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聖痕

筒井康隆/著

1,540円(税込)

発売日:2013/05/31

  • 書籍

あまりの美貌故に性器を切り取られた少年は、みなの煩悩の救い主となるのか?

1973年、5歳の葉月貴夫は性器を切り取られた。しかし尚も美しく健やかに成長した彼は、周囲の人びとのさまざまな欲望を惹き起こしていく――。古今の日本語の贅を縦横に駆使し、小説言語の枠を大幅に広げながら、文学史上最も美しい主人公の数奇な人生を追う。朝日新聞連載中から騒然たる話題を振りまいた問題作刊行。

書誌情報

読み仮名 セイコン
発行形態 書籍
判型 四六判変型
頁数 264ページ
ISBN 978-4-10-314530-1
C-CODE 0093
ジャンル 文芸作品
定価 1,540円

書評

最初から

川上弘美

 本書『聖痕』は、朝日新聞の朝刊に連載された。二十年ぶりの筒井康隆の新聞連載なので、始まる前からドキドキしていたが、連載が始まったらドキドキどころではなくなった。なにしろ、連載が始まって四日めに、たぐいまれなる美少年である主人公の陰茎と陰嚢がきりとられてしまうのである。
 いったいこの先どうなるのかと、新聞の配達を待ちかねた。最初のうちは、筋だてを追う興奮で読んだ。そのうちに、筋だてではないところにも興奮するようになった。
 たとえば、こんな文章。
「実家にても銀座にてもひとつ娘なる瑠璃が振懸(ふりかか)りは中学にても引き勝れ、日並べて高校生となりてもその煌(きら)らかなること類を見ず。高校の同級生や先輩はもとより附近の男たちも気清(けきよ)くきらぎらしい瑠璃が姿を見ればたちどころに霧の迷いにぐなつき狂惑し一向(ひとむき)に懸け懸けしき様を示すものの瑠璃には褻事(けごと)、つれなし顔の際高(きわだか)さ。兄(せ)なな兄なな兄(せ)ろ兄ろと慕う男と言えばただ兄人の貴夫と登希夫のみなり」
 こういう文章が、通常の日本語文の中の、要所要所にある。古い日本語を使った文章なので、一読、わかりにくく感じるかもしれないが、わかりにくい言葉にはすべて同じ見開きページにちゃんと注釈があり、ぜんたいはたいそう読みやすい。
 不思議なのは、古い言葉を使った文語的な文章が、現代の口語文のすぐ次にあらわれ、そしてまたすぐに現代文に戻っていっても、まったく違和感がないことだ。それどころか、普通の日本語の言葉の中に「兄なな兄なな兄ろ兄ろ」などと出てくると、もしかするとこれは筒井康隆が作りだした筒井語なのではないかと思われてさえ来、そのうちに、これはたしかに筒井語なのだという確信に変わり、あたかも現代の言葉がみずからジャズのフリーセッションのごときものをおこなって、元の楽譜にはない古い言葉をつくりだして演奏してくれているような心もちになってくるのである。
 そうやって高揚した気分になった後に、念のために文中の古い言葉を調べてみると、あれあれ不思議、それらはやはりほんものの古い言葉なのであって、まるで狐につままれた心地である(でも、きっと一つか二つくらいは、筒井康隆が捏造した筒井語がまじっていると、わたしは秘かにふんでいるのだけれど)。
 興奮するところは、ほかにいくつもある。それをどう表現したらいいのか、迷う。あえて言葉にするなら、この小説がおこなっている「時間」というものの見せかた、だろうか。生殖機能をなくした美しい天使のごとき少年と、少年の家族を中心とする物語であるから、そこにはさまざまな年齢の者が登場する。一徹で厳しい祖父、怜悧な母、破天荒な弟、トリックスターのような大叔父。それらの人物たちが、物語の風景の中にあらわれてはまた地平線の彼方に消え、ふたたびあらわれては消えてゆくさまを、本書のように描いた小説を、見たことがない。物語は、滑るようにスムーズに語られてゆく。それなのに、登場人物たち個々人のそれぞれの歴史は、粘りづよくあきらかに存在する。語られている部分も、語られていない部分も、共に。そして最後には、それらの歴史どうしがからまりあい及ぼしあいして、大きな主題の流れへと統合されてゆくのである。
 最後にあらわれる主題は、切実で重い。わたしたち人間は、これからどうやって生きてゆけばいいのか。現実とリンクするように、作中に東日本大震災があらわれ、主題は静かに展開される。今でなければ書かれえなかった展開であると同時に、そこに普遍的でゆるぎないものを感じるのは、なぜなのだろう。本書の最終章を読んで、五十年前に発表された同じ作者の『睡魔のいる夏』という掌篇を、わたしはまざまざと思い出した。構成も、内容も、長さも、モチーフも、まったく違う物語なのに。どちらも、こよなく美しく、冷厳で、かつ豊穣で、そうか筒井康隆は、最初から知っていたのだなと、わたしは思ったのだ。いったい何を、筒井康隆は知っていたのだろう。そのことを知るために、わたしたちは何度でも筒井康隆の小説を読むのである。

(かわかみ・ひろみ 作家)

インタビュー/対談/エッセイ

文学史上最も美しい主人公の運命

筒井康隆大森望

(インタビュアー・大森 望)

筒井 わざわざ神戸までようこそお出で下さいました。
大森 いえいえ、多くの筒井ファンが巡礼のように訪れた〈聖地〉である神戸のご自宅に伺えてたいへん光栄です。さて、朝日新聞連載中から、一体この先どうなるのかと毎日固唾を呑んで行方を見守ってきた『聖痕』がいよいよ単行本化されます。連載が始まったのは昨年七月ですが、まもなく角川書店で単行本化されるウェブ日記「偽文士日碌」によると、「ほぼ五年がかりの大作」とのことですから、二〇〇七年にはすでに着手されていたわけですね。
筒井 着手したのはその頃ですが、古語や枕詞の収集、整理も並行してやっていました。最初のうち枕詞や古語があまり出てこないのはそのためです。まあ、最初から古語責めにすると読者が投げ出してしまいますからね(笑)。
大森 あの画期的な文体については、のちほどあらためてお訊ねするとして、まずは物語について伺います。この小説は、主人公である葉月貴夫がまだ小学校に上がる前、あまりの美しさ故に何者かに襲われて性器を切除されるという衝撃的なシーンで幕を開けます。その傷跡がすなわち題名の『聖痕』ですが、「性器を持たない主人公の人生を描く」という発想はどこから生まれたのでしょう?
筒井 これははっきりしていて、ぼくが歳をとったせいです。性欲がなくなってくると、働く意欲がなくなって死ぬのも怖くなくなるって言われてましたからね。だけどちっともそんなことはない。これなら最初から性欲がなくても人間、いけるんじゃないかと思ってね(笑)。で、そういう人間ならどんな生涯を送るのかと考えました。むろん貴夫と違ってぼくには今でも女性への興味はありますがね(笑)。
大森 作者はまだまだ枯れていない、と。紙幅があれば、そのあたりもじっくりお聞きしたいところです(笑)。本題にもどると、連載開始前の朝日新聞のインタヴューで、筒井さんは、「本来の意味でのゾラ的実験」をやると語っています。〈小説を科学的実験のように書くことができる〉と喝破したゾラのひそみに倣って、『聖痕』では、〈性欲がない〉という条件におかれた主人公がどんなふうに成長していくかを突き詰めていかれたわけですね。こういう実験にトライしようと考えたきっかけなど、もう少し詳しく教えて下さい。
筒井 ゾラみたいに、どんな社会で育つとどういう人間になっていくかという実験ではなくて、どんな欠陥があるとどんな人間になっていくかがひとつの実験だったんだけど、もうひとつ、年代記風の小説というのを一度も書いたことがなかったので、やってみたかったんです。だけどこれはぼく向きじゃなかった。年譜も作ったけど、間違いだらけで、えらい苦労をしました。だいたい年代の計算というのができない人間なんですよ。だからその年に起った事件と人物の年齢が合わなくて、しかたなしにカットしたエピソードもあります。
大森 それはもったいない。そういうアウトテイクもぜひ読みたいですね。作中の記述からすると、貴夫が生まれたのは一九六八年ごろ。貴夫の成長につれて、フィンガー5の「個人授業」や「仮面ライダー」など、当時の流行歌やテレビ番組がいくつか登場します。新聞連載中に挿絵を担当されたご長男の画家筒井伸輔氏は、貴夫と同じく六八年生まれですが、ご自身の子育ての記憶が反映された部分もあるんでしょうか。
筒井 当然あります。さっきも言いましたが、年代の計算がうまくないので、息子と同い年にした方がやりやすかったんです(笑)。
大森 そして七三年ごろ、貴夫が性器を切り取られるという事件が起きる。去勢というと、天才少年歌手を主人公にしたキングズリイ・エイミスの『去勢』がすぐ思い浮かぶんですが、貴夫はカストラートでもなく、かといって中国の宦官のように権力欲に燃えるわけでもありませんね。最初の方に幼稚園の劇で天使の役を与えられる場面があるように、貴夫は性を欠くことで聖なる者となったようにも見えます。聖と俗の二分法で言えば、俗を追究した『俗物図鑑』に対して、今回は聖を追究したと言えるのでしょうか。もっとも、本書における聖は、俗と拮抗したり排除し合ったりするのではなく、どこか俗を赦して、反社会的でさえあります。
筒井 だから「神の死」が診断されたあとの「聖」と「俗」との対立とか連関とかがひとつのテーマになってくるんですが、聖というのはキリストがそうだったように、その時代においては反社会的なんです。この辺はドタバタにしてしまうと、キリストがハリウッドに出現するアプトン・シンクレアの『人われを大工と呼ぶ』みたいなものになったかも知れませんね。売春に近いことも許容して周囲に女たちを置くというのは、今から考えるとどうやらバルガス=リョサの『パンタレオン大尉と女たち』に影響されていたようです。
大森 従軍慰安婦部隊の設立を命じられた大尉が有能すぎて大変なことになるコメディですね。それは思い至りませんでした。そういう性に関わる話の一方、美食という、ある種の贅沢がテーマになる点では、小説のタイプはぜんぜん違いますが、かつての『フェミニズム殺人事件』を連想しました。
筒井 『フェミニズム殺人事件』を書いた頃は今ほど美食にこだわってはいなかったんです。あの「偽文士日碌」でもおわかりのように、今では、こんな旨いもの、一生食べない人がいるんだなあと思うと、もう可哀想で可哀想でね(笑)。
大森 読みながら、ぼくも自分の食生活の貧しさを思い知らされて、自分が可哀想になりました(笑)。もうひとつ思い知らされたのが古典の素養の乏しさです。最初に触れられたように、『聖痕』では、いまではほとんど廃れてしまった枕詞など古語がふんだんに多用され、それに注釈が付されていることが文体上の大きな特徴ですが、もう知らない言葉だらけで。「新聞連載の漫画の少女のようにののめくことはまったくなくて」の「ののめく」など、筒井さんの造語に違いないと思っていたら、調べてみると実在の言葉だった(笑)。
筒井 あれはみんな驚いたようです。他にもいくつかありますが、それらしい造語とごっちゃにして読者を惑わせたりね(笑)。注釈も、最後の方はデリダの本みたいに、本文が見開きページの最初の二行だけで、あと全部注釈(笑)、みたいなこともしたかったんだけど、さすがにそこまではね。
大森 ウェブ上「笑犬楼大通り」では『聖痕』の副産物として「枕詞逆引辞典」が公開されています。言葉へのフェティッシュなまでの愛を感じますが、小辞典をひとつ作ってしまうという途方もない労力に驚きました。実際に作中で使用する古語はどのようにして選ばれたのでしょうか。読みやすさへの配慮もずいぶんされたと思います。
筒井 古典文学の知識のまったくない人間ですから、うろ覚えの古語を古語辞典で確かめながら書いていきました。さいわい昔の歌舞伎全集を読破していたので、そこに出てくる魅力的な古語はずいぶん使っていると思います。「ちと勧(ちと勧進)」とかね。ところがこっちの方は、思い入れとか思い込みとかがあって、解釈が間違いだらけ、これも直すのに苦労しました(笑)。でも、いちいち注釈を見ないで流して読むだけでもストーリイは追えるようにして書いています。

注意! 以後、若干のネタばれを含んでいます。

大森 貴夫の物語にこの文体を選ばれた理由は何でしょう? 各章は文語体での語りで始まりますが、例えば「わが聖痕」と言うのですから貴夫の一人称ですね。あれはどの時代に誰に向かって語っているのか、実に効果的です。
筒井 小説では禁じ手とされている、同じ段落の中の語り手の移動や視点の移動や、あらゆることをやってみて、自分の文章力を試してみたかったんです。最初は擬古文による貴夫の一人称ですが、いつの時代の発言なのかは不明にしました。次の段落では赤ん坊が怒っていますが、これだってとても赤ん坊のことばとは思えないわけで、このあたりはヘンリー・ジェイムズに倣っています。あと、会話に鍵括弧をつけないとか、語り手や複数の登場人物のことばが同じ段落であらわれる、いわゆる自由間接文体とか、反復や大勢の意識の羅列も使っています。とにかく自由自在に書きたかった。読者が混乱しないのならいいじゃないかと思ったからですが、さほど読みにくくはなっていなかったので安心しました。ただ、貴夫が犯人を許したのを、作者が許したと勘違いして怒った人もいましたけどね(笑)。
大森 『聖痕』は震災以前から書き始められていた小説ですが、終盤の展開にはやはり震災が影響を与えているようにも見えます。また、主人公が大きな悲劇に見舞われる体験から出発し、それ以降の人生を描く点で、村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』とも微妙にシンクロしているようにも思えました。『多崎つくる』と同じく、『聖痕』が半ば否応なく〈震災以後〉の小説として読まれることについては、どのようにお考えでしょうか。
筒井 最後、犯人とどのように邂逅させようかと考えていたんですが、震災があったのを奇貨として、あざといとは知りつつも(笑)被災地で対面させることにしました。こういう発言は不謹慎だと叱られてもいいんだけど、舞台背景としては申し分なかったと思いますね。
大森 小説のために使えるものはなんでも使うと。すばらしい姿勢だと思います。小説の結末近くに、ある登場人物が人類の未来について力強く語る部分があります。この「突拍子もない長広舌」は、作品全体のトーンとはやや異質にも見えますが、これは筒井さんご自身の考えをある程度、もしくはかなり大きく反映したものでしょうか。
筒井 これはぼく自身の未来予測です。人類の未来に関しては、倉本聰さんも同じご意見をお持ちのようですね。この考え方は最近書いたライトノベルの『ビアンカ・オーバースタディ』のラスト近い部分にも書いています。この長広舌はふたつある鍵括弧のうちのひとつで、それによって特に「ここは作者の意見」という含みを持たせています。
大森 やはり連載前のインタヴューでは、「最後の長編、ということになるでしょうね」と語っておられますが、書き終えた今でもその気持ちに変わりはないですか? 『聖痕』の読者としては、この物語の続きを――とくに少女・瑠璃の行く先を――夢想してしまうのですが、『聖痕』の続編(未来編)が誕生する可能性は、万が一にもないでしょうか?
筒井 これはまあ、インタヴューの最後にいつも出てくるインタヴューアーのリップサーヴィスとして受け止め、そんなことは万が一にもあり得ないとだけ申し上げておきましょう(笑)。

(つつい・やすたか 作家)
波 2013年6月号より

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著者プロフィール

筒井康隆

ツツイ・ヤスタカ

1934(昭和9)年、大阪市生れ。同志社大学卒。1960年、弟3人とSF同人誌〈NULL〉を創刊。この雑誌が江戸川乱歩に認められ「お助け」が〈宝石〉に転載される。1965年、処女作品集『東海道戦争』を刊行。1981年、『虚人たち』で泉鏡花文学賞、1987年、『夢の木坂分岐点』で谷崎潤一郎賞、1989(平成元)年、「ヨッパ谷への降下」で川端康成文学賞、1992年、『朝のガスパール』で日本SF大賞をそれぞれ受賞。1996年12月、3年3カ月に及んだ断筆を解除。1997年、パゾリーニ賞受賞。2000年、『わたしのグランパ』で読売文学賞を受賞。2002年、紫綬褒章受章。2010年、菊池寛賞受賞。2017年、『モナドの領域』で毎日芸術賞を受賞。他に『家族八景』『敵』『ダンシング・ヴァニティ』『アホの壁』『現代語裏辞典』『聖痕』『世界はゴ冗談』『ジャックポット』等著書多数。

筒井康隆ホームページ (外部リンク)

判型違い(文庫)

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