
漱石はどう読まれてきたか
1,760円(税込)
発売日:2010/05/25
- 書籍
漱石も思わずニヤリ!? 名作の読み方を一変させるエキサイティングな試み。
発表当時、漱石文学はどのように評価されたのか。百年後の今も読み継がれる、その魅力とは何か。何万ともいわれる評論・論文の中から、「個性的な読み」「画期的な読み」を厳選して、「定説を読み換える論」「文化的・歴史的背景に位置づける論」「小説の〈なぜ〉に答える、意味付ける論」に分類し、その醍醐味と意義を大胆に分析する。
最も豊饒な年だった(明治三九年)
いよいよ朝日新聞社入社(明治四〇年)
前期三部作『三四郎』『それから』『門』の時代(明治四一年~明治四四年)
後期三部作『彼岸過迄』『行人』『こころ』の時代(明治四五年~大正三年)
晩年、『道草』『明暗』の時代(大正四年~大正五年)
その後の漱石論の時代(大正六年~昭和二〇年)
夏目鏡子述・松岡譲筆録『漱石の思ひ出』
小宮豊隆『漱石の藝術』
小宮豊隆『夏目漱石』
江藤淳『夏目漱石』
岩上順一『漱石入門』
荒正人『評伝 夏目漱石』
越智治雄『漱石私論』
蓮實重彦『夏目漱石論』
相原和邦『漱石文学の研究―表現を軸として―』
小谷野敦『夏目漱石を江戸から読む 新しい女と古い男』
石原千秋『反転する漱石』
若林幹夫『漱石のリアル 測量としての文学』
梅原猛「日本人の笑い―『吾輩は猫である』をめぐって―」
前田愛「猫の言葉、猫の論理」
板花淳志「『吾輩は猫である』論―その多言語世界をめぐり―」
安藤文人「吾輩は‘We’である―『猫』に於ける語り手と読者―」
五井信「「太平の逸民」の日露戦争」
『坊っちゃん』
平岡敏夫「「坊っちゃん」試論―小日向の養源寺―」
有光隆司「『坊つちやん』の構造―悲劇の方法について―」
小森陽一「裏表のある言葉―『坊つちやん』における〈語り〉の構造―」
石原千秋「「坊つちやん」の山の手」
石井和夫「貴種流離譚のパロディ――『坊つちやん』 差別する漱石」
生方智子「国民文学としての『坊つちやん』」
芳川泰久「〈戦争=報道〉小説としての『坊っちやん』」
『草枕』
片岡豊「〈見るもの〉と〈見られるもの〉と―「草枕」論 その一―」、「〈再生〉の主題―「草枕」論 その二―」
東郷克美「「草枕」 水・眠り・死」
前田愛「世紀末と桃源郷―「草枕」をめぐって―」
中山和子「『草枕』―「女」になれぬ女「男」になれぬ男―」
『虞美人草』
石崎等「虚構と時間―『虞美人草』の世界―」
水村美苗「「男と男」と「男と女」―藤尾の死」
金子明雄「小説に似る小説:『虞美人草』」
平岡敏夫「『虞美人草』と『青春』」
北田幸恵「男の法、女の法 『虞美人草』における相続と恋愛」
『夢十夜』
石原千秋「「夢十夜」における他者と他界」
三上公子「「第一夜」考―漱石「夢十夜」論への序―」
松元季久代「『夢十夜』第一夜―字義的意味の蘇生―」
藤森清「夢の言説―「夢十夜」の語り―」
山本真司「豚/パナマ/帝国の修辞学 第十夜」
『三四郎』
酒井英行「広田先生の夢―『三四郎』から『それから』へ―」
石原千秋「鏡の中の『三四郎』」
藤森清「青春小説の性/政治的無意識―『三四郎』・「独身」者の「器械」―」
松下浩幸「『三四郎』論―「独身者」共同体と「読書」のテクノロジー―」
小森陽一「漱石の女たち―妹たちの系譜―」
中山和子「『三四郎』―「商売結婚」と新しい女たち―」
飯田祐子「女の顔と美禰子の服―美禰子は〈新しい女〉か―」
『それから』
斉藤英雄「「真珠の指輪」の意味と役割―『それから』の世界―」
浜野京子「〈自然の愛〉の両儀性―『それから』における〈花〉の問題―」/木股知史「『それから』の百合」/塚谷裕一「漱石『それから』の白くない白百合」/石原千秋「言葉の姦通 『それから』の冒頭部を読む」
石原千秋「反=家族小説としての『それから』」
佐藤泉「『それから』―物語の交替―」
生方智子「「新しい男」の身体―『それから』の可能性―」
林圭介「〈知〉の神話―夏目漱石『それから』論―」
『門』
前田愛「山の手の奥」
石原千秋「〈家〉の不在―「門」論」
余吾育信「身体としての境界―『門』論 記憶の中の外部/〈大陸〉の1904~」
山岡正和「『門』論―解体される〈語り〉」
『彼岸過迄』
秋山公男「『彼岸過迄』試論―「松本の話」の機能と時間構造―」
前田愛「仮象の街」
長島裕子「「高等遊民」をめぐって―『彼岸過迄』の松本恒三―」
工藤京子「変容する聴き手―『彼岸過迄』の敬太郎―」
押野武志「〈浪漫趣味〉の地平 『彼岸過迄』の共同性」
柴市郎「あかり・探偵・欲望 『彼岸過迄』をめぐって」
井内美由起「「白い襟巻」と「白いフラ子ル」―『彼岸過迄』論―」
『行人』
伊豆利彦「『行人』論の前提」
山尾(吉川)仁子「夏目漱石『行人』論―構想の変化について―」
藤澤るり「「行人」論・言葉の変容」
水村美苗「見合いか恋愛か―夏目漱石『行人』論」
石原千秋「『行人』―階級のある言葉」
小谷野敦「「女性の遊戯」とその消滅―夏目漱石『行人』をめぐって」
森本隆子「『行人』論 ロマンチックラブの敗退とホモソーシャリティの忌避」
『こころ』
山崎正和「淋しい人間」
作田啓一「師弟のきずな―夏目漱石『こゝろ』(一九一四年)」
石原千秋「眼差としての他者―「こゝろ」論―」
小森陽一「「こころ」を生成する「心臓(ハート)」」
押野武志「「静」に声はあるのか―『こゝろ』における抑圧の構造―」
『道草』
清水孝純「方法としての迂言法(ペリフラーズ)―『道草』序説―」
蓮實重彦「修辞と利廻り―『道草』論のためのノート」
吉田熈生「家族=親族小説としての『道草』」
江種満子「『道草』のヒステリー」
藤森清「語り手の恋―『道草』試論―」
『明暗』
藤井淑禎「あかり革命下の『明暗』」
石原千秋「『明暗』論―修身の〈家〉/記号の〈家〉―」
飯田祐子「『明暗』論―女としてのお延と、男としての津田について―」、「『明暗』論―〈嘘〉についての物語―」
池上玲子「女の「愛」と主体化 『明暗』論」
長山靖生「不可視と不在の『明暗』」
書誌情報
読み仮名 | ソウセキハドウヨマレテキタカ |
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シリーズ名 | 新潮選書 |
発行形態 | 書籍 |
判型 | 四六判変型 |
頁数 | 368ページ |
ISBN | 978-4-10-603659-0 |
C-CODE | 0395 |
ジャンル | ノンフィクション |
定価 | 1,760円 |
書評
「読む」ことの謎と愛
若い頃は、「読む」ことは謎を解くことだと思っていた。どこかに正解があり、読めば何かが「分かる」と思っていた。でも、読んでいるうちに謎が深まり、泥沼のように思考の奥へと駆り立てられることがある。そして、すぐに分かってしまう本より、分かりそうで分からない余韻を引く本のほうが楽しい。
この百年ばかり、多くの日本人が夏目漱石を読んできた。そこからは多くの「答え」が導き出されたが、それ以上に多くの「謎」も生み出された。本書は、漱石が小説を書き出した当時から今日まで、文学研究者や文芸評論家といった歴代の「漱石読み」たちが、どのようにして漱石作品を読み、それによってどんなものの見方を示してきたのかを明らかにした「文学研究」の書だ。でも、読まれているのは漱石作品ばかりではない。読み手たちの心根や、近代日本の価値観もまた、読み解かれている。また「読む」ことで明かされるのは、対象となった作品ではなく、自分自身の赤裸々な姿だったりする。本書にはそういう「読む」ことをめぐる怖さが詰まっている。
本書を読んでいると、「読む」という行為は、それ自体がミステリみたいだと思い知らされる。文字通り、謎が謎を呼ぶ世界だ。石原氏は文芸評論家や文学研究者は〈「ふつうでない読み方」をするのが仕事〉だという。彼らが名探偵であれば、それも頷ける。
ところで謎解きにも流行がある。
文学研究の方法史をミステリにたとえるなら、はじめは「漱石作品」という「事件」やその作者を解説するノンフィクション的なもの(作家論)が多かった。それが次第に作品論(本格探偵小説)の隆盛へと向かった。さらに作品論と類似しつつも、さらに作品に密着したテクスト論が主流となり、いまや「誤読」すれすれのトリッキーな読みが、商品としての文芸評論・研究には求められるという。それって新本格?
それでも、誤読すれすれの読みが「誤読」にならずに済んでいるのは、書き手たちが持つプロとしての技量によるだろう。それになんといっても研究者たちの行為は、文学への愛(どうしようもない執着)に裏打ちされている。
したがって「読む」ことは、愛の告白にも似ている。たとえば「定説に一票(by石原千秋)」的論文は、どストレートな愛の告白にほかならない。また石原氏は〈いまでもいい年をしてまだ蓮實重彦の文体で書いている近代文学研究者がいるが、みっともない〉なんてアブナイことも書いているが、それは自身も若い頃はおフランスな口説き文句で論文を書いた経験を持つ、同じ相手に惚れた者同士の警句と解すれば、とても味わい深い。恥ずかしながらその手の模倣は、私もやった。ああ、恥ずかしい。そして現代では、石原氏のスタイルを模倣した論文・レポートも数多く書かれている。学生さん、先生にはバレバレですよ。
石原氏は、歴史的な著作から現代の論文まで、多くの漱石論を俎上に載せて容赦なく料理している。特に第三章では、論文の特徴を明晰に指摘し、四つの類型のどれかに切り分けてみせている。その勇気と力量は、漱石が百年前にやったことと同じくらい大胆で、スキャンダラスですらある。そして同じように文学に資する大切な行為である。ここには漱石が文学に取り組んだのと同じように、維新の志士のような覚悟で文学に取り組む精神がある。石原氏の評価は「政治的正しさ」や「情報の羅列」に走った論文にはやや手厳しいが、文学への愛に燃えていることを思えば、それ以外のことに色目を使うものに厳しいのもまた納得される。
本書を読むと、小説を読むことが単なる暇つぶしや娯楽ではなくなってしまうかもしれない。小説を読むことが、自分と向き合うことだったり、生きることだったり、新たな「商品」となり得る思考を紡ぐことになったりするかもしれない。そんな具合に本書は「読む」ことの魅力と誘惑に満ちている。
(ながやま・やすお 評論家)
波 2010年6月号より
担当編集者のひとこと
100年で、漱石の「読み方」はこんなに変わった……。
漱石や鴎外など明治・大正期の文豪の作品は、20年くらい前から教科書に使われなくなっていましたが、「ゆとり教育」が見直されることになり、「日本人が培ってきた情感や感動が集積されている古典や近代以降の作品に触れ、理解を深めることは重要だ」ということで、復活されるそうです。その昔、教科書には、『坊っちゃん』『こころ』『三四郎』といった作品が必ず取り上げられていました。ちなみに、新潮文庫の『こころ』は発行部数が600万部を超える大ロングセラーです。
漱石が作品を発表したのは、今からおよそ100年前。デビュー作である『吾輩は猫である』は、大学の先生が小説を書いたということでかなり評判になったようです。その後、次々に作品を発表しますが、当時はどのように評価されたのでしょうか。そして、100年間で、その読み方はどのように変ったのでしょうか。
本書では、何万とも言われる漱石文学についての評論や論文のなかから、「個性的な読み」や「画期的な読み」を厳選して、その醍醐味と意義を大胆に分析しています。たとえば、『坊っちゃん』ですが、ふつうに読めば、江戸っ子である「坊っちゃん」が松山で権威主義と戦う痛快な物語となるでしょう。ところが、視点を変えると、いろいろな物語が立ち上がってくるのです。それは、〈1〉佐幕派士族たちの物語(明治政府「赤シャツ」一派と、元旗本「坊っちゃん」や会津藩出身の「山嵐」たちの対決)、〈2〉「坊っちゃん」の喜劇と、「山嵐」と「うらなり」の悲劇という二重構造、〈3〉山の手出身の「坊っちゃん」が、松山で「江戸っ子」になっていく物語、などなどです。
『吾輩は猫である』から『明暗』まで、名作がさらに面白くなること請け合いです。
2016/04/27
著者プロフィール
石原千秋
イシハラ・チアキ
1955(昭和30)年生れ。成城大学大学院文学研究科国文学専攻博士課程中退。早稲田大学教育学部教授。日本近代文学専攻。現代思想を武器に文学テキストを分析、時代状況ともリンクさせた“読み”を提出し注目される。著書に『学生と読む「三四郎」』『秘伝 大学受験の国語力』『名作の書き出し』『読者はどこにいるのか』『漱石と日本の近代』など。