
団地の時代
1,320円(税込)
発売日:2010/05/25
- 書籍
今なぜ、団地が新しいのか?
高度成長期に先進的な住まいとして憧れの的だった「団地」。その輝かしい歴史と老朽化した現在、ニュータウンやマンションとの比較、団地文化が花開いた西武沿線と一戸建て中心の東急沿線……さまざまな対照から浮かび上がるのは、戦後日本の姿と、少子化・高齢化社会の未来だった。同世代の政治学者と作家が語る、自分史的日本論。
年表・団地の時代
書誌情報
読み仮名 | ダンチノジダイ |
---|---|
シリーズ名 | 新潮選書 |
発行形態 | 書籍 |
判型 | 四六判変型 |
頁数 | 264ページ |
ISBN | 978-4-10-603657-6 |
C-CODE | 0395 |
ジャンル | 文学賞受賞作家、社会学 |
定価 | 1,320円 |
書評
波 2010年6月号より フェア新刊書評 クロスレビュー
空間の記憶――年配の方たちにインタビューをするとき、その重要性を痛感することがある。付け焼刃の歴史的知識で臨んでも、生々しい記憶を持つ当事者の体験に迫ることはできず、大抵逆にレクチャーをいただくことになってしまう。政治、思想、運動などの歴史像はそう簡単には揺るがない。しかし、インタビュイーたちが時折「隙」を見せてくれるときがある。どの街で飲んでいたか、どの場所で屯していたか、どこでデートしていたか――つまりは、大文字の歴史とはずれたところにある、私的な空間についての記憶を語るときである。活字化されることのなかった空間や場所の記憶、それを語るときの彼らの表情は、「正史」を語るときと違い、とても輝いている。たとえそれが、苦しかった頃の思い出であっても。空間、場所の記憶は、歴史への頑なな意味づけを一瞬解除し、世代を媒介するメディアとして機能する。
原武史は、そうしたメディアとしての歴史を、記録と記憶をもとに再現する名手である。『滝山コミューン一九七四』は、自身の記憶と、残された記録、インタビューを総動員して、いまだ過去になりきっていない団地的な日常世界の政治性を見事に描き出していた。記憶と記録が入り乱れている近過去を振り返ることには、独特の甘酸っぱいノスタルジーと生々しい体験への抵抗作用(総括)が伴う。そのいずれにも回収されない緊張感を原の一連の著作は提示している。本書は、その原と、原と同様に郊外的なものの歴史性・社会性に目を向けてきた作家重松清との語り下ろし対談。戦後民主主義的な感性とどこか繋がりを持つ郊外的なものは、特定の世代のみに限定されたものではない。多かれ少なかれ、戦後日本社会に生きた人びとは団地的な価値観と関わりを持ってきた。この対談本が、同世代の思い出にとどまることのないある種の普遍性を持っているのもそのためである。
「科学」と「学習」をむさぼり読む小学生、道端や校門前で子供相手にあやしげなものを売りつけている大人、性的な記号として流通した「団地妻」、なぜか「エゴイスティックなもの」として排除されていた中学受験――原や重松と10歳ほど年の離れている私にも濃厚に記憶に残っている風景だ。その風景が、具体的に、歴史的背景と結びつけられながら、同世代の対談であるがゆえにいい意味で身構えることなく、リズムをもって描き出されていく。活字化された政治史とは異なるいわば社会の肌理のようなものが浮かび上がってくる。そしてそれは間違いなく、大文字の歴史よりもずっと深度をもって世代の記憶を媒介していくだろう。その媒介作業の模範ともいえる対談の記録である。

酒井順子/団地はみんなの「ホーム」になる
友人のブログを見ていたら、「団地の中に可愛いカフェをみつけました」という文章が載っていました。写真を見れば、確かにそこは、レトロ感漂う小洒落たカフェ。「今時の団地ってこんなことになってるんだぁ」と、私は驚いたのです。
またある若い友人は、「団地妻に憧れている」と言います。「毎朝、団地の窓から旦那さんに『行ってらっしゃ~い』と手を振ったり、隣の奥さんとおかずをわけあったりしたいのだ」、と。
団地って今、静かなブームなのかも?と思ったところにこの本を読んだ私は、その理由がわかった気がしたのです。団地というと、都心から遠くてエレベーターもなくてあまり近代的でない住居、というイメージがあったのですが、原さん一家が団地に住み始めた六〇年代、団地は人々の憧れの存在で、一軒家よりも素敵とされた、と。その輝かしい時代がかつてあったからこそ、三十年余がたった今、団地はレトロで可愛い存在となり始めているのではないか。
本書において印象的だったのは、団地は共同住宅であって、マンションのような集合住宅ではない、という部分です。個としての生活を単に「集合」させたのではなく、そこは「共同」で生活する場であったということを知って、私は目からウロコが落ちた気分に。私は団地に住んだ経験を持たないのですが、原さんと重松さんの対話からは、落語に出てくる長屋の生活が想像されるのです。
建物の老朽化、住人の高齢化等、かつて活気にあふれていた団地は、今さまざまな問題を抱えています。立地等の条件によって、人気がある団地と、ガラガラの団地との差が大きかったり、多くの住民が外国人というところもあるのだそうです。
しかし、団地の中に今風のカフェができたり、団地妻に憧れる若い女性がいたりという現象は、団地が持つ「共同」感に対する憧憬が、今の人達の中に生まれてきたということかもしれない、と私は思うのです。団地は、東京の人も地方の人も、若い人もお年寄りも、日本人も外国人も迎え入れてくれるハコであり、ホームとなりつつある。
団地で育った原さんの言葉からは、確かに郷土愛のようなものが感じられます。団地で育った人が、その土地ではなく団地そのものに郷土愛を抱くのは、そこに「共同」意識があったからなのでしょう。
本書を読んで、団地住民と近隣の大学生との連携が始まっていたりという、団地をめぐる新しい動きがあることを、私は知りました。団地という近過去の遺産を、団地に対する先入観を持たない世代がこれからどう利用していくか、楽しみにも思えてきたのでした。
波 2010年6月号より フェア新刊書評 クロスレビュー
空間の記憶――年配の方たちにインタビューをするとき、その重要性を痛感することがある。付け焼刃の歴史的知識で臨んでも、生々しい記憶を持つ当事者の体験に迫ることはできず、大抵逆にレクチャーをいただくことになってしまう。政治、思想、運動などの歴史像はそう簡単には揺るがない。しかし、インタビュイーたちが時折「隙」を見せてくれるときがある。どの街で飲んでいたか、どの場所で屯していたか、どこでデートしていたか――つまりは、大文字の歴史とはずれたところにある、私的な空間についての記憶を語るときである。活字化されることのなかった空間や場所の記憶、それを語るときの彼らの表情は、「正史」を語るときと違い、とても輝いている。たとえそれが、苦しかった頃の思い出であっても。空間、場所の記憶は、歴史への頑なな意味づけを一瞬解除し、世代を媒介するメディアとして機能する。
原武史は、そうしたメディアとしての歴史を、記録と記憶をもとに再現する名手である。『滝山コミューン一九七四』は、自身の記憶と、残された記録、インタビューを総動員して、いまだ過去になりきっていない団地的な日常世界の政治性を見事に描き出していた。記憶と記録が入り乱れている近過去を振り返ることには、独特の甘酸っぱいノスタルジーと生々しい体験への抵抗作用(総括)が伴う。そのいずれにも回収されない緊張感を原の一連の著作は提示している。本書は、その原と、原と同様に郊外的なものの歴史性・社会性に目を向けてきた作家重松清との語り下ろし対談。戦後民主主義的な感性とどこか繋がりを持つ郊外的なものは、特定の世代のみに限定されたものではない。多かれ少なかれ、戦後日本社会に生きた人びとは団地的な価値観と関わりを持ってきた。この対談本が、同世代の思い出にとどまることのないある種の普遍性を持っているのもそのためである。
「科学」と「学習」をむさぼり読む小学生、道端や校門前で子供相手にあやしげなものを売りつけている大人、性的な記号として流通した「団地妻」、なぜか「エゴイスティックなもの」として排除されていた中学受験――原や重松と10歳ほど年の離れている私にも濃厚に記憶に残っている風景だ。その風景が、具体的に、歴史的背景と結びつけられながら、同世代の対談であるがゆえにいい意味で身構えることなく、リズムをもって描き出されていく。活字化された政治史とは異なるいわば社会の肌理のようなものが浮かび上がってくる。そしてそれは間違いなく、大文字の歴史よりもずっと深度をもって世代の記憶を媒介していくだろう。その媒介作業の模範ともいえる対談の記録である。

酒井順子/団地はみんなの「ホーム」になる
友人のブログを見ていたら、「団地の中に可愛いカフェをみつけました」という文章が載っていました。写真を見れば、確かにそこは、レトロ感漂う小洒落たカフェ。「今時の団地ってこんなことになってるんだぁ」と、私は驚いたのです。
またある若い友人は、「団地妻に憧れている」と言います。「毎朝、団地の窓から旦那さんに『行ってらっしゃ~い』と手を振ったり、隣の奥さんとおかずをわけあったりしたいのだ」、と。
団地って今、静かなブームなのかも?と思ったところにこの本を読んだ私は、その理由がわかった気がしたのです。団地というと、都心から遠くてエレベーターもなくてあまり近代的でない住居、というイメージがあったのですが、原さん一家が団地に住み始めた六〇年代、団地は人々の憧れの存在で、一軒家よりも素敵とされた、と。その輝かしい時代がかつてあったからこそ、三十年余がたった今、団地はレトロで可愛い存在となり始めているのではないか。
本書において印象的だったのは、団地は共同住宅であって、マンションのような集合住宅ではない、という部分です。個としての生活を単に「集合」させたのではなく、そこは「共同」で生活する場であったということを知って、私は目からウロコが落ちた気分に。私は団地に住んだ経験を持たないのですが、原さんと重松さんの対話からは、落語に出てくる長屋の生活が想像されるのです。
建物の老朽化、住人の高齢化等、かつて活気にあふれていた団地は、今さまざまな問題を抱えています。立地等の条件によって、人気がある団地と、ガラガラの団地との差が大きかったり、多くの住民が外国人というところもあるのだそうです。
しかし、団地の中に今風のカフェができたり、団地妻に憧れる若い女性がいたりという現象は、団地が持つ「共同」感に対する憧憬が、今の人達の中に生まれてきたということかもしれない、と私は思うのです。団地は、東京の人も地方の人も、若い人もお年寄りも、日本人も外国人も迎え入れてくれるハコであり、ホームとなりつつある。
団地で育った原さんの言葉からは、確かに郷土愛のようなものが感じられます。団地で育った人が、その土地ではなく団地そのものに郷土愛を抱くのは、そこに「共同」意識があったからなのでしょう。
本書を読んで、団地住民と近隣の大学生との連携が始まっていたりという、団地をめぐる新しい動きがあることを、私は知りました。団地という近過去の遺産を、団地に対する先入観を持たない世代がこれからどう利用していくか、楽しみにも思えてきたのでした。
担当編集者のひとこと
団地の時代
同世代の二人が、団地を通して「戦後日本」を語りつくす!『鉄道ひとつばなし』シリーズなどで「鉄道エッセイスト」としても人気の原武史さんの本職は、日本政治思想史の研究です。じつは鉄道への興味もいわゆる「マニアック」なものではなく、日本の近代における鉄道の役割を考えるなど、どこか「思想史」の問題と関わっていることが著書から伝わってきます。
原さんは東京の北西郊、西武新宿線と西武池袋線に挟まれた「滝山団地」で小学生時代を過ごした「団地っ子」でした。2007年に上梓した『滝山コミューン一九七四』は、当時の経験を綴った自伝的ノンフィクションとして高い評価を得ました。
一方、作家の重松清さんは岡山県生まれ。父君の仕事の関係で西日本の都市を転々とした「団地っ子」ならぬ「社宅の子」でした。大学進学のため上京して以降は主に東京西郊に住み、『定年ゴジラ』など、ニュータウンを舞台とした小説を多く発表しているのはご存知の通りです。
そんな重松さんが『滝山コミューン…』を手に取ったのは自然なことでした。一読して戦後日本の問題が集約されていると看破した重松さんは、同じ1960年代初めに生まれた二人のそれぞれの「住まいの体験」を語りながら、自分たちが生きてきた時代を見つめ直そうと、原さんとの対談を提案してくださったのでした。
団地が盛んに建てられた1960年代、最新の設備をそなえた団地に住むのはステータスでした。70年代には供給が増え、その人気に陰りが出てくる一方でニュータウンが注目を浴び、現在はニュータウンも住民の高齢化などの問題に直面している……。時代の流れの中で日本人の「住まいの形」はさまざまに変わってきました。そして今、改めて「団地」の持つ可能性とは何なのか? 常に「団地」を外から見つめてきた重松さんが、「団地を軸に戦後思想史を捉え直したい」という原さんに鋭く問いかけ、原さんは左翼思想の影響や鉄道路線との関係など、多彩な視点で重松さんの疑問に答えてゆきます。
本書はそんな真摯な「住まいの戦後史」であるばかりでなく、映画の中の「団地妻」の浮気について考えたり、原さんが大学時代に「鉄ちゃん」であることをひた隠しにした事情など、風俗としての団地のイメージや、同世代の二人ならではの自分史的実感のこもった対話も魅力のひとつになっているかと存じます。
2016/04/27
著者プロフィール
原武史
ハラ・タケシ
1962(昭和37)年、東京都生れ。早稲田大学政治経済学部卒業。国立国会図書館、日本経済新聞社勤務を経て東京大学大学院博士課程中退。2023年4月現在、放送大学教授、明治学院大学名誉教授。専攻は日本政治思想史。著書『昭和天皇』(司馬遼太郎賞受賞)『滝山コミューン一九七四』(講談社ノンフィクション賞受賞)『「民都」大阪対「帝都」東京』(サントリー学芸賞受賞)『大正天皇』(毎日出版文化賞受賞)『鉄道ひとつばなし』『皇居前広場』『〈出雲〉という思想』『可視化された帝国』『皇后考』『「昭和天皇実録」を読む』『地形の思想史』『「線」の思考』など多数。
重松清
シゲマツ・キヨシ
1963(昭和38)年、岡山県生れ。出版社勤務を経て執筆活動に入る。1991(平成3)年『ビフォア・ラン』でデビュー。1999年『ナイフ』で坪田譲治文学賞、同年『エイジ』で山本周五郎賞を受賞。2001年『ビタミンF』で直木賞、2010年『十字架』で吉川英治文学賞、2014年『ゼツメツ少年』で毎日出版文化賞を受賞。現代の家族を描くことを大きなテーマとし、話題作を次々に発表している。著書は他に、『流星ワゴン』『疾走』『その日のまえに』『きみの友だち』『カシオペアの丘で』『青い鳥』『くちぶえ番長』『せんせい。』『とんび』『ステップ』『かあちゃん』『ポニーテール』『また次の春へ』『赤ヘル1975』『一人っ子同盟』『どんまい』『木曜日の子ども』『ひこばえ』『ハレルヤ!』『おくることば』など多数。