
生命の内と外
1,815円(税込)
発売日:2017/01/27
- 書籍
- 電子書籍あり
私たちの命は、どのような働きで維持されているのか?
生物はあたかも「膜」のようである。内と外との境界で閉じつつ開きながら、必要なものを摂取し、不要なものを拒み排除している。恒常性(ホメオスタシス)とは、そうして生命を維持させていくシステムのこと。身体のあらゆる箇所で機能している緻密で考え抜かれた生命の本質を、日本を代表する細胞生物学者が平易な言葉で説く。
書誌情報
読み仮名 | セイメイノウチトソト |
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シリーズ名 | 新潮選書 |
雑誌から生まれた本 | 考える人から生まれた本 |
発行形態 | 書籍、電子書籍 |
判型 | 四六判変型 |
頁数 | 256ページ |
ISBN | 978-4-10-603794-8 |
C-CODE | 0345 |
ジャンル | 化学 |
定価 | 1,815円 |
電子書籍 価格 | 1,144円 |
電子書籍 配信開始日 | 2017/07/14 |
書評
最初の読者の「ぞくぞく」
異物を口から摂取し、消化管を通して、肛門から排出する。人体とはまるでチューブのよう。このチューブをうんと短縮すればドーナツの形になる。消化管とは、だからドーナツの内周、つまり外壁だということは、すぐに想像できる。けれども栄養素がその壁を通してどのように人体の内部に入ってくるかと考えると、その壁に開いた穴も中空の管であるほかない。そしてさらにその管の中に入っていこうとすれば……というふうに考えてゆくと、いかに細分化されようとも内/外を区切る壁は最後まで残るのではないか。異物はついに内部に入れない。人体はどこまで行ってもそんなスカスカのスポンジのようなものでしかないのでは。
と、ここまではだれもが考えつく。これはアキレスと亀の話を思い出させる。前にいる亀の位置までアキレスが達したときは、亀はすでに少し先に行っている。さらにその地点に到着したときも、亀はまたわずか先に行っている。つまりいつまでも亀を追い抜けないという、あのゼノンの逆説だ。けれども腸壁の場合、管がどんどん小さくなるなかで、もし入ってゆく物が一定の大きさをもっているなら、いつか自分よりは小さな管に遭遇する地点でもはや管の中に侵入できなくなるはずだ。そこをも通過しようとすれば、こんどは自分を分解するほかない。つまり、同じ一つのものとしてはもはや存在しえなくなる道理だ。管を通して呑み込むほうにしてもしかり。が、ともに別のものへと分解=変成するとすれば、自他の区別がなくなって異物を内部へと摂取するという事態も成立しない。だからまた
「生命であるための最低限の条件」とされる三つのこと、1.外界から区別された単位であること、2.自己複製し、子孫を残せること、3.代謝活動を行っていること。このいずれもが内/外、もしくは自/他という概念対を含んでいるかぎり、逆説を放逐することはできない。〈私〉という存在は、自と他、内と外、一と多、同一性と差異、恒常性と変化といった概念対それぞれの前項をつなぎ合わせたところに成り立つが、おなじことは生命体のレヴェルでもいえる。この逆説が本書では、生命体における物質とエネルギーの出し入れの仕組みとして、ひいては「閉じつつ開いている」ことのアポリア(難問)として探究されている。
内と外の境界は生命の場合、〈膜〉である。その〈膜〉がどのようにみずからを構造化しつつ生成し、さらに変容させてゆくのか。それは、「見事」とか「あっぱれ」、「うなるしかない」とか「舌を巻く」と著者が連発してしまうほどに、精緻で巧妙な仕組みになっている。分解と合成、通過と輸送、構造変換とフィードバック制御、そのいずれのプロセスをとっても、泡を食うほど「賢い」。「そこまで考えてやっているのか」と細胞たちに声をかけたくなるくらいだ。
そのような専門的な議論とはいえ最後まで読み通せたのは、著者が、細胞が不断にしていることを、商品搬送や郵便のシステム、品質管理や廃棄物処理、国境の行き来などに重ね合わせながら、それらがパラレルであることを教えてくれるからだ。細胞の自己維持と、〈私〉の、社会の、国家の自己維持とのあいだに見られる同型的な構造の反復。もちろん、アナロジーはあくまでアナロジーであって、そこには次元ないしは水準の差異が、したがってまた構造化の原理の差異が厳然としてある。けれども、そのアナロジーが読む者の思考をあらためて攪拌する。
自己に「非ず」として何ものかを区切ることに生命のすべてがかかっていることから、私たちの「存在」がいかに「所有」(の感覚と権利)に負っているかにまずは思いがおよぶ。統合失調症や離人症という病における「自己」の失調にも、自我の淵にある「エス」とよばれる欲動と無意識の検閲装置にも、神話的思考における世界の「分類」にも、そしてさらにコミュニケーションにおける「
そしてそのぞくぞくは、終いのところで、牛海綿状脳症(BSE)における脳のスポンジ状のスカスカ(素人による最初の推論を思い出していただきたい)、さらにその病原体であるプリオンが、結局「何のために」こんなはたらきをするのかがついに不明だと述べられるところで、沸騰した。謎は深い。
(わしだ・きよかず 哲学者)
波 2017年2月号より
担当編集者のひとこと
サイエンティスト・永田和宏の集大成
著者である永田和宏さんに最初にお会いしたのは、永田さんがまだ京都大学に研究室を持っていらっしゃる頃だった。たまたま岩波新書の『タンパク質の一生――生命活動の舞台裏』(12刷、約45000部)を拝読し、いたく感動して、執筆をお願いに京都に行ったのである。私は文系出身なのだが、『タンパク質の一生』は、文理の境界線を越えて強引に手を引っ張るように、私をサイエンスの世界に引き込んでくれた。ひとことで言えば、言葉に力(=技)があったのだ(その理由も後でわかるのだが)。
アマゾン書店で調べてみると、「細胞生物学者」の永田さんは、サイエンスの著書が少ない。だから、これはチャンスがあると思って、まずは手紙を書いたと記憶している。
「う~ん、いやあ、忙しくてね」
鉢植えがいくつも置いてある、割と広い研究室で、永田さんはもじゃもじゃ頭を掻きながらそうつぶやいた。他社からも一冊執筆を依頼されていて、その出版社もずいぶんと待たせているような口ぶりだった。結局、最初の面談では大した成果もなく、私は京都を後にした。
携帯電話に先生から電話があったのは、それからほどなくのことだった。
「ちょっとねえ、相談があるんだけど、今、話していて大丈夫? この間は、細胞の本の話をしていたけど、ちがうテーマでお願いできないだろうか……」
永田さんは、その年の夏に、奥様を亡くしていた。歌人の河野裕子さんである。永田さんは、学者であるとともに歌人でもあった。しかも、ご夫婦とも昭和を代表する歌人であることを、私は恥ずかしながらお会いする以前は知らなかった。アマゾン書店で「永田和宏」と検索すると、膨大な数の歌の本(歌集、エッセイ)がヒットする。永田さんの半身は「歌人」であるのだ。
「今ならね、妻のことを書ける気がするんですよ。書いておかなきゃいけない気もするんですね。だから、申し訳ないけれど、細胞の話じゃなくて、河野の話に変えていただけるならお願いしたいと思っているんです」
『歌に私は泣くだらう―妻・河野裕子 闘病の十年―』(「波」連載時は「河野裕子と私 歌と闘病の十年」)は、そうして出来上がった。幸いなことに、NHKでドラマ化され、本は2013年の講談社エッセイ賞にも選ばれ、新潮文庫にもおさまった。
そしてようやく、「本丸」の「生命の内と外」の連載が季刊「考える人」で始まったのが2013年。その4年後、ついにこうして刊行されたのである。
本書の内容と魅力については、哲学者の鷲田清一さんが「波」で舌を巻くような書評を書いてくださったので(このページでも読めます)そちらをぜひお読みください。
わずか三十字余りという「歌」の世界で、半世紀ちかく言葉と格闘してきた永田さんの書く散文がつまらないわけがない。校了した時、永田さんは電話の向こうで、もぐもぐとこう言った。
「この本はねえ、『タンパク質の一生』よりも自信があるんですよ……」
『生命の内と外』は、サイエンティストとしての永田さんの、半世紀の集大成であると言っても、先生に叱られることはないだろう。
2017/02/21
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著者プロフィール
永田和宏
ナガタ・カズヒロ
1947(昭和22)年、滋賀県生れ。歌人・細胞生物学者。京都大学理学部物理学科卒業。京都大学再生医科学研究所教授、京都産業大学教授などを歴任。2024年10月現在、JT生命誌研究館館長。読売文学賞、芸術選奨文部科学大臣賞、迢空賞、毎日芸術賞などを受賞。2009(平成21)年紫綬褒章、2019(令和元)年瑞宝中綬章受章。河野裕子との共著に『京都うた紀行』『家族の歌』『たとへば君』、著書に『もうすぐ夏至だ』『現代秀歌』『歌に私は泣くだらう』『生命の内と外』『知の体力』『あの胸が岬のように遠かった』など多数。宮中歌会始詠進歌選者。朝日歌壇選者。