ホーム > 書籍詳細:残虐記

残虐記

桐野夏生/著

1,540円(税込)

発売日:2004/02/27

  • 書籍

薄汚いアパートの一室。中には、粗野な若い男。そして、女の子が一人――。

失踪した作家が残した原稿。そこには、二十五年前の少女誘拐・監禁事件の、自分が被害者であったという驚くべき事実が記してあった。最近出所した犯人からの手紙によって、自ら封印してきたその日々の記憶が、奔流のように溢れ出したのだ。誰にも話さなかったその「真実」とは……。一作ごとに凄みを増す著者の最新長編。

  • 受賞
    第17回 柴田錬三郎賞

書誌情報

読み仮名 ザンギャクキ
発行形態 書籍
判型 四六判
頁数 224ページ
ISBN 978-4-10-466701-7
C-CODE 0093
ジャンル ミステリー・サスペンス・ハードボイルド、文学賞受賞作家
定価 1,540円

インタビュー/対談/エッセイ

清い小説、闘う想像力

桐野夏生福田和也

■サルトルを連想した ■「変な一行」から始まった ■中途半端の面白さ ■はずしていく快感 ■闘う想像力

サルトルを連想した

福田 評論家が言うようなことじゃないんですけど、『グロテスク』を読んだばかりで、またもう一冊を読めてうれしいというのが率直な感想で。これは「週刊アスキー」に連載されていたのですね。
桐野 連載のときは「アガルタ」というタイトルだったんです。二人だけの、閉じ込められた世界が、もしかしたら地底の楽園みたいなものかな、というイメージから始まっていたので。後で改稿する際、たまたま谷崎潤一郎の『残虐記』を読んだら非常に面白かったので、初めてのことなんですが、「大谷崎」のタイトルを頂きました。タイトルを変えることによって、かなりドラスティックに改稿できたという印象を持っています。
福田 このテーマの小説は、例えば小林信彦さんの『監禁』など幾つかありますが、『残虐記』は、つまりポスト監禁のことを書いたというのが他のものと非常に違っていて。
桐野 いつも、興味があるのは「その後」なんです。今回は、監禁された女の子の話ですが、その後、その子がどんな目に遭って、何を考え、どういう大人になっていくのかを書こうというのが最初の眼目でした。
福田 小説は本当はそういうものだと思うのです。出来事そのものを書くのではなく、終わったときに、その意味付けをしたり解釈をしたり、それができなかったり、というような紛糾から出てくるなにか。
この作品で、主要な語り手は小説家です。
桐野 女主人公を作家にしたのは意図です。閉じ込められて、言葉が増殖するという仮定があって、それが小説の成り立ちの物語でもあるかなあと思ったので。
福田 彼女があることに思い当たって、本当に絶望するという場面があるじゃないですか。
桐野 はい。
福田 これ以上、自分は先に行けないということが分かったときに、「もうやめた」という、あの絶望感、要するに想像力のある種の限界がもたらす絶望は、実存的な絶望ですよね。僕は読んでいて、サルトルのことを何度も思い浮べました。サルトルの『水いらず』の中に「他者は地獄だ」っていう言葉がありますけれど。
主人公が誘拐から解放されたときに、いろんな人が「どんな目に遭ったんだろう」って想像する。その想像にさらされること、被害者として扱われることが耐えられないと。でも他者の想像が耐えられないんじゃなくて、他者が想像していることを、自分が想像していることが耐えられないのですよね、本当は。
桐野 そうです、そうです。
福田 その想像が限界に達したときに本当に絶望して、なおかつ書くことが始まる。
人間は、自分が自分であったり、今ここにいるということ自体に耐えられないから、今にしかいないのに過去とか未来を持ってきて、何とかそれを引き延ばすことで存在を作っていると。
想像力自体は、存在していること自体と何とか折り合っていくための道具なんだけれども、結局、それが本当に動かなくなったときに、人間は今ここにしかいないっていうことに対面する。そこのところを、こういうふうに正確に書いたのは桐野さんが最初なんじゃないかなと思います。
桐野 恐れ入ります(笑)。
福田 いえいえ、本当に感服いたしました。
桐野 実存文学って読んだことないから分からない(笑)。
福田 いいんですよ、評論家はこういうことに勝手に興奮する生き物なので。

「変な一行」から始まった

桐野 主人公が男の欲望というものにぶち当たって、自分は男じゃないし、大人じゃないし、分からない。要するに他人の欲望を想像できないことに限界を感じて、もう想像することを「やめる」と思う。それが性的人間の始まりだと思います。私の言う性的人間というのは、欲望を持たずに他人の欲望を考える人たちです。
欲望だけで想像力を持たない人っていうのは、ある意味では犯罪者でしょう。欲望というものの存在を知って、想像力の限界を悟った人たちというのは、どうやってこれから生きていくんだろうという、そういう行き詰まり感がある。そこからまた想像力の芽が伸びていくということは一体どういうことだろうなと、それを考えながら書いていたんですけどね。
もう一つ思ったのは、小学生の女の子がこんなことを考えるわけがないという一種の思い込みが、普通はあるんでしょうけれども、欲望を持ってはいないが、その欲望の在り方を想像する人間の気持ち悪さもあると思う。そういうものも書けたらいいなとは思ったんです。
福田 『柔らかな頬』や『光源』などでも試みてこられたことだと思うんですが、話者によって視点が違ったり、言っていることが違ったりすることで、読者自身がそのはざまで判断をゆだねられてしまう構造になっていますね。『残虐記』ではそういう仕掛けの中に主人公自身がとらえ込まれているのだけども、同時に読者もとらえ込まれるわけですよね。その時に、読者は、作品を読む、判断する「自由」に直面し、「自由」の怖さを知る。
桐野 いやあ、そこまでの意図はなかったんですけれど、書き手はキリがないのです。この本が出て、多分また言われるなあと思ったのは、「じゃ、これってどれが本当なんですか」(笑)。「それはまあ考えてください」っていうのは作家としてはずるいんですかね。
福田 そんなことはありません。迷うのは、本来読者の仕事です。
桐野 「アガルタ」という連載は、ケンジの手紙から始まったんです。その手紙で、どういうわけか、最後の一行に「私のことは許してくれなくていいです。私も許しません」って思わず書いちゃったんです。
福田 面白いですね。
桐野 何だろうと思ってずっと考えながら書いていたんですが、今でも、なぜそう書いたのかが自分でもよく分からないんですよね(笑)。小説を書いていると、いつも変な一行が出てきちゃう。で、その謎に引きずられてずっと書いていくみたいなところがあって。意識して書いているわけじゃない。
福田 でも、文学の「自由」ってそういうことですよね。作者が全部思い通りに操るのが「自由」じゃなくて、テキストの側が自由を持っている。
桐野 書いていると、ライターズ・ハイじゃないんですけど、結構興奮するんですよね、酔うというか。

中途半端の面白さ

福田 もう一つ、『グロテスク』では鮮明に出ていましたが、これも社会小説ですよね。特に監禁される女の子の微妙な社会性。
桐野 新住民という存在ですね。
福田 お母さんは音大出で、自分が現状に不充足なわけですよね。ちょっと奇行に走ったり。それを旦那は分かっていて、外に女をつくったりしてるという、そういう半端な状況がちゃんと書き込まれている。
桐野 社会小説というのかどうか分からないんですけど、私は中途半端な人たちって一番小説的だなと思っていて、それでわざと中途半端な状況の人間を設定してしまうんです。すごい金持ちでもなく貧乏でもなく。多分日本に住んでいる人たちのほとんどがそうなんじゃないかと思うんだけど。
福田 アパートに住んでゴルフに乗っていて、ブランドのかばんを持っている人。これは本当に日本の現実そのままですからね。
そういう、ちょっと距離を取ると非常におかしいことが、一番リアリティーがあるっていう状況を書いていらっしゃるということですよね。
桐野 それが逆に海外だと階層でしか測れないのかという不自由さを感じて、だとしたら日本のほうが面白いですね、この仕事をするには。
福田 階層や人種がはっきりしてるじゃないですか、たとえばアメリカだったら。
桐野 住む場所も違うし。
福田 そこから来る衝突が、すぐ分かりやすいドラマを作ってしまうから、日本人の作家から見ると、アメリカはドラマチックでやりやすいという印象があるかもしれない。でも、顕在化しないドラマのほうが面白いという考え方ですよね、桐野さんは。だからこそ、「グロテスク」だ、と。
桐野 全くそうですね。人間の見栄とかうさんくささとかが、やっぱり一番面白いと思うんですよ。そこに小説の芽がある、いつもそういうふうに思ってしまう。だから、やっぱりえぐいことを書いちゃうんでしょうね、きっとね(笑)。

はずしていく快感

福田 初めからケンジ像はああだったんですか。
桐野 ケンジが一番分からなかったんですよ。最初はイノセントなおばかさんみたいなイメージもあったんです。書いているうちにだんだん、非常に性的人間じゃないかと思い始めました。一番私にとって分からないのはケンジですね。
大体、重要な人物って最後まで分からないんです。ほとんど分からないままに書きだして、そのまま水やって、肥しをやって、育てていくみたいな。いつの間にかへんてこな方向に筆が走りますね。『残虐記』は、特にそれが顕著な小説でしたね。ほかはそうでもない。
福田 非常に理念的に、かっちり作り上げたような印象を受けますが。
桐野 ああ、そうですか。
福田 だって、このコンパクトさでここまで複雑な構造になっていると、普通そう思いますよね。
桐野 それは偶然です。おおむね確信的にやるものって、最近書いていないんですけど、多分面白くないと思います。
はずす快感があって、どんどん悪くなってやれ、とか、破滅させてやれ、とかって思いながら書くのって結構快楽なんです。はずれる喜びというんでしょうかね、それを小説の中で感じながら書いていると、ああいうふうにとんでもない方向に突っ走っていくんですけど。
やっぱり小学校四年生ぐらいの女の子にとって一番うすきみ悪いものって男じゃないかと思うんですよね、男の性欲。だから、その子にとって世界がなるべく凶々しく見えるように、一番恐ろしく見えるような形にしようと思ったら、はずれていっちゃったんです。悪夢の家みたいなものですよね。
福田 具体的にあった被害みたいなものは、要するに、中途半端じゃないですか。それがすごく効いていますよね。もっとひどいことがあると、かえって想像力の範囲じゃなくなっちゃうじゃないですか。
桐野 多分主人公の小海鳴海も嘘をついてるんですよね。だから、おっしゃるとおり、それも想像力の範囲内。で、それは私の想像力の範囲内ですね、同じように。
そこで、じゃ、一歩進んでどういうことが起きたんだみたいなことを書いたところで面白くないんですよね。小説って清いもんだなあと思いましたね、逆に、本当に。
福田 清い?
桐野 清い感じがした。それは私が書いているものが清いということじゃなくてね、多分それは邪悪なんでしょうけども(笑)。小説という形式、あるいは人間の想像力というものは結構清いもんだなあというふうな、ちょっと変な感じ方。
福田 面白いですね。
桐野 じゃ今度はリアルって何だろうっていう話にまたなるんだと思うんですけど、それを一生考えるのが、小説というものかもしれません。

闘う想像力

桐野 フランクルの『夜と霧』の中で、アウシュビッツで、頑丈な体の人たちが生き残るかと思ったら、意外に自分のような、すごく繊細な性質の人間が生き残った。それは想像力があったからだっていう話があって。私、さっき想像力は「清らかだ」と申し上げましたけれども、清らか故にふてぶてしくもあり、すごく強いもんじゃないかという気もしたんで、主人公を小説家にしてみようかなと思ったんですけどね。彼女が小説家にならなければサバイバルできなかったんじゃないかなと逆に思ったんです。
福田 想像力は多分両刃の剣で、一つには現状から逃げ出すというか、今ある自分を超えていくことのできる力ですよね。同時に、現実と直面しない逃避という側面もあって。
桐野 全くそうですね。現実と直面しない人間なのかもしれませんね、この主人公の場合は。私もそうですし(笑)。
福田 僕が『残虐記』を『グロテスク』との連想で考えていたのは、性的な人間の在り方の違いです。『グロテスク』の和恵の選択と小海鳴海の選択というのは、一見対極にあって、でも実は、一種の透過性というようなものがあるのかなっていう感じを持ったんです。
桐野 和恵のことを崩壊とか、痛ましい、と言う人もあるけど、実は性で闘っているんですよね。
福田 非常にポジティブに書いてらっしゃいましたね。非常に誇り高く、力強い。
桐野 だから、崩壊ではなくて、実は闘いだとしたら、小海鳴海も多分欲望に対応して、そういう努力で闘っているということなんだと思うんです。女は性で損なわれれば性で闘う者もおり、想像力で闘う者もおり、ということを書いてみようかと。
福田 読者の自由としては、失踪した鳴海が和恵になっていくという連想もありですよね(笑)。
桐野 テーマは一貫しているのかもしれません。でも、なんか不思議な作品ができちゃったなという感じなんですよね。それと、読み返して思ったのは、自分で言うのも恥ずかしいんだけど、「今までの中で一番面白いな」と(笑)。
『グロテスク』や『OUT』といった、割と売れるものって、私の作品の中では分かりやすい小説だったと思います。でも『柔らかな頬』は「犯人が分からない」とか「何があったんだ」とかって言われるんだけど、相当好きな作品です。
福田 この『残虐記』になると、ずっとやってこられたことが小説的にどれだけの可能性を持っているかが、例えば『柔らかな頬』より、非常によく分かります。これは他のだれにもできないことで、ということは。今まで試みられてきたことの。
桐野 集大成?(笑)
福田 集大成というか、構造として明確に示されている。
桐野 そうでしょうか。
福田 そうすると、これから遡って、『柔らかな頬』や『光源』などを読むと、多分読者は、「あ、そうか、こうだったんだ」と、もっともっと楽しんで読めたりするんじゃないかなという気がしますけどね。
桐野 それはすごく、いいですね。テキストのテキストで(笑)。

(ふくだ・かずや 文芸評論家)
(きりの・なつお 作家)
波 2004年3月号より
単行本刊行時掲載

著者プロフィール

桐野夏生

キリノ・ナツオ

1951年金沢市生まれ。1993年『顔に降りかかる雨』で江戸川乱歩賞を受賞。1997年に発表した『OUT』は社会現象を巻き起こし、日本推理作家協会賞を受賞。1999年『柔らかな頬』で直木賞、2003年『グロテスク』で泉鏡花文学賞を受賞。以後、柴田錬三郎賞、婦人公論文芸賞、谷崎潤一郎賞、紫式部文学賞、島清恋愛文学賞、読売文学賞を受賞と、主要文学賞を総なめにする。現・日本ペンクラブ会長。

桐野夏生HP -BUBBLONIA- (外部リンク)

判型違い(文庫)

この本へのご意見・ご感想をお待ちしております。

感想を送る

新刊お知らせメール

桐野夏生
登録
ミステリー・サスペンス・ハードボイルド
登録
文学賞受賞作家
登録

書籍の分類