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逃げても、逃げてもシェイクスピア―翻訳家・松岡和子の仕事―

草生亜紀子/著

1,980円(税込)

発売日:2024/04/17

  • 書籍
  • 電子書籍あり

完訳を成し遂げた翻訳家の仕事と人生はこんなにも密接につながっていた。

ソ連に11年抑留された父、女手一つで子供達を守り育てた母。自身の進学、結婚、子育て、介護、そして大切な人達との別れ――人生の経験すべてが、古典の一言一言に血を通わせていった。最初は苦手だったシェイクスピアのこと、蜷川幸雄らとの交流、一語へのこだわりを巡る役者との交感まですべてを明かす宝物のような一冊。

目次
プロローグ
第一章 父と母
引き揚げ後の暮らし/明治生まれの母・幸子/犬に噛まれる/ソ連獄窓十一年/いわれなき懲役二十五年/驚異のロシア語習得/許された家族への手紙/脳出血で倒れる/待ちに待った日――「さあ! 手紙だよ」/政治状況の変化に翻弄される/さらなる病状の悪化/ダモイへの道
第二章 学生時代
勉強か青春謳歌か/大学選択でまた悩む/シェイクスピアからの逃走その1/劇団研究生になる/シェイクスピアからの逃走その2/「この人と結婚するかも」/学生運動の真っただ中で
第三章 仕事・家族
初めての翻訳/弟が設計した自宅/姑との関係/触れるとやさしさが流れる
第四章 劇評・翻訳
戯曲翻訳の世界へ/ドラマ仕掛けの空間/シェイクスピアに向かう運命の糸/天寿を全うして――父の死/「生きている側に軸足を」/「いい施設を探してちょうだい」
第五章 シェイクスピアとの格闘
自分が新訳する意味は何か?/夜は明けるのか明けないのか/女性キャラクターの言葉遣い/シェイクスピアの追体験/シェイクスピアと向き合うための「頭がまえ」/読むと訳すとは大違い/書かれていないことを決める苦悩/「馬は一頭たりとも狸にしてはならない」/挫けそうになった作品/全集に込めた「お買い得感」/シェイクスピアとともに生きた二十八年間/完訳の先に続く挑戦/「ジュリエットとロミオ」/看取る人
エピローグ
あとがき
【参考文献】
【松岡和子に関する資料】

書誌情報

読み仮名 ニゲテモニゲテモシェイクスピアホンヤクカマツオカカズコノシゴト
装幀 井上佐由紀 *早稲田大学演劇博物館展示「Words, words, words.─松岡和子とシェイクスピア劇翻訳」用に撮影/カバー写真、新潮社装幀室/装幀
発行形態 書籍、電子書籍
判型 四六判
頁数 224ページ
ISBN 978-4-10-464002-7
C-CODE 0095
ジャンル アート・エンターテインメント、画家・写真家・建築家
定価 1,980円
電子書籍 価格 1,980円
電子書籍 配信開始日 2024/04/17

インタビュー/対談/エッセイ

「私の人生なんて誰が読みたいんだろう?」

松岡和子

――取材にお付き合いいただき、こうして形になったものをお読みになり、どんな感想を持たれましたか?

松岡 書いてあるのは自分のことなのに、構成のおかげで自分のことだと忘れる瞬間があって、素直な気持ちでおもしろく読むことができました。

――以前、「こんな本が出たら照れ臭くて外を歩けない」とおっしゃいました。今はどんなお気持ちですか?

松岡 劇評や翻訳の仕事をずっとしてきたので、素晴らしい才能や大きな人物に何人もお会いする機会を得てきました。つい、そうした人々と自分を比べてしまうので、「私の人生なんて誰が読みたいんだろう?」という気持ちを拭いきれないんです。そもそも、自分が何かすごいことをしたとは、どーしても思えない。虎の威ならぬシェイクスピアの威を借りているだけのような気がするのです。すごいのはシェイクスピア。それを伝えてきたことが評価されたのは嬉しいけれど、やっぱり虎の威を借りているようで、それがウジウジしてしまう原因です。

――この本が出て良かったことは、ありますか?

松岡 私、挫けそうになると「明治から女性たちが培ってきた財産を食い潰してはいけない」という思いに常に囚われるのです。母は大きな仕事をしたわけではないけれど、父がソ連に抑留されたことによって放り込まれてしまった苦境を懸命に生きた。それは母一人の物語ではなく、あの世代の女性はみんなそうだった。その一人として母のことが刻まれたことが、とても嬉しいです。
 満州で官僚だった父は戦後、ソ連に抑留され、『ソ連獄窓十一年』(全四巻/前野茂著/講談社学術文庫/1979年)という生きた証を残しました。一方、母の生き方は私と妹にとてつもなく大きな影響を与えて、今でも「あー、母を超えられない」と思うけれど、それを伝えるものは何もありませんでした。その母の物語がこうして残ることが嬉しい。草生さんに、母からつながる物語を書きたいと言われたのが、この企画に対して首を縦に振った最大の理由です。弟のことも、そう。私の人生で一番悲しい出来事。志半ばで倒れた男のことを刻みつけてもらったのも、本当にありがたいことだと思います。

――取材の過程で改めて思い出したことは?

松岡 あらゆることが次から次へと蘇ってきました。取材を受けていた間のある日、最寄り駅に向かう途中で一枚のリーフレットを手渡されました。人道援助団体ケア・インターナショナルのものです。それを見た瞬間に、海外からの支援が詰まった「ケア物資」を受け取っていた終戦直後の日々がうわっと蘇ってきて、電車で涙が止まらなくなったこともあります。子供時代の私たちを住み込みで面倒見てくれた安士おばちゃんを初め、忘れていた人々を思い出しました。

――うまく原稿に盛り込めなかったと反省しているひとつに、松岡さんの「伊達にシェイクスピアやってんじゃないよ!」という啖呵(笑)があります。これはどういう時に胸に浮かぶ言葉ですか?

松岡 嫌なこと、辛いことがあった時、たとえば義母の介護で辛かったり、義母の主治医に誤解されて嘘つき呼ばわりされて悔し涙を流したような時に唱えていました。
 シェイクスピアは人間の生老病死、喜怒哀楽、ありとあらゆることを描いています。だから、自分が今直面している苦境と呼応するものが必ずあるのです。すると、「これも人間のドラマとして見よう」と思って頭を切り替えることができる。どんなにネガティブな波をかぶっても、人間のすべてを扱うシェイクスピアに関わる自分にとって無駄にはならないと思うことができる。いわば、自分を叱咤激励する啖呵ですね。

――ところで、カバー写真が素敵ですが、これはどういう状況で撮られたものですか?

松岡 早稲田大学の演劇博物館で「Words,words,words.―松岡和子とシェイクスピア劇翻訳」という展示をしていただいた時に、ポスター用の写真撮影に、同館助教の石渕理恵子さんらとカメラマンの井上佐由紀さんが自宅にいらっしゃいました。ひと通り撮影して「はい、終わり」となったところで、ウロウロしていた猫を抱き上げたら、「あ、それも」となったおまけの一枚です。結果的にこれがポスターに採用されました。飼い猫のシャチの遺影にもなった忘れられない一枚です。

(聞き手・草生亜紀子)
(まつおか・かずこ 翻訳家)

波 2024年5月号より
単行本刊行時掲載

著者プロフィール

草生亜紀子

クサオイ・アキコ

国際基督教大学、米Wartburg大学卒業。産経新聞、The Japan Times記者、新潮社、株式会社ほぼ日を経て独立。2024年4月現在、国際人道支援NGOで働きながら、フリーランスとして翻訳・原稿執筆を行う。著書に『理想の小学校を探して』(新潮社刊)、中川亜紀子名義で訳した絵本に『ふたりママの家で』(絵・文パトリシア・ポラッコ、サウザンブックス社刊)がある。

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