ホーム > 書籍詳細:月の上の観覧車

大切な誰かの面影は、いつも苦い記憶の中。ただ、一心に呼びかける――。

月の上の観覧車

荻原浩/著

1,620円(税込)

本の仕様

発売日:2011/05/27

読み仮名 ツキノウエノカンランシャ
雑誌から生まれた本 小説新潮から生まれた本
発行形態 書籍
判型 四六判変型
頁数 260ページ
ISBN 978-4-10-468905-7
C-CODE 0093
ジャンル 文芸作品
定価 1,620円

もし人生が二度あれば、自分は許しを乞うのだろうか。逃げ出したかった寂しい故郷、守れるはずなどない約束。彼女が隠していた悲しみに、あのころも気付かぬわけではなかったのに……。月光の差し込む観覧車の中で、愛する人々と束の間の再会を遂げる老いた男を描く表題作ほか、もう取り戻せない時間の哀歓が胸を打つ八篇。

著者プロフィール

荻原浩 オギワラ・ヒロシ

1956(昭和31)年、埼玉県生れ。成城大学経済学部卒。広告制作会社勤務を経て、フリーのコピーライターに。1997(平成9)年『オロロ畑でつかまえて』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。2005年『明日の記憶』で山本周五郎賞を、2014年『二千七百の夏と冬』で山田風太郎賞受賞を、2016年『海の見える理髪店』で直木三十五賞を受賞。著作に『ハードボイルド・エッグ』『神様からひと言』『僕たちの戦争』『さよならバースディ』『あの日にドライブ』『押入れのちよ』『四度目の氷河期』『愛しの座敷わらし』『ちょいな人々』『オイアウエ漂流記』『砂の王国』『月の上の観覧車』『誰にも書ける一冊の本』『幸せになる百通りの方法』『家族写真』『冷蔵庫を抱きしめて』『金魚姫』『ギブ・ミー・ア・チャンス』など多数。

目次

トンネル鏡
金魚
上海租界の魔術師
レシピ
胡瓜の馬
チョコチップミントをダブルで
ゴミ屋敷モノクローム
月の上の観覧車

インタビュー/対談/エッセイ

波 2011年6月号より 【『月の上の観覧車』刊行記念インタビュー】 自分の中の「人生」をまるごと書く

荻原浩

“悔やむ”というほど執念深くはなく、しかし誤魔化しようもないくらい苦い。過去も立場も様々な「他人の人生を生きてみた」八つの物語は、シビアでありつつ、人生への不思議な肯定も感じさせる。著者の新境地――。

 他人の人生を生きてみる

 ――この短篇集に収録されている八篇の物語、各作品とも人生の半ばを過ぎた人々が主人公になっています。どのようなことを考えながら、作品をお書きになっていらっしゃったのでしょうか。
小説を書き始めた頃から「自分は一体、どこまで書けるんだろう」ということを、ずっと考えてやってきました。違うジャンルの小説に挑戦してみることもそうですが、それ以上に、自分はどんな人間が書けるのかな、という思いがあって。これまで、いろいろな老若男女に手を伸ばしては引っ込めて……を続けてきたような気がしていたので。
作家にとって、一番簡単なのは自分のことを書くことですよね。僕だってコピーライター時代に書いたデビュー作(『オロロ畑でつかまえて』)は広告会社の話で、まさに身近なことだったから偉そうなことは言えないですが、そこから先に何を書くか。西村賢太さんみたいな人生なら何回書いてもいいんだろうけど、残念ながらそんなに迫力のある生き方をしてこなかった。
だから、自分とは別の人格をたくさん作って、それを短篇という限られた長さの物語の中で描いてみようと決めていました。特に、自分より年上の人生を一人称で書くというのは、あまりやったことがなかったですし、女性が主人公というのも少なかった。「ゴミ屋敷モノクローム」に至っては、主人公ではないですけれども、かなり変わったおばあさんですから。いままで積み残してきたものを、一つ一つ。だから書いている時から、「他人の人生を生きてみる」という感じでしたね。
 ――「他人の人生」、どうでした?
楽しいとキツいは表裏一体ですよ。女の人が何を考えているかなんて僕にとっては完全にフィクションですし、自分より年上の人も「こいつ、分かってないな。そういうもんじゃないよ」って言われてしまうかもしれない。ただ、僕は今年五十五歳になるんですけれども、そろそろ老境もイケるんじゃないかという気持ちも、控え目に(笑)、少しはありました。
「老若男女を描く」というのとちょっと矛盾するようですが、やっぱり最後は、年齢、性別に関係なく「一人の人間というものは、こういうものだ。芯の部分は一緒なんだ」と思って書いたほうがいいと思うんです。「月の上の観覧車」の昭和ヒトケタ生まれの男も、戦前の上海で暮らした「上海租界の魔術師」の老人も、時代背景とか基本的なことは押さえるとして、何かに接した時の人間の心の動き方は、それほど変わらないんじゃないかと。
むしろ、心の根っこの部分で感じていることは同じでも、置かれている立場や時代の制約が、その人の人生を変えてしまう。そうした部分を描きたくて、八つの物語を書いてきたような気もします。「月の上の観覧車」の主人公は、邦画の最盛期に学生時代を送りながら、映画監督の夢を諦めて実家の経営する旅館を継ぎます。こういう人はこういう人で、辛いことがたくさんあるだろうし、もう嫌だと思うこともあるだろうし……。それもあって、書くときは、それぞれの人物の年表を必ず作っていきました。

 スパゲッティナポリタンの作り方

 ――「トンネル鏡」の主人公はバブルの絶頂を経験した証券マン。「レシピ」の主人公は、いまは子育てを終えた専業主婦ですけれども、青春時代には学生運動にのめり込んだボーイフレンドがいた。昭和から平成にかけての世の中の様子が、登場人物たちの過去に深くかかわっていますね。
バブル期の証券マンって、友人にもいましたけれども、本当に異様な生活でしたよね。「なんでコイツに、こんなカネをやる?」っていう給料をもらって、それで風俗に行って使っちゃう(笑)。でも、そのうち本当に厳しいリストラにも直面する。
「トンネル鏡」の彼は僕と同じくらいの年齢という設定ですが、この世代の証券マンは三十代半ばになると、もう同期入社の仲間が半分も残っていなかったんです。彼らがというよりは、時代が彼らの人生をそうしてしまった。この主人公のように、バブル期に知り合って結婚したカップルは、みんなその後、生きづらいんじゃないかな。どちらが悪いというのではなく、それまでの生き方で前提になっていたものが、二人ともゼロになってしまって。
自分とは別の人格を作ると言っても、やっぱりそれは“こうだったかもしれない自分”なんでしょうね。いまこうして小説を書いて、本が出せているから言える話ですけど、僕自身、あのまま広告をやって五十歳になっていたらどうなんだろう。その時の夫婦仲って、どうなんだろう、と。ずっと小説の応募を続けている自分がいたら、それは「トンネル鏡」の夫婦かな。自分自身の“たら、れば”というところもあります。
 ――夫婦仲と言えば、「レシピ」の最後で明かされる、主人公の里瑠子さんの決意は衝撃的ですね。男性にとっては悪夢。女性の読み手は、一番面白かった作品として真っ先に挙げる人も多いですけど。
定年退職の日って、危ないですよね、家に帰ると何が待っているかわからない。よかった、作家で。いや、逆に毎日が危ないのか。
里瑠子さんは、僕が大学に入ったころの四年生のイメージです。全共闘とかの学生運動のしっぽが、まだ残っている世代。学生運動から海外逃亡をしてしまう里瑠子さんの最初の彼氏だって、きっとそこそこいい大学に入ったんだろうけど、大学で別の人生に変わっていく。それを見ていた里瑠子さんの人生も変わる。
 ――里瑠子さんが二番目の彼氏に作ってあげるスパゲッティナポリタンが、泣かせます。喫茶店で食べた記憶を辿って、ケチャップで味をつけてみる。しかも、パスタの茹で方がわからなくて、小さな鍋で麺二つ折り。当然、麺がくっついて“きしめん状”に。この世代ならではの思い出でしょうか。
里瑠子さんの三番目の彼氏になるポパイ野郎(一九七六年創刊の男性ファッション誌「POPEYE」を愛読する登場人物)は、若い頃の自分と重なり合うところもありますね。「POPEYE」読みました、っていう恰好の奴がたくさんいて、僕も髪伸ばしてましたし。陸サーファー……。
 ――「サーフィンやるんですか」って聞かれたら、どうするんですか?
その時は、正直に「やりません」って答えるんですよ。この手の嘘がバレた時の恐ろしさと言ったら、あり得ない!(笑)

 でも、過去には戻りようがない

 ――若者たちの自意識過剰な様子は自分の過去のようで赤面してしまいそうですし、随所で思わずクスリと笑えるユーモラスな場面があるのですけれども、各作品の基調は、ある意味、かなりシビアな印象です。
やっぱり現実には、現実の厳しさがあると思うんです。そこで「うまく行くかも」「なんとかしようね」と感じるような物語も大事にしたいのですが、一方で「なんとかしようね」と思っても、どうにも出来ない人だっている。この作品集では、そこも書いてみたいと思っていました。
「金魚」、「胡瓜の馬」、「チョコチップミントをダブルで」の主人公は、三人とも四十代に入った男ですが、彼らはそろそろ人生を振り返る時期ですよね。ずっと上り坂を登ってきたつもりが、男の平均寿命の真ん中を通り越したと聞いたら、急に下り坂に見えてくる。「違う人生があったかも知れない」と思い始める年齢。でも、過去にはどうしたって戻りようがない。
同窓会で帰郷した「胡瓜の馬」の彼は、幼馴染みの初恋の相手が死んでしまっている。「チョコチップミントをダブルで」の主人公は、離婚した妻と暮らす娘を取り戻すことは出来ない。「金魚」の鬱に苦しんでいる男性も、この先、きっと回復するに違いないと思いたいですけれども、それは誰にも保証できないことでしょう。
それに、じゃあどうすればよかったのか、お前はどこで間違えてしまったのかと言われても、きっといくら考えたところで、明確な答えは見えてこないでしょうしね。すでにやってしまったことは動かしようもなくて、そして明日も人生は続いていく。他にやりようがあったかと自問すれば、やっぱりなかったような気がするし……。彼らの抱えている感情は“悔やむ”というほど執念深くないんだけど、誤魔化しようもないくらい苦い。
改めて考えてみると、このグズグズ感が、男ですよね。「レシピ」の里瑠子さんとは対照的。グズグズと、布団の中で反芻を繰り返す(笑)。
 ――ただ、考え続けていることによってこそ、誰かを記憶にとどめているという部分もありませんか。「ゴミ屋敷モノクローム」では、ゴミを溜め込んだ老婆を説得する市役所の男性職員が語り手ですが、彼のお母さんの「捨てたくないけど、見たくないものってあるだろ」という言葉が印象的でした。
忘れないということと、何かとつながり続けていることは、確かに近い心性なんでしょうね。そういえば『オロロ畑でつかまえて』と『なかよし小鳩組』では離婚した男を登場させましたが、彼らは心の底で「時々でいいから思い出してくれ」といつも願っている。捨てないでくれよ……って、見方によっては、すごい我が儘ではあるんですけどね。だけど、そういうものだよな。
映画版『ガープの世界』のエンディングが、すごく好きなんですよ。ガープはラストで撃たれてしまうんですが、死ぬ前、奥さんに「すべてを忘れないで」と訴える。「胡瓜の馬」の最後の場面には、あの感じが流れ込んできたのかもしれないですね。
 ――シビアな物語なのに、どこかに必ず人生への肯定感がある。不思議な読み味でした。
登場人物たちは“たら、れば”を自問し続けますが、決して過去に戻れるわけではない。この“戻れない”ということ自体が、実は救いなのかもしれませんね。ゲームならリセットが出来るけど、もし人生が何度でも繰り返せてしまったら、逆に間違いを繰り返すことは許されない。それはものすごく辛いことなのかもしれません。
だいたい、今の経験値をゼロに戻して、もう一回、十八歳からやり直せって言われたら嫌だよなあ……。田舎から必要以上のプライドを持って出て、勘違いしつつ生きるって恥ずかしいし。「この嫌な気持ちは、たぶん一カ月あれば薄くなってくれるな」、みたいな耐性も消えちゃうし。
ともかく、今回は自分の中の引き出しを、全部開けてみました。自分の中の「人生」を、まるごと書きました。

判型違い(文庫)

書評

波 2011年6月号より

喪失感を抱えながら生きていく
北上次郎



 大切なものをなくしてしまった人々の物語だ。それは父であり、母であり、妻であり、祖父であり、幼なじみであり、息子である。そういう愛しい人を亡くした哀しみと胸の痛みは、誰にも癒すことはできない。喪失感を抱えながら生きていくしかない。その人生が、その日々が、ここには鮮やかに描かれている。
 この作品集には八編の短編が収録されているが、荻原浩の作品であるから、その喪失感の風景は均一ではない。たとえば、日本海に面した故郷の町に帰る「トンネル鏡」の「私」は、母の待つ故郷にも帰らず、東京で結婚し、離婚し、親孝行もしなかった。その母が亡くなって、いま彼は汽車に乗っている。しかし、母親や家庭や仕事を失っても、この語り手には生きていくという思いがまだある。けっして俯いたままではない。その静かな決意を描いたのがこの短編であるとも言える。
 ところが、同郷の妻との出会い、再会、結婚、デザイン事務所からの独立、失敗、そして妻の死と、「トンネル鏡」と同様にそれまでの人生を振り返るかたちを取ってはいるものの、「金魚」になると、もはやそういう生きる気力はどこにもない。ここに登場する住宅メーカーの営業職、四十三歳の「私」は、妻の死から立ち直れないでいる。言いようのない疲労と諦めが彼の心を押しつぶしている。喪失の風景とは言っても、このように微妙に異なっている。
 この「金魚」で描かれる痛々しさには胸を打たれるが、かと思うと、喪失感から離れるケースもあり、それが孫娘が祖父の死を語る「上海租界の魔術師」。ここでは祖父を懐かしむ感情が穏やかに描かれる。この短編のラストシーンは美しく、印象深い。
 表題作のように、亡くした人が父親であるかのように見せて実は別の人物だったという展開もあれば、視点を変えることもあり、それが役所勤めの渡辺の視点で描く「ゴミ屋敷モノクローム」。ここでは大切なものをなくした主体が語り手ではなく、ゴミ屋敷の住人関口照子であることがラストで判明する仕組みになっている。この老婆がなくしたものはいったい何であったのかは本書を読まれたい。
 このように、変幻自在、大切なものをなくした人のそれぞれの思いがさまざまなかたちで描かれていく。さらに、なくしたものは愛しい人だけではなく、かたちのない何かであったりもする。それが、年に一度だけの娘とのデートを描く「チョコチップミントをダブルで」。ここに登場する康介は木工職人を志願して退職し、すでに十三歳の娘との生活をなくしているが、その娘との年に一度のデートもなくなるかもしれないという将来に対する不安や戸惑いがある。それもまた康介にとっては大切なものだ。
 こういう文脈で考えてみると、「なくしたものをモチーフにした作品集」というコンセプトに括れないのは、「レシピ」のみ。これは定年退職した日の夫の帰りを待つ妻の風景を描く短編で、大学時代の恋人から夫まで、それまでの人生を食べ物とともに回顧する趣向が興味深い。なかなか読みごたえのある一編で、強引に括ってしまえば、この妻が失っていたのは、あるいは歳月なのかもしれないが、そこまで無理やりまとめなくてもいいかも。
 個人的に好きなのは、「胡瓜の馬」。四十歳の「私」が高校の同窓会で帰郷する話である。中学の仲間である俊也の墓参りのシーンが冒頭近くに出てくるので今回亡くなったのはこの友達かなと思うところだが、そうではない。それが誰であるのかここに書いてしまうと読書の興を削いでしまうこともあり得るので、それはやめておく。
 妻と心が離反していないのに、それでも他の異性に惹かれていくという心の動きがいいし(妻と不和であるよりも、このほうがいい。いや、私の好みなんだけど)、彼女がなぜ死んだのか最後までわからないのがもっといい。「どこへ帰るのだろう」という強いひびきが伝わってきて、読み終えると、ざわざわと落ちつかなくなる。
 大切なものをなくした人が、どういう表情をしているのか、何を考えているのか。その複雑な感情が匂うように行間から立ち上がってくるのである。
(きたがみ・じろう 文芸評論家)

感想を送る

新刊お知らせメール

荻原浩
登録する
文芸作品
登録する

書籍の分類

この分類の本