故郷のわが家
1,870円(税込)
発売日:2010/01/29
- 書籍
祖国。故郷の山河。生まれた家。母の子宮――人はつねに故郷を失いつづける……。
六十五年前に生まれた家を処分するため、故郷に戻ってきた笑子さん。彼女の胸にさまざまな過去が夢うつつに去来する。家族もなく独りで世界中を旅しつづける男。亡くなった恐竜ファンの兄さん。ガダルカナルへの遺骨収集団に参加する村の青年。人工羊水に浸るヤギの胎児――現代における故郷喪失を描く連作短篇集。
目次
ラスベガスの男
砂漠回廊
天登り
犬月
青い森、黒い森
電気の友
くらやみ歩行
野の輝き
月、日、星、ホイホイ
砂漠回廊
天登り
犬月
青い森、黒い森
電気の友
くらやみ歩行
野の輝き
月、日、星、ホイホイ
書誌情報
読み仮名 | コキョウノワガヤ |
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雑誌から生まれた本 | 新潮から生まれた本 |
発行形態 | 書籍 |
判型 | 四六判 |
頁数 | 256ページ |
ISBN | 978-4-10-404103-9 |
C-CODE | 0093 |
ジャンル | 文芸作品、文学賞受賞作家 |
定価 | 1,870円 |
書評
波 2010年2月号より 雲海の彼方から
「望郷の念」という表現は現代では大げさな言葉だろうか。笑子さんは六十五歳である。笑子さんは世界がどんなに広くても、望郷の念に駆られるような絶望的な距離など現代には存在しないことをよく知っている。笑子さんは生まれ故郷の家の片づけをする。親はもういない。何人かの肉親も故人になった。子育ても終わった。笑子さんはそんな年になった。年月は無情だ。故郷に戻っても、「親のいた時間の故郷に帰ることはできない」。笑子さんは一つ一つの物を片付けていく。古い蒲団の綿を解く。古くなった物には家族一人一人の匂いや汗がしっかりとしみついている。忘れ去られたへそくりも出てくる。千人針まで出てくる。笑子さんは遠い日をありありと思い出す。幼い頃の兄弟の本箱、恐竜の本、こまごまとした台所の風景、姑とのやりにくい日々。あのお中元のカルピスを子供たちにくれたらな……。決して戻れない時間なら、こんな思いを「望郷の念」と呼べるだろう。故郷というのは不思議な場所だ。ここでは笑子さんは旧姓の「柳田」さんだ。「旧姓は着慣れた服のように気持ちいい」。懐かしさの中で、笑子さんは語る。
笑子さんは旧友の訃報も受け取る。電気の技術師だった男だ。仕事一筋に生きた人だ。彼には野望があった。定年前に東京都内に大停電を引き起こすのだ。彼は言う。「いたずらとは違う。もっと真剣な気持ちだ」。この野望を「自己実現」と言う。青春時代の無謀さとはもはや違う。酒の席での冗談でもない。東京の夜はいつまでも明るかった。「私はやるわ」。銀行勤めをする友人は銀行泥棒を決意する。「それで人生、棒に振るのか」。ちゃんと良識のある世代である。捕まることは避けられない。捕まったら、「大勢の前で何かを言いたい」。その時のセリフを今は考えている。若い頃、弁論大会に出場した人である。野望は大きくてどこかささやかである。この年代の人たちの生きざまが笑子さんの優しいまなざしで思い出される。この年代特有の侘しさもある。海外旅行ばかりしている男がいる。笑子さんと同世代だ。定年退職して時間を持て余すので、国内よりも海外をあちこち旅行する。家にいてもやることがない。「世界の流れ者」みたいな男だ。笑子さんの思いつく「故郷喪失」という言葉が切ない。
笑子さんはよく夢を見る年になった。人を思い出す。昔を思い出す。笑子さんは今ではNHKの深夜ラジオを聞くのが習慣だ。相棒は犬のフジ子だ。笑子さんの歩んできた人生の時間は十分に長い。
「もう何もかも終わった後でしょうか。それとも始まる前でしょうか」
笑子さんは久住高原から雄大な景色を見渡す。そこが笑子さんの故郷である。野鳥が飛ぶ。風車は回る。森は青い。山は連なる。景色は雲海に白く包まれている。笑子さんは雲海の下を「下界」と呼ぶ。場所も時間も隔てられて、何もかもが遠い。手が届かない。人はどこかへ「帰る」ことなんかできないのかもしれない。笑子さんは懐かしいものからどんどん引き離されていく世代である。時に笑子さんの語りは時代を超える。舅の抑留経験や戦時中の兵士たちにまで思いをはせる。長い歳月に、姿も名前もなくしてごろりと転がる旧日本兵の髑髏の望郷の念こそ切実である。人の一生は儚い。個人という存在はあまりに小さい。遺骨収集をしても、現代から過去に手は届かない。それが切ない。そんなことをつくづく思い知るのも、個人の人生の時間を超えた望郷の念なのだろうか。もしかしたら、望郷の念という悠久の時間に隔てられて初めて、儚い人の一生は尊いものになるのだろうか。もう決して引き返せない時間が、個人という小さなものをかけがえのない存在にかえるのだろうか。老いるにはまだ早い笑子さんの視線は優しく過去を振り返る。笑子さんの語る人も自然も命もなんだか愛しい。
笑子さんは旧友の訃報も受け取る。電気の技術師だった男だ。仕事一筋に生きた人だ。彼には野望があった。定年前に東京都内に大停電を引き起こすのだ。彼は言う。「いたずらとは違う。もっと真剣な気持ちだ」。この野望を「自己実現」と言う。青春時代の無謀さとはもはや違う。酒の席での冗談でもない。東京の夜はいつまでも明るかった。「私はやるわ」。銀行勤めをする友人は銀行泥棒を決意する。「それで人生、棒に振るのか」。ちゃんと良識のある世代である。捕まることは避けられない。捕まったら、「大勢の前で何かを言いたい」。その時のセリフを今は考えている。若い頃、弁論大会に出場した人である。野望は大きくてどこかささやかである。この年代の人たちの生きざまが笑子さんの優しいまなざしで思い出される。この年代特有の侘しさもある。海外旅行ばかりしている男がいる。笑子さんと同世代だ。定年退職して時間を持て余すので、国内よりも海外をあちこち旅行する。家にいてもやることがない。「世界の流れ者」みたいな男だ。笑子さんの思いつく「故郷喪失」という言葉が切ない。
笑子さんはよく夢を見る年になった。人を思い出す。昔を思い出す。笑子さんは今ではNHKの深夜ラジオを聞くのが習慣だ。相棒は犬のフジ子だ。笑子さんの歩んできた人生の時間は十分に長い。
「もう何もかも終わった後でしょうか。それとも始まる前でしょうか」
笑子さんは久住高原から雄大な景色を見渡す。そこが笑子さんの故郷である。野鳥が飛ぶ。風車は回る。森は青い。山は連なる。景色は雲海に白く包まれている。笑子さんは雲海の下を「下界」と呼ぶ。場所も時間も隔てられて、何もかもが遠い。手が届かない。人はどこかへ「帰る」ことなんかできないのかもしれない。笑子さんは懐かしいものからどんどん引き離されていく世代である。時に笑子さんの語りは時代を超える。舅の抑留経験や戦時中の兵士たちにまで思いをはせる。長い歳月に、姿も名前もなくしてごろりと転がる旧日本兵の髑髏の望郷の念こそ切実である。人の一生は儚い。個人という存在はあまりに小さい。遺骨収集をしても、現代から過去に手は届かない。それが切ない。そんなことをつくづく思い知るのも、個人の人生の時間を超えた望郷の念なのだろうか。もしかしたら、望郷の念という悠久の時間に隔てられて初めて、儚い人の一生は尊いものになるのだろうか。もう決して引き返せない時間が、個人という小さなものをかけがえのない存在にかえるのだろうか。老いるにはまだ早い笑子さんの視線は優しく過去を振り返る。笑子さんの語る人も自然も命もなんだか愛しい。
(あかぞめ・あきこ 作家)
著者プロフィール
村田喜代子
ムラタ・キヨコ
1945(昭和20)年、福岡県北九州市八幡生れ。1985年、自身のタイプ印刷による個人誌「発表」を創刊。1987年「鍋の中」で芥川賞を受賞。1990(平成2)年「白い山」で女流文学賞を、1992年「真夜中の自転車」で平林たい子賞を、1998年「望潮」で川端康成賞を、2014年『ゆうじょこう』で読売文学賞を、2019年『飛族』で谷崎潤一郎賞を受賞した。ほかに、『花野』『蟹女』『龍秘御天歌』『八幡炎炎記』『屋根屋』『故郷のわが家』などの著書がある。
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