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去年、本能寺で

円城塔/著

2,090円(税込)

発売日:2025/05/29

  • 書籍
  • 電子書籍あり

戦乱の世にシンギュラリティ到来!? 歴史とSFが交差する珠玉の全11篇。

アシカガ・ショーグネイト崩壊後、AIは長足の進歩を遂げる。軍事AIが合戦を司り、文事AIが詩歌、楽曲の生成に勤しむ世界で、つわものたちは何を思惟するのか? 歴史小説のはずが、ミステリあり、スペースロマンあり、アイドル活劇あり、異世界転生まであり! 何でもあり! 円城ワールド全開の戦乱ラプソディー!

目次

幽齋闕疑抄
タムラマロ・ザ・ブラック
三人道三
存在しなかった旧人類の記録
実朝の首
冥王の宴
宣長の仮想都市
天使とゼス王
八幡のくじ
偶像
去年、本能寺で

書誌情報

読み仮名 キョネンホンノウジデ
装幀 山口晃 當世おばか合戦─おばか軍本陣圖 2001 カンヴァスに油彩、水彩 185×76cm/装画、高橋龍太郎コレクション/装画所蔵、長塚秀人/装画撮影、(C)YAMAGUCHI Akira, Courtesy of Mizuma Art Gallery/装画、新潮社装幀室/装幀
雑誌から生まれた本 新潮から生まれた本
発行形態 書籍、電子書籍
判型 四六判変型
頁数 320ページ
ISBN 978-4-10-331163-8
C-CODE 0093
ジャンル 文芸作品
定価 2,090円
電子書籍 価格 2,090円
電子書籍 配信開始日 2025/05/29

書評

圧縮された歴史を取り出して

柴田勝家

 今、この原稿を書いているのは柴田勝家(作家)である。
 どうして(作家)をつけなければいけないかと言えば、当然、柴田勝家(武将)がいるからだ。ウィキペディアの見出しでも柴田勝家(作家)となっている。曖昧さ回避のページに飛べば他の「柴田勝家」もあるが、そこでは各種ゲームに登場する柴田勝家(武将)を並べているだけである。コイツだけがおかしい。しかし、柴田勝家として存在してしまっているから仕方ない。
 もちろん然るべき団体から怒られたら改名やむなしだが、作家の方の柴田勝家は未だに活動を続けている。デビュー直後に福井県庁の方々と会ったが、果たして許されたか、あまり調子に乗るなよ、のメッセージだったのかは判然としない。
 ともかくも柴田勝家(作家)が活動を続け、万が一にも後世に名が残ることになると大変だ。数百年後には二人いる柴田勝家が混同され、受験生を大いに悩ますかもしれない。とはいえ伊達政宗も9代目と17代目が同名であるし、氏家卜全と漫画家の氏家ト全氏や、羽柴秀吉と羽柴誠三秀吉氏の例もある。
 何が言いたいかと言えば、歴史というのは積み重ねれば積み重ねるほどに、同姓同名や似た業績の人物が現れ、後世で混同され、それぞれの逸話が合体することもあるということ。歴史は常に圧縮され続け、過去のものほど参照すべきデータが破損してしまうのだ。
 それは『去年、本能寺で』の中で語られる展開と通じる。
 各短編で語られている内容は、一般的な歴史小説の枠組みにない。まず歴史的な過去として、その当時を生きる登場人物がいる。しかし、それに現代の視座と、未来からの観測が入り交じる。ようは今現在で「史実とされているもの」を、登場人物が「史実とされている」と認識するような場面がある。だから、歴史小説であるが現代小説であり、SF小説でもある。
 または歴史上に現れる異説や、研究によって新たに生まれた学説も入り込む。たとえば戦国大名たる斎藤道三の業績が、実は二代にわたって作られたものだという新しく一般化した説が物語に取り込まれている。逆に明治期に語られた親鸞非実在説や、日本人が知らなかった坂上田村麻呂黒人説など、現代の視点から見ると奇妙な学説すら、それぞれの短編で意味を与えられて現れる。
 あるいは史実として語られていることにも意味が与えられる。源実朝が巨大な唐船を作ったことも、本居宣長が架空都市の地図を作ったことも、足利義教がくじで将軍に選ばれたこともそうだ。もしくは細川幽斎がAIであったことも、石器時代の日本で探偵と助手が殺人事件を調べていたことも、最初の生命が現れた冥王代で本能寺に思いを馳せることも、本邦初のキリスト教徒たるヤジロウが山椒太夫の説話に入り込むことも、語り得ない史実として存在している。
 史実を事実とするのは、まず一次史料にそう書かれているからだ。加えて新たな学説や俗説もからんで、社会一般で受け入れられる「歴史」が現れる。そこに当人の思いや認識は関係ない。関係なくなってしまう、ということを登場人物たちは理解し、抗い、また諦めていく。本作のトリを飾る「去年、本能寺で」では、信長公が後世で様々に語られることを受け入れている。少女になることすら「是非もなし」である。
 この短編では信長公がいかに後世で飾られたかを語っている。「信長」としての役目を果たせ、本能寺の変に立ち会え、という期待すら背負わせる。歴史小説を読む際に、読者が自然と抱く感情を当の信長公は理解している。なんと面白い転倒だろうか。
 過去は圧縮され続け、歴史上の人物は業績を参照する文字列になり、そこに個人の感情が入り込む余地はない。その悲しみを慰撫するように、人々は伝説を作って個人としての像を作る。物語の中で人間らしく暮らしてくださいませ、という具合だ。
 しかし、本作は別の手法で歴史上の人物に寄り添う。歴史の底で眠る個人を観測し、遠く未来で起こることを告げ、どう思いますかと尋ねる。教科書に書かれた文字列に人格を与え、一人の人間として問いかけてくれている、まさに無二の小説だ。
 時に、本稿を書いているとどうにも不思議な気分になる。文中には柴田勝家(武将)からの視点が挟まれている気もする。果たして、彼もまた過去から柴田勝家(作家)を見ているのだろうか。
 ならばワシは、今からでも謝る準備をしておこう。

(しばた・かついえ 作家)

波 2025年6月号より
単行本刊行時掲載

インタビュー/対談/エッセイ

AIには吹けない法螺の吹き方

円城塔

「ずっと信長を書きたかった」――そう語る円城塔さんが満を持して贈る『去年、本能寺で』。織田信長、明智光秀、斎藤道三、細川幽斎……。歴史小説を彩る武将たちを描きながら、摩訶不思議な時空へと読者を誘う本作の魅力に迫ります。

――『去年、本能寺で』は日本史に題材をとった全11編の短編集です。個々のアイデアはSF的ですが、語り口は歴史小説のような趣があります。どのような発想でお書きになられたのでしょうか。

 なんでしょうね。ジャンルは難しいのですが、素朴に見たまま、思ったままを調べながら書いた、というところでしょうか。史料には、素直に読むとこう解釈できるだろうという箇所があります。また、現代の読者に伝えるには、このような比喩が効果的だろうと思う箇所もあります。たとえば「幽斎闕疑抄」では戦国時代の武人であり、当代随一の文化人である細川幽斎を扱いました。彼は――彼というほど親しくはないのですが――実にメカっぽい。当時の文化の脈絡が結集したマシーンのように思える。和歌も極めて儀礼的で形式に則って詠み、武術もまた型が第一である。料理においても、人間味のない包丁で、魚をこう配置する、こうやって切る、と作法ばかりが語られる。それをそのまま書こうとした場合、AIだった、とすると収まりがよく感じられる。

――最初に戦国時代にAIを登場させようというアイデアがあったのではなく、細川幽斎のことを調べるうちにAIと解釈すると腑に落ちるものがあったというわけですね。

 そうですね。史料を読んでいくと不思議に感じることが出てきて、それを掘り下げていくと、また新たな謎が見つかります。その謎を素直に、その不思議さのままに書いていくと、さらに変わった展開になっていく。そういった積み重ねで出来上がったものが、本作『去年、本能寺で』ということになるかと思います。

――作中では北米で流布された珍説「坂上田村麻呂黒人説」や歴史学で新たな定説となった「斎藤道三二代説」などを取り上げていらっしゃいます。

 どちらも長年気になっていた題材でした。坂上田村麻呂の場合は、黒人解放運動の文脈で、歴史上の著名な黒人を顕彰する動きに巻き込まれ、いつの間にか黒人とされてしまった。珍説として笑い飛ばすのは簡単ですが、アカデミックな研究にも影響を及ぼし、日本通として知られる研究者のなかにも「坂上田村麻呂は黒人だった」と大真面目に主張する人がいる。昨年、「アサシンクリード シャドウズ」というゲームの発売が発表された際、織田信長に仕えた黒人「弥助」というキャラクターが物議を醸しましたが、そこでも「坂上田村麻呂黒人説」が再び注目を集めました。これは書いておかねばと思ったのです。
 また斎藤道三の国盗りについても、一代で成し遂げられたものではなく、父子二代にわたる事業だったというのが、すでに歴史学ではそういうことになって久しいのですが、依然として司馬遼太郎の『国盗り物語』のイメージが更新されないままです。新しい発見が登場すると、他分野への伝播に10年、一般社会への普及にさらに10年かかるといいますが、歴史についての認識にも同じことが言えるでしょう。道三を巡る認識のズレを、自分なりの方法で書くと「三人道三」になった。

――私も本作の原稿を読むまで、国盗りの事績は道三ひとりのものだと思っていました。司馬遼太郎が描いた道三の姿が強い印象を残していて、今でもそのイメージが一般に流通している気がします。

 司馬遼太郎の影響は、やはり絶大です。その歴史認識の是非はいったん措くとして、歴史は日々研究され、実証的に更新されていくものですから、それに従って日本史の描き方も変えていく必要がある。実際、司馬遼太郎の読者が学芸員に「司馬先生が書いていることと違うじゃないか」とバトルを挑むようなことも起きています。小説における日本史のアップデートは必須ですし、その書き方も含め、もっと風通しをよくしたいという思いがあります。本作の「タムラマロ・ザ・ブラック」では、「征夷大将軍」の語に「コマンダーインチーフオブジエクスピディショナリィフォースアゲインストザバーバリアンズ」とルビを振ってみたのですが、そうやって歴史小説の日本語をずらしていって、暗黙の約束ごとから自由になる書き方を模索しました。

――本作では、司馬遼太郎の作品の語り口を意識された箇所もあると伺っていますが、司馬作品はどのようなところが特徴的だと感じていますか。

 司馬の語り口は、実に魔術的です。普通、作家の主張は露骨に表れるか、こっそり仕込まれるかのどちらかですが、司馬の場合、独特の融合の仕方で表れる。これは日本語の特性である主語の省略可能性を巧みに利用した語り口であり、一種の魔術です。悪用すれば大変危険なことにもなりかねない。
 ポイントは、短い言葉でさらっと書くこと。長々と書かれると読者は疑問を持ちますが、短い表現だと自然と受け入れられ、真実として刷り込まれていく。たとえば、「日本人は健気だ」と書かれれば「そうかもしれない」と思ってしまう。でも、どんな民族だって健気なところはあるわけです。「アメリカ人は健気だ」「ヴァイキングは健気だ」と言っても、そうかもしれないと思うでしょう。これはほぼトートロジーに近いのです。

――司馬遼太郎に限らず、歴史小説というジャンルについては、どのような考えをお持ちでしょうか。

 日本の歴史小説は、恐竜のように巨大化しながら特殊な進化を遂げ、われわれ日本人が読むと面白いのですが、海外への輸出となると途端に難しくなります。一つの言葉、一つの名前に、様々な意味が詰め込まれているためです。無理に翻訳しようとすれば、注だらけの補足が必要になってしまいます。この「輸出のしづらさ」はずっと感じていて、何とか海外でも読める歴史ものを手渡せないかと考えています。とはいえ、本作はハイコンテクストな作品になってしまったので、翻訳は相当難しいでしょう。
 歴史小説の特殊性というと、作者と読者の間での暗黙の了解が多いところが挙げられるかと思います。歴史には数多くの空白がありますが、歴史学では史料なしに空白を埋めることは許されないという厳格な考え方をします。一方で、歴史小説にはなんとなく決まった空白の埋め方があって、それに従ってストーリーが進んでいきます。その埋め方は作者と読者の間で暗黙のうちに「こうだよね」と共有できるものがあるように思われますが、実際にはそんなものはないわけです。私としては、「こんな埋め方もできるのでは?」という提案として、様々な手法を試みました。

――歴史を題材にした小説を書くということについて、何か意識したことはありましたか?

 大きな話で言えば、フェイクとトゥルースの区別がつきにくい時代になりました。本作程度であれば、まだ偽史だと気づくでしょうが、事実と虚構の差異がより小さくなっていけば、次第に判別が難しくなっていく。そういう意味で、本作はフェイクに抗するための練習として読むこともできるかもしれません。「おかしいな」と思ったら調べてみることが大切です。ただし結構本当のことが書いてありますが――そんな対フェイクのためのトレーニングとして。
 また、いまはAIが何でもそれらしく説明してくれる時代です。歴史について尋ねても、一見するとそれらしく答えてくれるのですが、時々とんでもない法螺を吹くので、うるさい、と。そこで、もっとすごい法螺を吹こう、と。人間ならこんな法螺が吹けるぞ、お前には吹けまい、という気持ちです。もちろん、AIにも同じようなことはできるのでしょうが、それは誤生成として再教育の対象となる。本当の意味で法螺が吹けるのは人間だけかもしれません。

――『去年、本能寺で』というタイトルにふさわしく、本作には織田信長が随所に出てきます。信長のことを書きたい、と以前から思っていらしたのでしょうか。

円城塔

 信長については、デビュー当時からずっと気になっていて、「いつか書きたい」とよく口にしていました。信長というのは実に書きづらいんです。その名前を使った瞬間、そこに意味が生まれ、文脈が発生してしまう。たとえば、転校生の信長くんが登場するとしましょう。すると必然的に明智くんや浅井くんを登場させざるを得なくなる。一度そうなると、展開も自ずと決まってしまい、身動きが取れなくなる。織田信長を男性として描こうが女性として描こうが、若者として描こうが老人として描こうが、何か意味がまとわりついてくる。みんな信長を書くけれど、正面からは書きづらい。どこか搦め手から書く。そこはずっと気になっていましたし、恐らく信長としても思うところがあるだろうと。

――「暴君」や「時代の先駆者」など、「信長」という言葉に付随する様々な意味のうち、一部の要素のみを大きくしてキャラクターに仕立てている創作物は多くありますが、そうしたイメージを用いず、信長を一人の人間として描いた作品は、確かに少ないように思います。

 これほど遊ばれてきた歴史上の人物は他にいないでしょう。姫川榴弾さんの著作に『信長名鑑』(太田出版)という労作があります。ゲームや漫画などの創作作品に登場する様々な信長を、585作品・703名分リストアップしていますが、それでもなお網羅しきれない。織田家には家系図が残り、現在も子孫が存在するというのに、なぜか信長だけは自由に創作してよい存在として扱われている。そこは不思議ですね。

――実際に信長を書いてみて、いかがでしたか。

「本能寺の変」を経たのち、キャラクター化の荒波に揉まれる信長を描くという手法を選びましたが、信長もこれくらいは言いたいのではないかと。もう少し書き込んでもよかったかもしれませんが、ひとまず満足しています。

――最後に読者のみなさんへのメッセージをお願いします。

 いつも申し上げていることですが、笑っていただけたらと思います。読書というと、どうしても意味が分かるか分からないかという話になりがちですが、私としては面白いと感じていただけたら、それで十分です。

(えんじょう・とう)

波 2025年6月号より
単行本刊行時掲載

著者プロフィール

円城塔

エンジョウ・トウ

1972年生まれ。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。2007年「オブ・ザ・ベースボール」で第104回文學界新人賞を受賞してデビュー。2010年『烏有此譚』で第32回野間文芸新人賞、2012年「道化師の蝶」で第146回芥川龍之介賞、『屍者の帝国』(伊藤計劃との共著)で第33回日本SF大賞特別賞、2013年同作で第44回星雲賞日本長編部門、2017年「文字渦」で第43回川端康成文学賞、2019年『文字渦』で第39回日本SF大賞、2025年『コード・ブッダ 機械仏教史縁起』で第76回読売文学賞をそれぞれ受賞。他の作品に『ムーンシャイン』『プロローグ』『エピローグ』などがある。

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