雑貨の終わり
2,200円(税込)
発売日:2020/08/27
- 書籍
- 電子書籍あり
無印良品も村上春樹もTDLもパンも雑貨になった……? 東京西荻の雑貨店主が考察するエッセイ集。
疫病に街がすっぽりと覆われてしまう前、店内を眺めた。専門店にあったはずの工芸品も本も服もみな雑貨になった。物と雑貨の壁は壊れ、自分が何を売っているのか、いよいよわからなくなっていく。これからどうしたら物の真贋の判断を手放さずに済むだろうか。広範な知識と経験を交えて雑貨化の過去と現在地を探る画期的な論考。
息を止めて
ふたりの村上
レディメイド、さえも
印の無い印
地図のないメニルモンタン
鼠の国をめぐる断章
パン屋から遠くはなれて
釣りびとたち
聖なる箱
べつのポートランドで
ホテルの滝
水と空
書誌情報
読み仮名 | ザッカノオワリ |
---|---|
装幀 | 平松麻/装画、新潮社装幀室/装幀、広瀬達郎/撮影 |
雑誌から生まれた本 | 考える人から生まれた本 |
発行形態 | 書籍、電子書籍 |
判型 | 四六判変型 |
頁数 | 224ページ |
ISBN | 978-4-10-353511-9 |
C-CODE | 0095 |
ジャンル | 文学・評論 |
定価 | 2,200円 |
電子書籍 価格 | 1,980円 |
電子書籍 配信開始日 | 2021/02/05 |
書評
忘れられへんから
すべてのものが「雑貨」と称され、消費されていく過程を、著者は「雑貨化」と呼ぶ。前著『すべての雑貨』には、すでに「人々が雑貨だと思えば雑貨。そう思うか思わないかを左右するのが、雑貨感覚」という、おおまかではあれ、そうと頷くほかない状況認識が示されていたのだが、本書ではさらに一歩深化した視点から、自身の立ち位置が説明されている。同時代の雑貨の流行廃りを消費者の側から眺めてきた私にも、共感するところが多かった。
雑貨本という言い方があるとするなら、本書は従来の雑貨本の枠には入っていない。希少なコレクションの紹介も、経営に関するノウハウもなければ、特定の物に対する偏りのある愛の表明もない。むしろ偏愛という言葉に対する羞恥と忌避が全体をつらぬいていて、すべてを等価値に眺める「雑貨感覚」のなかに美醜を正しく判断しうる眼を保ちうるのか、保ちうるとしたらそれをどのように発揮すべきかについて、自問自答がくりかえされるのみである。「高貴な物から下賤な物まで、なにもかもをひとしく雑貨へと変えて飲みこんでしまう大河」のなかで、威圧的な等価の闇からひと筋の光を引き出し、選別する主体は、自分なのか世の流れなのか。
もちろん、最初にこれはという選ぶ側の直感があり、まだだれも気づいていなかった価値を認めたのは自分だという矜恃はあるだろう。しかしよりどころであったその自恃の領域を、世の中がつぎつぎに侵食してくる。あのひとがあの雑誌のこのページで紹介しているのとまったくおなじ品が欲しいという反応からはじまって、しだいに同等品が大量に流布し、あとから振り返ると区別がつかなくなっている。
厳しいのは、「選別」した先駆者への評価は、他の「選別」された「選別」者によってしか公式に認定されないということだろうか。著者のように、「じぶんだけは雑貨化していないかのようにふるまうための、高踏的な身ぶり」が、ほかならぬ「じぶん」にもあるという罪悪感に近い冷静な視点があっても、それで世界の「雑貨化」に、結果として加担しているという罪が減じることはない。なぜなら、減じられると考えることじたいに、自らを上においている構造がつきまとうからだ。
どこまで行っても同様の光景が反復されるだけで、それを完全に突き崩しうるなにかが見つからない。にもかかわらず、物は物としてそこにあり、目で見られ、手で触れられ、生活の一部となって、私たちを支えている。しかも今度は、「じぶんだけは雑貨化していないかのようにふるまう」まぎれもない雑貨をそろえて、その「暮らし」全体を設計しようとする「高踏的な」戦略をそなえた企業があらわれる。
先駆者の位置を確保し、時流におもねらず身を引いたと思い込んでいる古道具屋の夫婦や、選別者の位置を数の論理で保とうとしているイベント企画者、先駆者にも選別者にもなるつもりはなかったのに、気がつくと滑り落ちた集団に入れられていたパン屋や、オリジナルの音楽が批判対象に似ていると評されるうち、自分でもその気になってきたというバンドマンを描くあたりの筆は、苦く切ない。
しかし、信じるべきものはある。世界の「雑貨化」にあらがうのは、ひとりひとりの身体に染みついた記憶であり、積み重ねてきた時間なのだ。売る側であれ消費する側であれ、それは関係ない。他人の物語を受け入れる耳を持ち、自身の物語を人に押しつけず、双方を包む言葉に近づくこと。若き日に陸軍航空部隊にいた祖父の語りに、より正確に言えば祖父の語りを伝える著者の語りに、それはあらわれている。五十も半ばを過ぎてから戦友たちを鎮めるために仏像を彫り始めた祖父は、「死んだら好きなんあげるわ」と孫に言う。仏像ではなく自画像を所望すると、こう返される。
「そやな、仏なんかええんよ。おじいちゃんは忘れられへんから彫ってきただけやから」
仏師が彫るものから素人の手慰みまで、仏像はいくらでもある。けれど、その「雑貨化」に抗するのは、「忘れられへんから」という想いなのだ。
(ほりえ・としゆき 作家)
波 2020年9月号より
単行本刊行時掲載
インタビュー/対談/エッセイ
雑貨界の地図をつくる
新刊『雑貨の終わり』は『すべての雑貨』(夏葉社)につづく二冊目の著作です。
私は東京の西荻窪で十五年前から雑貨店を営んでいますが、雑貨について考えはじめたのは、店で取り扱う品物の種類が年々増え、自分が売っている物が雑貨なのか何なのか、よくわからなくなってきたからです(笑)。
うちではギャラリーを併設し、工芸品や絵画などの展示をしつつ、常設の棚には石鹸や食料品、文房具、服、本などが並んでいます。それらはもともと専門店で扱われていた物でしたが、いまでは、すべてが雑貨屋に集まっている。こういった、いままで雑貨ではなかった物が雑貨として流通して消費されることを「雑貨化」と呼んで、三年前に『すべての雑貨』という本を出しました。この本では、人々があらゆる物を雑貨として捉えてしまう感覚を「雑貨感覚」と名づけています。
ただ、この三年間で雑貨化はますます進み、消費者の雑貨感覚も大きく変わりました。雑貨化を単純に指摘しても、もうだれも驚きません。だから、この本を読んだ編集者から「WEB『考える人』で連載しませんか」と声をかけられたとき、いま何が書けるのかとても悩みましたね。
どうして雑貨化は進み、雑貨感覚は大きく変わったのでしょうか
日本人はもともと雑貨好きで、江戸期の小間物を愛玩する文化にまで遡ることも可能ですが、なにより戦後しばらくして誕生したアメリカンファーマシーやソニープラザなどによる輸入雑貨のブームが雑貨史の始まりです。それらをマガジンハウスをはじめ雑誌メディアが「おしゃれ雑貨」として紹介し、日本独自の雑貨文化が育まれてきました。
しかしインターネットの登場と浸透によって、雑貨の世界はがらっと大きく変わったと思います。例えば、Amazonなどのサイトでは値段やジャンルにかかわりなく同一フォーマットで商品を並べ、あらゆる物を売っています。それぞれの物から固有の時間や物語は引き剥がされ、手軽にワンクリックで買えます。この「物の断片化」とも言える現象は世界中で起こっていて、それと雑貨化はパラレルな関係にあると思っています。
前作よりも幅広い題材が選ばれていますね。
『雑貨の終わり』は主にWEBの連載と書下ろしをまとめたエッセイ集です。今回は無印良品やディズニーランド、村上春樹さんや村上隆さん、ポートランド、デュシャンやコーネルのレディメイド作品、シェーカーボックス、ほっこり系パン屋のチェーン店など、ミクロからマクロまで様々な事象を雑貨化というキーワードをもとに書きました。
雑貨について書きながら、ありとあらゆる生活用品を取りそろえ、いまや「国民的インフラ」と言えそうな無印良品や、世界のキャラクタービジネスの頂点に立つディズニーといった巨大企業について論じるのはナンセンスだと思うかもしれません。ですが私の小さな雑貨の商売と彼らの大きな商売もどこかでつながっていて、無関係ではないのだという感覚がベースにあります。雑貨屋なのであたりまえですが、傍観者ではいられないし、冷笑や批判的なことはなるべく書きたくなかった。自身も末席ながら資本主義経済の渦中にいて、毎日せっせと雑貨化に加担している。今作が俯瞰した分析ではなく、エッセイなのか私小説なのかわからない筆致にならざるをえなかったのも、そういうジレンマからかもしれません。
村上春樹さんについて書いたのは、出版社のHPに載っていた書斎の写真をみたとき、隅々までかわいい雑貨であふれていて、かなり高度な雑貨感覚の持ち主だと思ったからです。この国民的作家がまた「an・an」や「POPEYE」など日本の雑貨文化を牽引してきたマガジンハウスの雑誌に連載を持ち、強く結びついているのも気になる点でした。
また雑貨とは一見関係のなさそうな、祖父が彫っていた仏像や彼が所持していたライカがある人の救いとなった話も交えています。雑貨とは違う物のあり方を、少しだけでも書き留めておきたかったのです。物には本来、それぞれ固有の時間の堆積と物語があるのだ、という話を。
『雑貨の終わり』という書名は自分の首を絞めるか、店仕舞いの宣言のようで刺激的です。
自分では頓智かギャグのつもりで、つけた書名なんですが(笑)。いま雑貨が物の世界を覆い尽くそうとしています。雑貨店を名乗っていなくても、雑貨店みたいな品ぞろえやディスプレイの本屋やアパレルショップ、飲食店などは無数に存在します。もはや実生活において雑貨と物はニアリーイコールになりつつある。であるならば、雑貨は「雑貨」と名乗らず「物」でいいじゃないかと。そういう意味で、雑貨の「終わり」なのです。雑貨界がいまどこまで広がり、どうなっているのか、私なりの地図をつくるような気持ちで本書を綴っていきました。
(みしな・てるおき 雑貨店店主/著述家)
波 2020年9月号より
単行本刊行時掲載
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イベント/書店情報
著者プロフィール
三品輝起
ミシナ・テルオキ
1979年、京都府で生まれ、愛媛県で育つ。2005年、東京の西荻窪で雑貨店FALLを開店。2017年、エッセイ集『すべての雑貨』(夏葉社)を刊行。『図書』(岩波書店)ほか各誌に雑貨論を寄稿している。