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別れの色彩

ベルンハルト・シュリンク/著 、松永美穂/訳

2,310円(税込)

発売日:2023/03/01

  • 書籍
  • 電子書籍あり

振り返ると、そこに忘れ得ぬ「あの日」の色がある。ドイツのベテラン作家の円熟作。

年齢を重ねた今だからわかる、あの日の別れへの後悔、そしてその本当の意味を――。男と女、親と子、友だち、隣人。『朗読者』で世界中の読者を魅了したドイツの人気作家が、「人生の秋」を迎えた自らの心象風景にも重ねて、さまざまな人々のあの日への思いを綴る。色調豊かな紅葉の山々を渡り歩くかのような味わいに包まれる短篇集。

目次
人工知能
アンナとのピクニック
姉弟の音楽
ペンダント
愛娘
島で過ごした夏
ダニエル、マイ・ブラザー
老いたるがゆえのシミ
記念日
訳者あとがき

書誌情報

読み仮名 ワカレノシキサイ
シリーズ名 新潮クレスト・ブックス
装幀 Maeda Masayoshi/Sculpture, Painting & Photograph、新潮社装幀室/デザイン
発行形態 書籍、電子書籍
判型 四六判変型
頁数 264ページ
ISBN 978-4-10-590186-8
C-CODE 0397
定価 2,310円
電子書籍 価格 2,310円
電子書籍 配信開始日 2023/03/01

書評

じわりじわりと心にしみる

永江朗

 このところ、好きだったミュージシャンや愛読した作家、仕事で言葉を交わした人、大学の研究室が隣り合わせだった人など、知っている人の訃報が続く。「会うは別れの始め」とか「『サヨナラ』ダケガ人生ダ」とか、あるいは「愛別離苦」とか、若いころはそんな言葉を聞いても、重くは受けとめなかった。ところが還暦を過ぎたあたりから、切実なものとして感じられるようになった。訃報をきっかけに、その人のいろいろなことを思い出す。「もっと言葉を交わしておくのだった」などと後悔をともなって。
 だからベルンハルト・シュリンクの『別れの色彩』は、じわりじわりと心にしみる。一種の老人文学ですね、これは。いや、もちろん若い人にもおすすめします。
 九つの短篇で構成される。それぞれ登場人物や舞台は異なり、「別れ」という題材だけが共通している。
「別れ」はその人との関係性を否応なくあぶり出す。
 たとえばこの短篇集のいちばん最初に置かれた「人工知能」。「ぼく」が幼馴染みのアンドレアスについて語る作品。「ぼく」はベルリンに、アンドレアスはバイエルン地方に住んでいたが、アンドレアスが亡くなるまで一緒に山歩きをしたりコンサートやオペラに行ったりしていたというのだから、かなり仲のいい友人といっていいだろう。
 アンドレアスが亡くなったあとも、「ぼく」は彼と心のなかで対話したという。だが、〈彼が生きているときには、この友情に突然問題が生じるかもしれないという不安があったのに対し、死んだアンドレアスとの対話は屈託のないものだった〉と記すあたりから不穏な雰囲気が出てくる。
 問題はその不安の中身だ。
「ぼく」とアンドレアスは、ともに旧東ドイツの数学者で、総合情報科学(サイバネティクス)と情報工学の若きスターだった。アンドレアスは西ドイツへの逃亡を計画したが、「ぼく」が秘密警察に密告したために失敗に終わった。アンドレアスは刑務所に送られ、出世の道は閉ざされた。そして、「ぼく」が彼に取って代わった。
 なぜ密告したのか。「ぼく」は本心を明かさない。幼馴染みを妬んだのか、彼が就くかもしれないポストを横取りしたかったのか。
 やがてベルリンの壁が崩され、ドイツは統一される。「ぼく」はITコンサルタントとして生きのびる。いや、それどころか成功する。時代の波に乗るのがうまいのだ。一方で、密告の過去を隠したままアンドレアスとの交流を続けた。アンドレアスが死んだときはほっとしただろう。これで秘密が露見するという不安におびえる必要はなくなった、と。ところがアンドレアスの娘、レーナがあらわれて、秘密警察の資料を閲覧すると言い出し、「ぼく」は再び不安のなかに突き落とされる。
 この短篇には、人間の過去とのつき合い方、折り合いのつけ方がよくあらわれている。「ぼく」は密告したことを悔いていないという。密告したことを隠してアンドレアスとつき合い続けたことも悔いていない。それどころか、密告はアンドレアスのためになったのだと正当化すらしている。そう言いながら、秘密が露見することを恐れている。ほんとうに「ぼく」は過去を悔いていないのだろうか。アンドレアスが死んだことで、「ぼく」は彼に詫びる機会を永遠に失った。
「姉弟の音楽」は五十年の時を経て男女が再会する話。十代のころ、ふたりは同級生だった。少年の家は貧乏で、少女の家は大金持ち。少女には車椅子生活の弟がいる。少女は少年を頻繁に自宅に誘い、弟の遊び相手になるよう仕向ける。少年の恋心を意識的に利用したのだ。弟は少年を大歓迎し、仲良くなるが、やがて少年は三人の関係が重荷になる。少年は逃げ出すようにアメリカに留学する。そして偶然、半世紀ぶりにかつての少年と少女が再会する。
 男には、自分が裏切って逃げたという負い目がある。しかし、負い目があるのは男だけではない。女と弟の間に何があったのかが明かされる。
 どの作品も結末までにひとひねり、ふたひねりある。「ああ、こういうふうに終わるのか」と、止めた息を吐き出しながらページを閉じる。

(ながえ・あきら 書評家)
波 2023年3月号より
単行本刊行時掲載

短評

▼Nagae Akira 永江朗

「別れ」を題材にした九つの短篇小説。出会いのそれと同じく、別れのかたちもさまざまだ。別れには過去の記憶がともなう。友人を秘密警察に密告した東ドイツ出身の数学者。車椅子生活の友人から逃れて留学した音楽史家。ホームステイする若い娘と浮気をした政治家。作家と同世代である70歳前後の男を主人公にした物語が多い。過去を振り返れば、後悔も生まれる。あるいは、後悔する自分を否定して、過去を正当化しようとする気持ちも。時の経過とともに、あやまちも美しい思い出になるだろうか。いや、傷跡はいつまでも生々しい。


▼ZDF heute journal ZDFホイテ・ジャーナル

夏の終わりにぴったりの素晴らしい読み物。ちょっと切なくて、そこはかとなくエロティックで、時にちょっぴりキッチュで、何かに焦がれる感情に満ち溢れている。老練の作品だが、これが最後というムードには程遠い。


▼Sachsische Zeitung ゼクシシェ・ツァイトゥング紙

九つの素晴らしい室内劇。シュリンクは、人々が意図的に、あるいはついうっかり、互いに互いをどのようにしてしまうかを描いている。作家は脆く壊れやすい愛のスペシャリストである。


▼Ruhr Nachrichten ルール・ナッハリヒテン紙

ベルンハルト・シュリンクは物語という小さな形にさえ人生全体を詰め込む術を心得ているのだ。

著者プロフィール

1944年ドイツ生まれ。小説家、法律家。ハイデルベルク大学、ベルリン自由大学で法律を学び、ボン大学、フンボルト大学などで教鞭をとる。1987年、『ゼルプの裁き』(共著)で作家デビュー。1995年刊行の『朗読者』は世界的ベストセラーとなり2008年に映画化された(邦題『愛を読むひと』)。他の作品に『週末』(2008)、『夏の嘘』(2010)、『階段を下りる女』(2014)、『オルガ』(2018)など。ベルリンおよびニューヨークに在住。

松永美穂

マツナガ・ミホ

早稲田大学教授。訳書にベルンハルト・シュリンク『朗読者』(毎日出版文化賞特別賞受賞)『階段を下りる女』『オルガ』、ウーヴェ・ティム『ぼくの兄の場合』、ヘルマン・ヘッセ『車輪の下で』、ヨハンナ・シュピリ『アルプスの少女ハイジ』、ラフィク・シャミ『ぼくはただ、物語を書きたかった。』ほか多数。著書に『誤解でございます』など。

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