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三島由紀夫と司馬遼太郎―「美しい日本」をめぐる激突―

松本健一/著

1,320円(税込)

発売日:2010/10/25

  • 書籍

戦後の文学史・思想史における最大の「対立構図」が初めて浮き彫りに!

昭和を代表する二人の作家は、それぞれ別の「美しい日本」を求めた。「空っぽな日本」に嫌気がさした三島は、身を賭して「それ」を取り戻そうとし、司馬は長期連載『街道をゆく』などを通して「それ」を探った。あらゆる意味で真逆な二人だったが、生涯の最期に、空虚な大国へ成長した戦後日本を憂えたのは同じだった。

目次
序章 二つの「日本」
一九七〇年十一月二十五日/インドとは何か/〈天皇の物語〉がない
第一章 二人にとって「戦後」とは何か
「からっぽな」戦後日本/一歩の距離/司馬遼太郎の憤死
第二章 一瞬の交叉
司馬が嫌いな北一輝/三島の北一輝嫌い/芸術至上主義的な『午後の曳航』
第三章 ロマン主義とリアリズム
三島のなかのリアリズム/『鏡子の家』の不評/司馬のロマン主義とリアリズム
第四章 三島の「私」と司馬の「彼」
何か面白い事は無いか。/「われら」からの遁走/「私」のことしか語らない/「彼」もしくは「彼等」の物語り
第五章 西郷隆盛と大久保利通
突然、西郷隆盛の名が/陽明学の系譜/司馬の激烈な松陰(陽明学)批判/大久保の名はない/バランスのとれた目配り/大久保利通評の変化/「鳥瞰」という方法/『翔ぶが如く』の失敗/西郷隆盛のカリスマ性/征韓論という岐路
第六章 『坂の上の雲』の仮構
事実にこだわった歴史小説/司馬さんの「予感」/「乃木神話」の破砕/「国民の戦争」としての日露戦争/薩長藩閥の人事/乃木軍の頑固さ?/二〇三高地問題/天皇の「聖断」の位置づけ
第七章 陽明学――松陰と乃木希典
「劇中の人」乃木希典/陽明学の徒/陽明学の「学統の巨魁」大塩平八郎/河井継之助と小林虎三郎/司馬さんと小林虎三郎/象山塾の「二虎」/『孟子』離婁篇をめぐって/革命思想としての『孟子』/松陰と乃木は「相弟子」/山鹿素行の『中朝事実』
第八章 反思想と反イデオロギー
郎党としての山岡鉄舟/西郷隆盛と「幕末の三舟」/明治天皇の郎党としての乃木/思想は虚構であるか/吉田松陰と高杉晋作/革命思想の「狂」/「現実家」としての高杉晋作/『喜びの琴』という戯曲/谷川雁いわく「詩は滅んだ」/全共闘との真剣勝負/三島のレトリック/「文化防衛論」における天皇
第九章 戦後的なるもの
平和主義に対する「暴力」/政治と文学/小田切秀雄「君も党へ入りませんか」/平岡梓の証言/一種異様な文筆の才/「生」のほうにむかう平岡梓/「死にたい人間」/司馬の学校嫌い/戦車隊の小隊長/戦後神話の作成/歴史のなかの「私」
第十章 人間の生き死
「などてすめろぎは人間となりたまひし」/大本教・出口王仁三郎の帰神法/観念に殉ずる死と、自然的な死
あとがき

書誌情報

読み仮名 ミシマユキオトシバリョウタロウウツクシイニホンヲメグルゲキトツ
シリーズ名 新潮選書
発行形態 書籍
判型 四六判変型
頁数 240ページ
ISBN 978-4-10-603667-5
C-CODE 0395
ジャンル ノンフィクション
定価 1,320円

書評

ふたつの「戦後」がぶつかった日

関川夏央

 ちょうど四十年前、一九七〇年十一月二十五日、快晴のお昼頃、四十五歳の三島由紀夫は市谷台で自刃した。事件にもっとも早く反応したのは、四十七歳の司馬遼太郎であった。
 事のあらましを知った三時間後、「三島氏のさんたんたる死に接し、それがあまりになまなましいために、じつをいうと、こういう文章を書く気がおこらない」という書き出しの原稿を毎日新聞に送った。合計九枚弱、新聞としては異例の長さの稿の執筆動機を、司馬はこう説明した。「精神異常者が異常を発し、かれの死の薄よごれた模倣をするのではないかということをおそれ、ただそれだけの理由のために書く」
 司馬遼太郎は、共産主義であれカトリックであれ朱子学であれ、思想というものを信じなかった。とりわけ「知行合一」を旨とする陽明学には警戒的であった。
 おのれが是と感じ、真実と信じたことこそが絶対真理であり、ひとたびそう知った以上、行動を起こさねばならぬとする陽明学徒の「大狂気」に対して、日頃の温和な印象にそむく強い拒絶をあらわにした司馬遼太郎は、六八年から新聞連載して七二年までつづく大作『坂の上の雲』の中間点にあった。
 ところで本書の著者、松本健一は、その四十代後半に至った九〇年代なかば、小林虎三郎の評伝『われに万古の心あり』を書いている。
 長岡藩の小林虎三郎は、藩を官軍との戦闘に導いて城下を焼尽した陽明学徒・河井継之助の政敵で、合理主義的リアリストであった。松本健一は、革命的ロマン主義に傾きがちな自分の心情をやわらげる試みに、この本を書いたのである。司馬の考えの推移を検討しつつ、松本健一はこの「評論の物語」で、控えめながら自分の成熟への過程を語りもするのである。
 さらにのち、五十代後半の松本健一は『街道をゆく』全四十三巻を精読し直し、そこでは天皇の事跡がほとんど無視されていると気づいた。その第一巻、三島自刃直後に取材した「湖西のみち」には、大津京の天智天皇さえ登場しないのである。また、日露戦争中四回開かれた御前会議の描写がほとんどない『坂の上の雲』は「国民の物語」であった。そして日露戦争は「天皇の戦争」ではなく、「国民の戦争」としてえがかれていた。
 三島由紀夫の行為は、司馬遼太郎の目に、せっかく手にした「国民の時代」である「戦後」の否定と映じた。それは大久保利通が、「征韓論」に固執して西南戦争を起こした西郷隆盛を、革命の実質を無に帰そうとする過激な陽明学徒とみなしたことに通じた。
 しかし事件から二十六年のち、司馬遼太郎も、バブルに浮かれた末にゆがんだ「知行合一」ともいうべきオウム事件を起こす「戦後の残骸」に、つねならぬ怒りを発しつつ病に倒れる。

(せきかわ・なつお 作家)
波 2010年11月号より

担当編集者のひとこと

二人の「日本」に対する思いは、不思議に似通っていた。

 この本の帯には、以下のキャッチコピーがある。
「二人は、真逆の道から一つの失望にたどり着いた」
 文学観も国家観も、戦後に対するとらえ方も正反対の二人だったが、「日本はどうあるべきか」を考える真摯さは同じだった。そして、息を引き取る間際に感じた、この国の現状に対する印象は、不思議なことに似通っていた。
 三島由紀夫が自刃したのは、今から40年前の1970(昭和45)年11月25日。享年45。司馬遼太郎は、それからおよそ25年の後の1996(平成8)年に72歳で病死する。ここに、二人が死を迎えた年に書かれた、言わば「遺稿」に近い文章を並べてみよう。はたして、たどり着いた二人の「失望」とは何だったのか。
 三島のそれは、事件の5カ月前に、『産経新聞』(1970年7月7日夕刊)に発表された「私の中の25年」である。
「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである」
 司馬の絶筆は、連載の原稿だったため前もって書かれ、死去したその日、1996年2月12日の産経新聞に発表された。
「物価の本をみると、銀座の「三愛」付近の地価は、右の青ネギ畑の翌年の昭和四十年に一坪四百五十万円だったものが、わずか二十二年後の昭和六十二年には、一億五千万円に高騰していた。
 坪一億五千万円の地面を買って、食堂をやろうが何をしようが、経済的にひきあうはずがないのである。とりあえず買う。一年も所有すればまた騰り、売る。
 こんなものが、資本主義であろうはずがない。資本主義はモノを作って、拡大再生産のために原価より多少利をつけて売るのが、大原則である。(中略)でなければ亡ぶか、単に水ぶくれになってしまう。さらには、人の心を荒廃させてしまう」
 三島の文章は、それから10数年後に訪れるバブル経済を予言するかのようだ。そして司馬は、バブル経済が過ぎ去った後の日本に対して、そう書いていたのである。
「失望」という二人の交差点の延長線上に、私たちの暮らす「今」がある。

2010/10/25

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著者プロフィール

松本健一

マツモト・ケンイチ

(1946-2014)群馬県生まれ。作家、評論家として多方面で活躍する。東大経済学部卒。『評伝 北一輝』(全5巻、岩波書店)で、2005年に司馬遼太郎賞と毎日出版文化賞を受賞。著書に『白旗伝説』『北一輝論』『近代アジア精神史の試み』『評伝 佐久間象山』『司馬遼太郎が発見した日本―「街道をゆく」を読み解く―』『畏るべき昭和天皇』『明治天皇という人』『三島由紀夫と司馬遼太郎』など多数。

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