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2,090円(税込)

発売日:2019/11/27

  • 書籍

荒らされた家、消えた猫……本当に失ったものは何だったのか。

ふたりの子どもと妻を残して、夫は若い女と暮らすために家を出た。四十年前の危機を、乗り越えてきたはずの家族。彼らを繋ぎ留めていた紐帯は、留守宅を襲う何者かによって、ぷつりと断たれた――。ジュンパ・ラヒリが惚れ込んで英訳し、全米で絶賛された家族小説。

  • 映画化
    靴ひものロンド(2022年9月公開)

書誌情報

読み仮名 クツヒモ 
シリーズ名 新潮クレスト・ブックス
装幀 Mayumi Tsuzuki/イラストレーション、新潮社装幀室/デザイン
発行形態 書籍
判型 四六判変型
頁数 208ページ
ISBN 978-4-10-590161-5
C-CODE 0397
ジャンル 文学・評論
定価 2,090円

書評

軽やかな混沌

角田光代

「第一の書」は、家を出ていった夫に宛てた、妻の手紙からはじまる。「もしも忘れているのなら、思い出させてあげましょう。私はあなたの妻です」というその手紙から、この夫婦の事情がだんだんと見えてくる。
 二十代のはじめに結婚した夫と妻は、結婚十二年目である。二人の子どもがいる。四歳違いの兄サンドロと妹アンナ。どうやら夫は、家の外に愛する人ができて家を出ていったようだ。この愛人は十九歳。そのまま離婚というシンプルな選択にはならず、一か月も留守にしたと思うと夫はふらりと帰ってくる。そのたび妻は、生活が元に戻るのではないかと期待する。しかしそうはならず、夫はまた愛人の元に出ていく。そんな生活が四年も続く。
 この最悪な結婚生活がどうなったか知らされないまま、第一の書はすとんと終わる。次の第二の書に登場するのは、ヴァカンスに出かけようとしている老夫婦である。
 この夫婦はだれ? と読み手である私はじりじりした気持ちで読み進める。さまざまな可能性がある。出ていった夫と若かった愛人? あるいはほかのだれか? 出ていかれた妻と、その後の再婚相手? あるいは――、とめまぐるしく考え、この夫婦がだれであるのかわかってびっくりする。「そんな、嘘だあ!」と私は心のなかで叫んだほどである。そんなふうに、現実の知人にたいするのと同じような反応をしてしまうくらい、第一の書で、この小説世界に浸りこんでしまったのである。
 ヴァカンスに向かう老いた夫婦は、かつてすったもんだしていた、あの二人である。妻が夫を見捨てなかったことにも、夫が妻のもとに帰ったことにも、驚いてしまう。そんなことってあるんだ、と、これもまた、現実の知人に思うように深く感心する。夫の語りによるこの第二の書で、あの奇妙な生活――夫が愛人と妻のあいだを不定期にいききしていた四年間――ののち、何があったのかがわかる。夫に、妻に、子どもたちに、この家族全体に、愛人に、何が起きて、それぞれがどうその日々を過ごしてきたのか。わかってくると、ぞわぞわとこわくなってくる。愛人ではなく家族を選んだ夫の選択は、いったい彼らのうちのだれに平安をもたらしたというのだろう。
 私は最初、この夫はなんと自由で身勝手な男だろうと思っていたが、そうではないと気づいて、そのことにぞっとした。この夫は自身の内に、相反する矛盾を矛盾のまま抱えているだけなのだ。しかもまったく自覚せずに。家族を続けたいが、恋愛に生きてもいたい。自由を欲しながら、束縛を求めている。何も失いたくはなく、何も持っていたくはない。彼はその矛盾にただ、翻弄され続ける。何も決定しないまま。
 いや、矛盾を抱えているのは夫だけではない。夫を糾弾しながら待ち続け、夫に憤怒しながら受け入れた妻もまた、大いなる矛盾を抱えている。さらには、家族、二人の子どもが成長していった彼らの家もまた矛盾に満ちていたことが、第三の書では暴かれる。登場人物のひとりは言う。「この家には、表面的な秩序と、実質的な無秩序があるんだ」。ひとりの人間の抱える矛盾は目に見えないが、この家に満ちた矛盾は、この第三の書でグロテスクなまでに暴かれていく。
 ミステリー小説ではないが、謎を追うように夢中で読み進めてしまう。先へ進むごとに、静かな残酷さが際立ってきて、矛盾をこれほどまでに飼い慣らせる人というものも、矛盾をはらみつつ強度を増す関係というものも、おそろしくなってくる。
 でもこの小説は、矛盾をはらんだ人間、矛盾をはらんだ人生というものを、断じてはおらず否定してもいない。だから、読みながらどれほどおそろしい思いをしようと、人や人生に嫌悪感を持てない。読後感は軽やかですらある。
 タイトルの「靴ひも」は、作中で、あるエピソードで語られるちょっとしたものだが、こんなふうな、日々の暮らしのなかのどうということのないちっぽけなものが、ひとりの人間の内にある矛盾をやわらかく結びつけ、ときに、人と人を強く結びつけることもあるのだと思う。この「靴ひも」のなんでもなさ、重みのなさ、存在感のなさが、軽やかで、どこか明るくすらある読後感と関係しているのかもしれない。

(かくた・みつよ 作家))
波 2019年12月号より
単行本刊行時掲載

短評

▼Kakuta Mitsuyo 角田光代

恋人を作って家に戻らない夫。夫に手紙を書き続ける妻。双方の親のもとを行き来する、幼い兄妹。読み手を一気に小説世界に引きこむこの小説は、相反する感情や状況に満ちている。拒絶と許容、愛情と無関心、自由への渇望と束縛への希求。それらはまったく矛盾なく、ひとつの家のなかに、ひとりの人間の内に、おさまっている。そしてまさに「靴ひも」のようなちっぽけなもので、相反するふたつは強く結びつけられる。読み進むにつれてじわじわとこわくなるが、小説は、読み手を絶望させない。人生というものを、嫌悪させない。


▼Corriere del Mezzogiorno コッリエーレ・デル・メッゾジョルノ紙

緊迫した感情描写や文体の緻密さ、強烈な真実を突きつけてくる並外れた語りの能力において、じつに優れた小説だ。ここに描かれている出来事は普遍的であり、だからこそ、読者の一人ひとりが自らの個人的な経験という物差しに当てはめて捉えることができる。本書は、欲望や現実逃避、そして挫折をめぐる、短いけれどもスケールの大きな小説だ。


▼ジュンパ・ラヒリ

この小説は、どんなジャンルやカテゴリーにも属さない。巧みなミステリーでもあり、過ちの喜劇でもあり、ホームドラマでもあり、悲劇でもある。性の革命、女性解放、合理的あるいは不合理な衝動に対する、鋭い論評だと言うこともできるだろう。比率の完璧な立方体のようなもので、くるりとひっくり返せば、別の面が現われる。


▼La Stampa ラ・スタンパ紙

ドメニコ・スタルノーネは、型には納まりきらない、一匹オオカミともいえる作家だ。個人的な体験と社会にとっての必要性をベースに文学と向き合い、アイロニーとグロテスクが塩梅よく混在する内省的な文体でそれを表現する。


▼Il Piccolo イル・ピッコロ紙

家族との日常における沈黙や病理をむごたらしくも掘り起こす「三重唱小説」を書くことに成功している。

著者プロフィール

1943年、ナポリ生まれ。作家、脚本家。大学卒業後、ローマの高校で教鞭をとりながら、「イル・マニフェスト」紙の文化面に携わる。1987年、『教壇から』で作家デビュー。教育現場を舞台にした作品を次々に発表し、映画やテレビドラマの脚本家としても活躍。2001年、自伝的小説『ジェミト通り』でストレーガ賞を受賞した。他に『質問されたときだけ』『アリスティデ・ガンビーアの性遍歴』など、20以上の作品がある。

関口英子

セキグチ・エイコ

埼玉県生まれ。翻訳家。訳書に、パオロ・コニェッティ『帰れない山』、カルミネ・アバーテ『風の丘』『海と山のオムレツ』、プリーモ・レーヴィ『天使の蝶』、アルベルト・モラヴィア『同調者』、ベアトリーチェ・サルヴィオーニ『マルナータ 不幸を呼ぶ子』など。『月を見つけたチャウラ ピランデッロ短篇集』で第1回須賀敦子翻訳賞受賞。

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