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エスケイプ/アブセント

絲山秋子/著

1,320円(税込)

発売日:2006/12/21

書誌情報

読み仮名 エスケイプアブセント
雑誌から生まれた本 新潮から生まれた本
発行形態 書籍
判型 四六判変型
頁数 142ページ
ISBN 978-4-10-466902-8
C-CODE 0093
ジャンル 文芸作品、文学賞受賞作家
定価 1,320円

神さまよ、人間なんて手にあまるだろ。だったら祈れ。あんたこそ祈りつづけろ。

闘争と逃走にあけくれ、20年を棒に振った「おれ」。だが人生は、まだたっぷりと残っている。旅に出た京都で始まった長屋の教会での居候暮らし。あやしげな西洋坊主バンジャマンと、遅れすぎた活動家だった「おれ」。そして「あいつ」。必死に生きることは、祈りに似ている。フェイクな日々にこそ宿る人生の真実を描く傑作小説。

書評

波 2006年1月号より 内面の声に耳を澄ませて  絲山秋子『エスケイプ/アブセント』

豊崎由美

 絲山秋子の憑依力はすさまじい。前々からとても耳がいい作家だとは思っていたけれど、欠落感や虚しさや苛立ちを抱えているために、ちょっと見ダメに見える人間の口寄せをさせたら、ひょっとして当代随一? 元職業革命家の〈おれ〉こと江崎正臣を語り手にした一人称の中篇小説「エスケイプ」と、その中で正臣がしきりに気にかける〈あいつ〉を主人公にした三人称の短い作品「アブセント」。異なる語りで互いを補完しあうふたつの物語を収めたこの作品集を読むと、他者の言葉を取り込むことで豊かになっていくのが小説という芸術ジャンルなのだと、改めて認識させられるのだ。
物語が始まってすぐ、〈おれ〉は心の中に昔NHKの番組で見た一羽のペンギンを飼っていることを告白する。
〈そいつは南極の沿岸に住んでいたのに、あるとき取材班の目の前で、南に向かって歩き出したのだ。極点に向かって。何度取材班が抱き上げて海際に戻してやってもそいつは胸をふくらませ、確信を持って南に向かって歩き出す。食い物もない不毛の大地を。死ぬまで歩くのだ。全く狂っている。だけど、狂気というのはときに、とてつもなくリアルであることをおれは知った。たった一羽の狂ったペンギンの前で、NHK取材班は完全に無力だった〉
かっこいい。実に何というか、革命家くさいメタファーではないか。が、そのペンギンの“造反”に共感する一方で、子供の頃に見た三菱重工爆破事件によって過激派という言葉を知り、大学に入るやセクトに入り活動を開始、以来、暴動を夢みながらもそれが不発弾に終わってしまった己の半生を無駄だったんじゃないかとも思っている、不惑どころか〈惑い惑い惑いまくり〉の四十男が、〈おれ〉でもあるのだ。
「エスケイプ」はこの世間経験値の低い〈おれ〉がセクトから足を洗い、妹が作る託児所の手伝いをすることを決心し、新しい人生に入る前の一週間を学生時代の〈あいつ〉がいた京都で過ごすという物語になっている。到着早々、NYパンク黎明期の名ギタリスト、ロバート・クイン&ジョディ・ハリスの『エスケイプ』という二十年来探していた幻のLPを木屋町通りのレコ屋で発見する奇跡が舞い降りるも、それを小太りの西洋坊主に買われてしまい落胆。が、バンジャマンと名乗るその男の「うちの教会に聴きにくればいい」という誘いにのって、翌日からはちゃっかり居候になる。近所のおばちゃんたちに「番ちゃん」と呼ばれ愛されているコスプレ神父や、その向かいに住んでいる歌子ばあさんとの交流を描きつつ、作者は〈おれ〉の内面の声に耳を澄ませるのだ。
〈シリチレンツィーツィー/これが、ジョディ・ハリス。まるで宇宙の虫の音。/ムルブルンムルリン/これがロバート・クイン。冷蔵庫で古くなったプリンの恨み節。/これらがいつまでも単調にからみあっている。盛り上がりも展開もなにもない。/あー。(略)/こんなもの、二十年も探してきたのか。/これが幻のLPだったのか。/おれのレコ探しと革命の歴史。/どっちもゴミだった。〉
この短い旅の中、〈おれ〉はさまざまな人にとって不在だった自分の過去を振り返る。そして〈おれ〉の中に、番ちゃんや歌子ばあさんといった、同志ではない市井の他者の声をしみいらせる。そのことで、今や生きているのか死んでいるのかすらわからない〈あいつ〉の不在/アブセントへと還っていってしまう、それまでの堂々巡りの思考から、〈おれ〉はほんの少しエスケイプを果たすのだ。他者の声によって豊かになるのは小説だけではないのである。
「エスケイプ」では不在だった〈あいつ〉サイドの物語「アブセント」については、ここでは触れない。〈あいつ〉の正体を明かすことはある種のネタばらしになってしまうから。ロバート・クインとルー・リードがコラボした名盤「ブルー・マスク」のように息の合った呼応ぶりが見事な一篇になっていて、正臣が泊まるホテルや立ち寄る飲み屋、知り合う人間を念頭におきながら読み比べると、両篇のラストシーンにぐっとくること請け合い、とだけ言っておこう。稀代のいたこ作家は耳だけがいいのではない。小説を面白くする奸計にも長けているのだ。

(とよざき・ゆみ 書評家)

著者プロフィール

絲山秋子

イトヤマ・アキコ

1966年東京都生れ。早稲田大学政治経済学部卒業後、住宅設備機器メーカーに入社し、2001年まで営業職として勤務する。2003年「イッツ・オンリー・トーク」で文學界新人賞、2004年「袋小路の男」で川端康成文学賞、2005年『海の仙人』で芸術選奨文部科学大臣新人賞、2006年「沖で待つ」で芥川賞を受賞。『逃亡くそたわけ』『ばかもの』『妻の超然』『末裔』『不愉快な本の続編』『忘れられたワルツ』『離陸』など著書多数。

判型違い(文庫)

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