ホーム > 書籍詳細:「悟り体験」を読む―大乗仏教で覚醒した人々―

悟ると人はどうなるか――。初の「悟り学」入門!

「悟り体験」を読む―大乗仏教で覚醒した人々―

大竹晋/著

1,540円(税込)

本の仕様

発売日:2019/11/20

読み仮名 サトリタイケンヲヨムダイジョウブッキョウデカクセイシタヒトビト
シリーズ名 新潮選書
装幀 駒井哲郎/シンボルマーク、新潮社装幀室/装幀
発行形態 書籍
判型 四六判変型
頁数 316ページ
ISBN 978-4-10-603849-5
C-CODE 0315
ジャンル 宗教
定価 1,540円

「悟る時は真理の方が人に迫ってくる」(菩提達摩)、「心は驚きのもと崩落した」(白隠慧鶴)、「これが無なのだな!」(鈴木大拙)、「自分の大きさ、広さにびっくり仰天」(長沢祖禅尼)、「宇宙一元! 大歓喜!!」(井上日召)……臨済宗から日蓮宗まで約五十人の「悟り体験記」を読みとき、目くるめく境地の真相に迫る。

著者プロフィール

大竹晋 オオタケ・ススム

1974年、岐阜県生まれ。筑波大学卒業。筑波大学大学院哲学・思想研究科修了。博士(文学)。京都大学人文科学研究所非常勤講師、花園大学非常勤講師などを経て、2019年11月現在、仏典翻訳家。著書に、『唯識説を中心とした初期華厳教学の研究』『元魏漢訳ヴァスバンドゥ釈経論群の研究』(以上、大蔵出版)、『宗祖に訊く』『大乗起信論成立問題の研究』『大乗非仏説をこえて』(以上、国書刊行会)など。

書評

悟りと未悟

玄侑宗久

 珍しいテーマの本である。いわゆる「悟り」についての学問的研究書。なるほど仏教はインドの昔から、いわゆる覚醒体験を重視してきた(BuddhaはBudh【目覚める】の過去分詞)。特に私の所属する臨済宗はその念入りな承認(印可)によって法を受け継いできた。ならばその体験には一定の普遍性があるはず。大竹晋氏はそれを「悟り学」として研究されたのである。
 少ない道場体験で申し上げるのも気が引けるが、もともとそれは言葉の届かない領域での体験だ。主に坐禅という身体技術と、公案という問いに一体化することで実現される。いわば覚知する主体とされる対象が「一つになる」ことで、それまで「自己」と思い込んでいたものが溶解するのだろう。多くは歓びを伴い、著者が五段階に分析したように体験は深まっていく。
 しかしそういう体験を言語化する場合は、どうしても個々の日常的な信念や思考の枠組みに「戻って」表現されることになる。言葉が存在しえない世界の表現なのだし当然だろう。著者は「禅で悟りまたは見性となづけられる経験は、他の宗教にも、たぶんすべての真摯な宗教にも起こる」だろうと言う。私もそう思う。そんな観点で読み進めていくと、私には中国や日本の前近代の禅僧たちは無論だが、禅以外の「体験記」がとりわけ面白かった。本書は真言宗や浄土宗、浄土真宗や日蓮宗、キリスト教の「悟り」まで紹介してくれる。
 たとえば真宗の江部鴨村などの場合、子供のころから常にまじめに拝んできた阿弥陀仏だが、「どうもなじめなかった。遠かった」という。しかし「あらゆる声が無碍光如来(阿弥陀仏)を讃嘆するが如くに聞えた」ある体験以後、「おやと思うと」それまで「前方にながめていた仏が消えて」「仏は私のうしろに立っていられたのだ。このうしろの仏が私を摂取していられたのだ」と思ったらしい。江部はそのとき感じた「天地人生に対する一種温暖の感じ」が、生涯にわたる活動を支えたというが、いかにも浄土系らしい「悟り」に思える。
 しかし著者も指摘するように、それならオウム真理教での「悟り」も深浅こそ違えありえることになる。五体投地をあれだけ繰り返せば間違いなく「自他亡失体験」もするだろうし、そこに尊師の教えが燦然と輝く仕組みである。
 いみじくも河上肇の体験に出てくるが、「悟り」への階梯が一種の「定型発達」と捉えられる以上、その達成には大いなる歓びと過剰なほどの自信湧出が伴う。河上は「如何にしても自己の偉大を信ぜざるを得ざるなり」と書いているが、彼は空中浮揚の体験すら記し、そうした体験によって湧き起こる増上慢、あるいは捨てることのできない自我に苦悶する。問題はそこなのだと思う。
 いま「定型発達」と申し上げたのは、師匠が瞬時に弟子の見性を見抜くからである。もしも「完成」というものが想定されるなら、誰でも有頂天にならずにはいられないだろう。「手の舞ひ、足の踏む所を知らず」とはそのことである。
 しかし、最も深い「悟り体験」を経れば、本当に言語から完全に逃れることが可能なのだろうか。井筒俊彦氏は『意識と本質』において最深層の無意識である阿頼耶識を「言語阿頼耶識」と名付け、その払拭の可能性を疑っている。
 おそらくそうなのだと思う。私の師匠である平田精耕老師も、「日常生活での悟りなんて、そんなものありゃせんわ」とよく仰っていた。少なくとも、定型発達の最終形でも通用しない現実はいくらでも押し寄せ、その都度新たな問題に向き合っていくのが人生なのではないか。
 この本は、貴重な資料も多いし、さまざまな求道者の悟りが追体験できる。またそうした体験に批判的な立場からの意見も冷静に紹介してくれる。現代の情報社会での「悟りにくさ」の指摘も鋭いと思う。広さが深さを導く良書と言える。
 ただ一つだけ不満を言わせてもらえば、元は本人の発言にせよ、「悟り」の「完成」や「徹底」という高揚した言説に共振しすぎではないだろうか。もしも完成があるならそれは閉じられた世界でのことだろう。そのことを察してかあるいは増上慢を怖れてのことかは知らないが、日本からも多くの修行者を集めた天目山の中峰明本(1263〜1323年)は、一生自分は「未悟」だと言い続けた。そういう「悟り」も私はあると思うのだが、どうだろう。

(げんゆう・そうきゅう 作家・僧侶)
波 2019年12月号より

目次

はじめに――悟り体験記は今なぜ読まれるべきか
序章 悟り体験記への招待
悟り体験記は三蔵の外にある
インドに悟り体験記はない
中国の悟り体験記は死後に公表された
日本の悟り体験記は生前に公表された
部派仏教の覚醒体験は四諦の実見である
大乗仏教の覚醒体験は真如の実見である
「悟り」は「見性」の別名であって見道に該当する
第一部 悟り体験記を読む
第一章 中国仏教
覚醒体験の中国伝来
禅宗と悟り体験
悟る時は真理のほうが人に迫ってくる――菩提達摩
闇室の中から白日のもとに出たかのようだった――雪巌祖欽
網の中にいたものが跳ね出るかのようだった――高峰原妙
このことはひたすらことばで言えるものではない――虚堂智愚
百千もの三昧がいずれも手の先端にあった――無学祖元
何かになぞらえて他人に示すことはできない――隠元隆き
千の鉄枷をはずしたかのようだった――木庵性とう
第二章 日本仏教I 臨済宗(前近代・出家者)
覚醒体験の日本伝来
臨済宗と悟り体験
妄想の巣窟を踏み破ってくつがえした――夢窓疎石
その時の心の中の楽しみはことばで言い表せるものではない――抜隊得勝
あらゆることは不生によって調う――盤珪永琢
心は驚きのもと崩落した――白隠慧鶴
也太奇! 也太奇!――今北洪川
第三章 日本仏教II 臨済宗(近代・出家者)
臨済宗と悟り体験
也太奇と絶叫す――峯尾大休
三日も四日も所知を忘じておった――山本玄峰
手の舞足の踏所を忘れ大歓喜を得た――古川堯道
曹源池の周囲を一晩中踊り回った――関精拙
驀然として漆桶を打破した――釈大眉
儂の体が爆発して飛んでしまった――朝比奈宗源
歓びが心の奥底から全身に充ちあふれてきた――梶浦逸外
「天真光明遍照」と絶叫して躍り上がって歓喜した――白水敬山
わたくしは飛び上がるほど驚いた――山田無文
「おれだっ」と、うれしかったですね――大森曹玄
第四章 日本仏教III 臨済宗(近代・在家者)
臨済宗と悟り体験
これが無なのだな!――鈴木大拙
豁然と光を見出し、望みの境地に到達しました――井上秀
真の人生の大道の入口が開かれたのです――平塚らいてう
無相にして自在なる真の自己を覚証した――久松真一
宇宙と自己とが一つになつてゐるのを覚証した――倉田百三
襖を開くと、寂滅為楽の響きがした――苧坂光龍
「なにもない」限りの無い自らを知った――辻雙明
第五章 日本仏教IV 曹洞宗
曹洞宗と悟り体験
わしはたしかに種を取ったぞ――鈴木正三
これではじめて楽になったね――原田祖岳
自分の大きさ、広さにびつくり仰天――長沢祖禅尼
第六章 日本仏教V 黄檗宗・普化宗
黄檗宗・普化宗と悟り体験
その喜ばしいことは喩えて言うべきありさまがない――鉄眼道光
喜悦はまことに大きかった――石田梅岩
第七章 日本仏教VI 真言宗
真言宗と悟り体験
初めて穏当になった――慈雲飲光
自心と一切との融妙不二の不思議境を体することを得た――金山穆韶
第八章 日本仏教VII 浄土宗
浄土宗と悟り体験
死物か活物かという点でいちじるしく異なっていた――普寂徳門
心常に法界に一にせるは是平生の心念とはなれり――山崎弁栄
只だ心霊の照々光々として、転た歓喜の心のみ存す――原青民
第九章 日本仏教VIII 浄土真宗
浄土真宗と悟り体験
廿九年の間の我慢が溶けて流れるやうに思はれる――伊藤証信
無限絶対に融合せりとの端的感懐に打たれたり――江部鴨村
眼界俄に開けて急に視力の倍加したるに驚きたり――河上肇
第十章 日本仏教IX 日蓮宗
日蓮宗と悟り体験
嘗て覚えたこともない、異様な神秘な心境である!――井上日召
第二部 悟り体験を考える
第十一章 悟り体験の諸相
本章のねらい
1 自他忘失体験
2 真如顕現体験
3 自我解消体験
4 基層転換体験
5 叡智獲得体験
叡智の一種としての超能力
悟り体験と見道
悟り体験と修行
悟り体験と精神異常
悟り体験者は悟り体験者を知る
絶大な悟り体験者は誰もがわかる
第十二章 悟り体験批判の諸相
本章のねらい
平田篤胤からの批判
安藤昌益からの批判
東沢瀉からの批判
安藤昌益と東沢瀉とからの批判の問題点
近現代の曹洞宗の宗学者からの批判
沢木興道からの批判
批判に対する年長者の違和感
悟り体験批判の完成形
曹洞宗内部からの逆批判
宗学者からの批判の問題点
悟り体験批判は現世肯定に繋がりやすい
悟り体験批判は不毛である
第十三章 悟り体験周辺の諸相
本章のねらい
大乗仏教によらずに得られた悟り体験
キリスト教によって得られた悟り体験
悟り体験は各宗教の文脈に即して理解される
悟り体験は宗教にとって手段にすぎない
悟り体験の速成
敷居を下げられた悟り体験の問題点
悟り体験と見まがわれた異常心理の危険性
結章 悟り体験記の彼方へ
悟り体験は真摯な志によってしか得られない
悟り体験は悟り体験だけで終わるものではない
悟り体験を得ることは難しくなりつつある
悟り体験が得られなくなることはない
あとがき
略号・出典

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