるクレオール的な表現を成り立たせようとするための設定なのだろう。
コミュニケーション不全が、現在の若手の小説家たちの大きなテーマとなっているが、小野正嗣は本作において、その中でも最も徹底的に、このテーマを深めている感がある。信男がマイクロバスを走らせる行為は、幼少期の途切れ途切れの記憶を辿り、過去と現在を行きつ戻りつしながら自己と他者とが入り混じった時空間を生きていることを意味しているかのようだ。そして、信男が幼いときに父親に連れられて、ヨシノ婆の住むところの近くまでカブトムシの幼虫をとりに来たというエピソードが、ライトモチーフのように繰り返される。さらに、言葉を発さず、感情もあらわにしない息子に対していらだった父親に、豚の群れに押し込まれて蹂躙されたり、母親に入水心中をはかられたりといった出来事があったらしいとも暗示される一方で、信男と海に入ろうとしたのは母親ではなくてヨシノ婆だったかもしれない、とも語られる。
幾つもの異なった事実や意味を含有するマジックリアリズムの語りも、小野正嗣の小説の特徴だが、故郷の土地を触媒とした想像力とその語りは、『にぎやかな湾に背負われた船』から、さらに強度を増している。
「信男のマイクロバスは海岸線がばらばらにほどけてしまわないように集落と集落を縫い合わせているのだった」
難解さの中に現れるこのようなフレーズには、固有の倫理の発生に立ち会っているような稀有な感触がある。そして、何を考えているかわからない、カタツムリの角にさえ手を伸ばせないパッシーヴな存在である信男に、土地に選ばれたものとしての聖性さえ宿るのだ。
「娘は今日も、地軸がねじ曲がり、方位方角が意味を失い、遠近が転倒し、音たちが姿を隠し、時間が至るところで淀み逆流しさえする世界を、ひとりぼっちで歩いているだろう。そこにはいないじいじいを見つめ、じいじいではないじいじいに語りかけていることだろう」
これは本書からの引用ではない。十二年前に、新潮学生小説コンクールの選考の場で、私が初めて小野正嗣の作品と出会った「ばあばあ・さる・じいじい」という未発表作にある一節である。古証文を持ち出して、と誹られるのを承知で引いたのは、この作者の独特の世界観が、長い時間をかけて、他の言葉には置き換えられない明快な難解さの表現へと結実した証しを本書に見ることができたことが、私にとっては何よりもの喜びであったからである。

(さえき・かずみ 作家)

著者プロフィール

小野正嗣

オノ・マサツグ

1970年、大分県生まれ。小説家、仏語文学研究者。「水に埋もれる墓」で朝日新人文学賞、『にぎやかな湾に背負われた船』で三島由紀夫賞、『九年前の祈り』で芥川龍之介賞受賞。訳書にV・S・ナイポール『ミゲル・ストリート』(小沢自然との共訳)、ポール・ニザン「アデン、アラビア」ほか。

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