渡辺崋山
2,860円(税込)
発売日:2007/03/23
- 書籍
今こそ知れ、荒れ狂う大海の脅威を。大海のむこうに広がる外つ国の営為を。
田原藩士として武士の本分を堅守しつつ、西洋文明の正確な理解に努め、瞠目すべき写実を独創した、徳川後期有数の画家。不遇な幼少期から非業の自刃に至るまで、維新という一大革命の前夜、その文化状況の危機を象徴するかのように、時代を先駆けた崋山の運命的な生涯を等身大に活写して、大著『明治天皇』の前史をなす評伝。
第一章 鎖国日本と蘭学
第二章 天皇、将軍よりも藩主
第三章 写実の独創
第四章 藩政改革の日々に
第五章 人間崋山
第六章 蛮学事始
第七章 井蛙管見を排す
第八章 海からの脅威
第九章 牢獄への道
第十章 海防と幕政批判
第十一章 田原蟄居
第十二章 崋山自刃
参考文献
さくいん
書誌情報
読み仮名 | ワタナベカザン |
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雑誌から生まれた本 | 新潮から生まれた本 |
発行形態 | 書籍 |
判型 | 四六判変型 |
頁数 | 392ページ |
ISBN | 978-4-10-331707-4 |
C-CODE | 0021 |
ジャンル | 日本史、アート・建築・デザイン |
定価 | 2,860円 |
インタビュー/対談/エッセイ
笑う肖像――渡辺崋山の魅力
終戦から五年が過ぎた一九五〇年のことでした。英国の外交官で日本学者だったジョージ・B・サンソム卿(私の母校コロンビア大学で教鞭もとり、大学に戦後まもなく併設された東アジア研究所の初代所長も務めました)の、ヨーロッパとアジアの文化的な相互影響を研究した論文『西欧世界と日本』が出版され、この本に、「一八六〇年代の革命運動(明治維新のことです)の立案者、指導者となったのは、彼のごとき型の人たちであった」という、彼すなわち渡辺崋山についての五ページほどの記述とともに、崋山の描いた数葉のスケッチが写真版で載せられていました。それらの絵は、天保十年(一八三九)の蛮社の獄で、幕政批判の廉により小伝馬町牢屋敷につながれた崋山が、田原蟄居(彼は江戸詰の田原藩士で、年寄役末席でした)の判決が下って釈放された後に、獄内での取調べの模様などを描いて「獄廷素描」と呼ばれている一連のスケッチでした。初めて目にした絵に何が描かれているのかよく分らぬまま、しかし絵そのものの印象は強く、鮮かに私の記憶に残りました。
その後、崋山の描いた肖像画に一つ、二つとふれる機会があるたびに、徳川後期屈指のこの画家への関心が増して行きました。入手可能とあればどんな絵でも買い集めたという蘭画から学びとった陰影法が、彼の肖像画の表情に深みのある立体感を与え、描かれた人物たちが、それぞれ一人々々の個性を持ちました。室町中期の十五世紀に墨斎の描いた「一休像」をほとんど唯一の例外として、崋山が登場するまでの日本には、彫像に表現されたあの驚くべき写実性とは対照的に、描かれた人物の個性をそのまま写し出そうとした肖像画は存在しなかった。画家は、見たことすらない人物を、思い込みや想像だけで描こうとするので、例えば「佐竹本三十六歌仙絵巻」に見られるように、歌人たちは髭の形が少し違う程度で、誰が誰なのかを絵自体から判別することは不可能です。まして女流歌人は後ろ姿でしか描かれません。明らかに崋山は、従来行われてきた肖像画のこうしたあり方に不満を感じていました。司馬江漢もやはり蘭画に学び、遠近法による巧みな風景画を残していますが、江漢には人物への興味が希薄でした。崋山は一人々々の人間に深い興味を抱き、ある人物の人間としての特徴、つまり個性を絵の中で再現するために肖像画を描きました。
文政四年(一八二一)、崋山は儒学の師である佐藤一斎の肖像画を描いています。意志強固な表情、眼は鋭く、師の風貌だけでなく、儒教に対する強い信念をも伝えることに成功した傑作ですが、崋山は絹本に描いた完成稿に先立ち、少なくとも十一枚にのぼる画稿を描きました。ある画稿には師の近寄りがたいような厳しさが、またある画稿には笑みを漂わせて和らいだ表情が、さらに別の画稿には哀愁を帯びた内気ささえも捉えられていて、師の極めて人間臭い実像に充分到達できたと得心するまで、繰返し対象を観察し続けた崋山の試行の跡が生々しく偲ばれます。一斎像完成にあたり、日本の先達たちの絵から学ぶべきことがなかったのは無論ですが、オランダから輸入された書物の複製写真版などで崋山が目にした可能性のある西洋絵画の中にも、一斎像に直接影響を与えたと思える肖像画を見つけることは出来ない。崋山は独力で彼自身の写実を創出したのだと考えるべきでしょう。渡辺家の苦しい家計を支えるため、時には小藩田原の財政のためにも、崋山は注文主の趣味に応じた売り絵を描かなければなりませんでした。しかし、一斎を描くことで大きな自信を得た肖像画だけは、たとえそれが注文による売り絵である場合にも、崋山自身のため、己れの写実への情熱を存分に発揮するために描いたのではなかったか。
徳川末期の絵画作品の中で唯一、国宝に指定されている「鷹見泉石像」は、天保八年(一八三七)の作です。下総国古河藩の家老だった泉石(彼は肖像が描かれたこの年、大塩平八郎の乱鎮圧の指揮をとりました)の、折烏帽子と素襖に刀を帯びた姿を、西洋絵画の陰影法と彩色法で捉えたこの肖像からは、描かれたのが身分の高い有力者であることはもちろん、熱心な蘭学者で、望遠鏡を手に天文学に夢中だったという泉石の、個性の強さまで伝わってくるようです。崋山はこの肖像を描く前日、とても変った別の武士像を描いています。裃をつけたその武士は、なんと歯を見せて笑っているのです。世界中の肖像画を見廻してみても、モナリザのような静かな微笑の例はあるものの、にやりと笑う肖像は実に珍しい。笑った瞬間を生き生きと捉えた手腕は、肖像画家崋山の面目躍如と言うべきですが、この絵に言及する研究者たちは、武士は生涯に三度しか笑わぬものだ、という格言が頭を離れないのか、武士にしては軽薄な表情である、などと論評しがちです。笑う武士の顔は、左の小鼻下の黒子をはじめ、鼻の形といい眼や眉といい、翌日描かれた泉石像に酷似しています。二幅の武士の紋所の違いを理由に両者は別人ではないかとする説もありますが、あの泉石が笑っているのだと、私は思いたい。
武士の家に生まれ、武士として育った崋山にとって、儒学はまさに身体の一部でした。しかし、危機的な兆候に備えようと執筆し始めた「慎機論」では、世界という大海の中で荒波にさらされている日本の現状には眼を閉じたまま、大を捨て小を取るような真似ばかりする腐敗した儒者たちや幕府の体質を井の中の蛙になぞらえ、手厳しく批判しています。また蘭学への関心が深まるにつれ、藩務多忙のうえに画業にも打込みたく、オランダ語修得を諦めざるを得なかった崋山は、高野長英や小関三英らの語学力に助けられながら、西洋文明を正確に理解しようと努めました。個々の人間の才能と適性に従った人材養成を国是に掲げたオランダの教育制度に無条件の共感を示し、新発見や新発明といった学問研究の成果をすみやかに公けの新知識、新技術として普及させる西洋文明の基本姿勢に目を見張りました。いくら誇るべき精神文化を持っていても、天保の大飢饉や疫病の流行を前にしては、苦悩する人々を救援する技術的な手段が余りに貧弱で困難を極めた自身の藩務体験(崋山の努力で、田原藩からは一人の餓死者も出ませんでしたが)をもふり返り、それほどの文明を持つ西洋人が野蛮人であるわけがない、西洋にも、儒教に代る精神文化の支柱がある筈だと崋山は考えました。西洋諸国の国教であるキリスト教を詳しく研究する必要さえ感じ始めていました。西洋を正確に理解しようとした崋山はまた、西洋を正当に称讃したのです。ところが西洋への理解と称讃には、その西洋に対して国を鎖している幕政への批判だと見なされかねない危険がありました。逮捕の後、崋山宅の屑籠から「慎機論」の未完草稿が押収されたことが、彼の田原蟄居、ついには悲劇的な自刃へとつながって行きます。
私は昭和四十三年(一九六八)に上梓した『日本人の西洋発見』で、徳川中期の蘭学のことを書きました。平成十三年(二〇〇一)刊行の『明治天皇』では、天皇の伝記を中心に据えながら、明治時代史を書きました。そして、徳川中期の蘭学の動向を受け継ぎさらに進展させながら、明治維新という一大革命を精神的に準備することになった、極めて重要な時代、徳川後期をいつか書きたいと真剣に考え続けていましたが、ある時、渡辺崋山という一知識人を中心人物にしてあの時代を描いてはどうか、と思い到りました。肖像画などの絵画ばかりでなく、「慎機論」をはじめ彼の諸論文に接することで、崋山への関心は一層つのりました。時代によって、あるいは政治観によって、崋山は実に多様な捉えられ方をして来ました。戦前の教科書には、国を憂慮し親に孝養を尽した儒教の美徳の模範的人物として。戦後になると、貧困に甘んじた庶民的な苦労人として。とにかく、どんな角度から光を当てるにせよ、あの維新前夜に崋山のような人物が登場し、逆境に屈することなく画業に邁進、当時の危機的な文化状況を象徴するかのような波乱の生涯を一途に駆けぬけたという事実が、なにより興味深い。崋山になら、あの時代を代表させて書くことが出来る。思いつきは確信に変りました。
蟄居中の身でありながら自作の絵の頒布会を開いた不謹慎の迷惑が藩主に及ぶことを恐れて、と書き遺し、崋山が自裁したのは維新の二十七年前でした。息子が武士の作法に則って死んだことを自ら確認した母は、哀しげな顔に笑みを泛べて、それでこそ我が子、と言ったと伝えられています。蟄居中の崋山が描いた、老母の肖像画があります。武士の妻として武士の母として、幾多の苦難を耐え忍んで来た一人の老婦人が、毅然と端坐しています。
(ドナルド・キーン コロンビア大学名誉教授)
波 2007年4月号より
著者プロフィール
ドナルド・キーン
Keene,Donald Lawrence
(1922-2019)ニューヨーク生れ。コロンビア大学名誉教授。日本文学の研究、海外への紹介などの功績によって1962(昭和37)年、菊池寛賞、1983年、山片蟠桃賞、1990(平成2)年、全米文芸評論家賞、1993年、勲二等旭日重光章を受章。2002年、文化功労者に選ばれる。2008年、文化勲章を受章。2012年、日本国籍を取得。『百代の過客』(読売文学賞、日本文学大賞)『日本人の美意識』『日本の作家』『日本文学史(全18巻)』『明治天皇』(毎日出版文化賞)など著書多数。
角地幸男
カクチ・ユキオ
1948(昭和23)年、東京生れ。早稲田大学仏文科卒。ジャパンタイムズ編集局勤務を経て、城西短期大学教授を務めた。