
アナ・トレントの鞄
1,870円(税込)
発売日:2005/07/29
- 書籍
遠くから見つめていたものが、いまなら手に入るかもしれない。いざ仕入れの旅へ――。
あの「鞄」に再会した。出会いは20年前に観た映画のなか。荒涼としたスペインの線路わきで少女が手にしていた。時移り、ポスターにそっくりそのまま写っていた。あの鞄が欲しい。かくして旅が始まる……。むかし目と心を奪われたもの、聞いたことはあるけど見たことのない不思議な品の数々。本書は旅の報告と当商會の最新カタログです。
書誌情報
読み仮名 | アナトレントノカバン |
---|---|
発行形態 | 書籍 |
判型 | 四六判変型 |
頁数 | 128ページ |
ISBN | 978-4-10-477001-4 |
C-CODE | 0095 |
ジャンル | 文芸作品、エッセー・随筆 |
定価 | 1,870円 |
インタビュー/対談/エッセイ
波 2005年8月号より 過去の鞄、未来の鞄 『アナ・トレントの鞄』に寄せて
過去から少年が一人やってきた。少年というのは、いつでも未来を望むものだから、ときにうっかりすると、過去から滲み出てきてこちらに姿をあらわす。
「あの……すみませんが、ここは未来でしょうか?」
少年がおそるおそる訊くので、
「ええと……君が過去から来たなら、たしかにここは未来です」
突然のことで、こちらもトンチンカンな答えしかできない。こちらにしてみれば未来でも何でもないのだが。
深夜のコンビニエンス・ストアでの出来事だ。
「コーヒー牛乳が飲みたい」と少年は言った。しかし、そう簡単には見つからない。牛乳やらジュースやらが並ぶ棚の前で物色してみると、もちろんそれらしきものはあるが、ラベルに〈ミラノ・テイスト〉と謳っている。
「〈ミラノ・テイスト〉って何のことですか?」と少年は鋭く質問した。「こっちの〈フレンチ〉というのは? 〈本格派〉って? 〈焙煎仕立て〉っていうのは僕には読めません」
過去から来た少年に言われて初めて気づいたが、たしかにじつに複雑なことになっている。どうやら、いろいろ上乗せしてあるらしい。しかし何も上乗せしていない「ただのコーヒー牛乳」が見当たらない。
「うーん……」と、少年の要望に応えられず唸っていたら、
「アナ・トレントっていうのは何ですか?」と追い討ちをかけるように質問された。
アナ・トレントは女優の名で、三十年ほど前にスペインでつくられた『ミツバチのささやき』という映画に出演していた。そのときまだ彼女は少女で、白いコートを羽織り、手に革の鞄を提げていた。子供の手に馴染むようつくられた小さな洒落た鞄がじつに新鮮だった。まだ東京に深夜営業のコンビニが出現する前のことで、コーヒー牛乳には何の上乗せもされていなかったはずだ。
だから、彼女も間違いなく「過去」の少女ということになる。それも非常に遠い場所に立っている印象がある。
その彼女が予告もなしにこちらに姿をあらわした。
二○○三年九月、スペインのサン・セバスチャンで開かれた映画祭のポスターに、『ミツバチのささやき』をモチーフにした写真が使われていた。三十年前の映画の一シーンを再現し、汽車の線路の上に立ってこちらを見据えているひとりの少女――いや、それはたしかにあのアナ・トレント嬢に違いないが、驚いたことにそのポスターのアナはかつての少女ではなく、成熟した女性として、しかし少女のときの格好のまま、こちらをじっと見つめていた。線路が時間のパースペクティブに見えてくる。白いコートもそのままに、よく見ればあの鞄もあった。
それが鞄であったからなのか、それとも過去からつづいてきたような線路のせいなのか、自然と旅に出たくなって、それならばと、他でもないその鞄を探してみようと無謀な計画を思いついた。その思いつきには、コーヒー牛乳が好きな少年とのやりとりも影響している。
「じゃあ、未来にはただのコーヒー牛乳はないんですね」
少年が残念そうに言うので、
「いや、〈ミラノ・テイスト〉も悪くないよ」
少年の前途を案じて未来の宣伝をしておいた。それに、探せばどこかに「ただのコーヒー牛乳」もまだあるはずだ。
過去からあらわれたこの名もなき少年と、名だたる少女に触発されてこの本をつくった。上乗せをしたり、しなかったり。過去と未来のどちらにも届くようにと願いながらつくった。
「あの……すみませんが、ここは未来でしょうか?」
少年がおそるおそる訊くので、
「ええと……君が過去から来たなら、たしかにここは未来です」
突然のことで、こちらもトンチンカンな答えしかできない。こちらにしてみれば未来でも何でもないのだが。
深夜のコンビニエンス・ストアでの出来事だ。
「コーヒー牛乳が飲みたい」と少年は言った。しかし、そう簡単には見つからない。牛乳やらジュースやらが並ぶ棚の前で物色してみると、もちろんそれらしきものはあるが、ラベルに〈ミラノ・テイスト〉と謳っている。
「〈ミラノ・テイスト〉って何のことですか?」と少年は鋭く質問した。「こっちの〈フレンチ〉というのは? 〈本格派〉って? 〈焙煎仕立て〉っていうのは僕には読めません」
過去から来た少年に言われて初めて気づいたが、たしかにじつに複雑なことになっている。どうやら、いろいろ上乗せしてあるらしい。しかし何も上乗せしていない「ただのコーヒー牛乳」が見当たらない。
「うーん……」と、少年の要望に応えられず唸っていたら、
「アナ・トレントっていうのは何ですか?」と追い討ちをかけるように質問された。
アナ・トレントは女優の名で、三十年ほど前にスペインでつくられた『ミツバチのささやき』という映画に出演していた。そのときまだ彼女は少女で、白いコートを羽織り、手に革の鞄を提げていた。子供の手に馴染むようつくられた小さな洒落た鞄がじつに新鮮だった。まだ東京に深夜営業のコンビニが出現する前のことで、コーヒー牛乳には何の上乗せもされていなかったはずだ。
だから、彼女も間違いなく「過去」の少女ということになる。それも非常に遠い場所に立っている印象がある。
その彼女が予告もなしにこちらに姿をあらわした。
二○○三年九月、スペインのサン・セバスチャンで開かれた映画祭のポスターに、『ミツバチのささやき』をモチーフにした写真が使われていた。三十年前の映画の一シーンを再現し、汽車の線路の上に立ってこちらを見据えているひとりの少女――いや、それはたしかにあのアナ・トレント嬢に違いないが、驚いたことにそのポスターのアナはかつての少女ではなく、成熟した女性として、しかし少女のときの格好のまま、こちらをじっと見つめていた。線路が時間のパースペクティブに見えてくる。白いコートもそのままに、よく見ればあの鞄もあった。
それが鞄であったからなのか、それとも過去からつづいてきたような線路のせいなのか、自然と旅に出たくなって、それならばと、他でもないその鞄を探してみようと無謀な計画を思いついた。その思いつきには、コーヒー牛乳が好きな少年とのやりとりも影響している。
「じゃあ、未来にはただのコーヒー牛乳はないんですね」
少年が残念そうに言うので、
「いや、〈ミラノ・テイスト〉も悪くないよ」
少年の前途を案じて未来の宣伝をしておいた。それに、探せばどこかに「ただのコーヒー牛乳」もまだあるはずだ。
過去からあらわれたこの名もなき少年と、名だたる少女に触発されてこの本をつくった。上乗せをしたり、しなかったり。過去と未来のどちらにも届くようにと願いながらつくった。
(作家・デザイナー)
著者プロフィール
クラフト・エヴィング商會
クラフトエウ゛ィングショウカイ
吉田浩美、吉田篤弘の2人による制作ユニット。著作の他に、装幀デザインを多数手がけ、2001年、講談社出版文化賞・ブックデザイン賞を受賞。著作リスト○クラフト・エヴィング商會・著『どこかにいってしまったものたち』『クラウド・コレクター/雲をつかむような話』『すぐそこの遠い場所』『らくだこぶ書房21世紀古書目録』『ないもの、あります』『テーブルの上のファーブル』(以上、筑摩書房)『じつは、わたくしこういうものです』(平凡社)○クラフト・エヴィング商會プレゼンツ・吉田音・著『Think/夜に猫が身をひそめるところ』『Bolero/世界でいちばん幸せな屋上』(筑摩書房)○クラフト・エヴィング商會プレゼンツ『犬』『猫』(中央公論新社)○吉田浩美・著『a piece of cake ア・ピース・オブ・ケーキ』(筑摩書房)○吉田篤弘・著『フィンガーボウルの話のつづき』『針がとぶ Goodbye Porkpie Hat』(新潮社)『つむじ風食堂の夜』『百鼠』(筑摩書房)。
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