
南方抑留─日本軍兵士、もう一つの悲劇─
1,815円(税込)
発売日:2025/07/16
- 書籍
- 電子書籍あり
シベリア抑留の陰で繰り広げられていた「もう一つの悲劇」。
敗戦の屈辱に耐えながら炎天下で重労働を強いられた兵士たちは、飢えと望郷の日々の中で何を考え、どう行動したのか。英軍によるジャワ・シンガポール・ビルマ抑留から、米軍によるフィリピン抑留、豪軍によるラバウル抑留まで、日本軍人・軍属の貴重な日記類を読み解き、南方抑留の歴史的背景と過酷な実態を明らかにする。
まえがき
第一章 タンジュン・プリオク港――インドネシア・ジャワ島
ジャワ島に取り残された日本兵/「内面」が綴られた抑留日誌/終戦後のバンドン/逃亡する日本兵/過去の反省と再鍛錬/酷使される作業隊/インド兵の親日感情/屈辱と絶望/南方各地の残留作業隊/オランダ兵の反日感情/麗らかな祖国
第二章 レンパン島――シンガポール沖・リアウ諸島
日本軍に対する報復/飢餓の島「恋飯島」/黒・白・灰色キャンプ/「レンパン雑記」/「連範雑記」/荒んだ日本兵/レーションの美味/日本軍の規律の乱れ/望郷/待望の帰還命令/軍人精神/豪華になる食事/軍人と軍属の違い
第三章 コカイン収容所――ビルマ・ラングーン
ビルマに取り残された日本兵/帝大出身の哲学徒/降伏日本軍人(JSP)の悲哀/旧態依然の軍人たち/辛い石切作業/抑留スケッチ/置き去り/モパリンの新星劇団/マンダレーの新生劇団/精神の解放
第四章 カンルバン収容所――フィリピン・ルソン島
アメリカ軍による抑留/陸軍報道部員/減らされる食糧/炊事と暴力/「暴力団」による支配/娯楽と情報/モンテンルパの教誨師/帰国船での窃盗/日本軍の痕跡
第五章 ラバウル戦犯収容所――南太平洋・ニューブリテン島
温存された日本軍/オーストラリア軍との折衝役/早期復員/弁護団/光部隊/船積み作業/敗者の悲哀/特別作業団/現地自活への不満/職業軍人と召集兵/マラグナ作業隊/オーストラリア軍中尉の恩情/将校としての責任感/今村大将への申し開き/水木しげるが描いた「木戸参謀」
終章 歴史対話
一枚の絵画/イギリス軍の日本語学将校/歴史に共感する
あとがき
注
書誌情報
読み仮名 | ナンポウヨクリュウニホングンヘイシモウヒトツノヒゲキ |
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シリーズ名 | 新潮選書 |
装幀 | 駒井哲郎/シンボルマーク、新潮社装幀室/装幀 |
発行形態 | 書籍、電子書籍 |
判型 | 四六判変型 |
頁数 | 240ページ |
ISBN | 978-4-10-603933-1 |
C-CODE | 0331 |
ジャンル | 政治・社会、歴史読み物、歴史・地理・旅行記 |
定価 | 1,815円 |
電子書籍 価格 | 1,815円 |
電子書籍 配信開始日 | 2025/07/16 |
書評
戦後80年、抑留者の悲痛な叫びを聞く
「事実は小説よりも奇なり」との金言は、本書の中にちりばめられている。外地の日本軍将兵や軍属が敗戦後、連合軍の監視下、鉄条網内外の陰惨な抑留生活を赤裸々に日記の中で明かしているからだ。ようやく平和が訪れたと安堵していた本土とは対蹠的に、現地の実情は暗くて悲惨であり、阿鼻叫喚の地獄図を見るかのようだ。
抑留といえばシベリアを連想しがちだが、本書は北方ではない「南方」、つまり東南アジアの抑留を主題とする。降伏当時、ここには80万人もの日本軍兵士が拘束されており、シベリアの60万人を数段上回った。しかも飢餓・重労働・戦犯裁判という側面も北方同様に過酷だった。思想弾圧が無く、酷寒が酷暑という程度の差にすぎない。にもかかわらず、なぜ南方が世間の注目を浴びることが少なかったのか。
筆者はその不均衡の理由を、北方抑留は最長11年に達したが、南方抑留は2年半で終結した点や、北方は日本側の被害一辺倒であったが、南方は先立つ「占領」が加害と被害の両義に及んだ点を指摘する。それ以外にも、南方は東西5千キロに及ぶ島しょ群であり、ユーラシア大陸のような一体性がないこと、シベリアはソ連の単独支配下にあったが、南方では英米仏蘭豪5カ国が分割統治したこと、シベリアは東西冷戦の影響を受けて世界から注視され続けたが、南方にはさほどのウェーブがなかったことも要因に加えてよい。
さて肝心の日記の一端を覗くと、まずは著者が専門とするインドネシアでの記述が生々しい。オランダからの独立気運が高まる中で、日本人は連合軍と現地人の板挟みとなって逃亡兵が続出する一方、西ジャワの港湾タンジュン・プリオクの作業隊は、英軍宿舎の清掃や飛行場の修理、道路修繕、ドブ掃除等で酷使された。「嘗ては進駐軍として威張っていた日本人が、蟻のような長い行列を作って石炭運びに精出している図は、内地の子供達には見せられない」。日々疲労と屈辱を重ねながら、帰還を祈る心情が伝わってくる。
またマラヤ(現マレーシア)とシンガポールで降伏した日本軍8万人は、クルアンの検問所で戦犯容疑の簡易裁判を受け、戦犯容疑者は黒キャンプ、その他は白キャンプに選別されて、シンガポール沖のレンパン島へ移送された。ここは第一次世界大戦後にドイツ軍捕虜2千人が飢餓とマラリアで全滅した「死の島」だった。当然ながら抑留者の日記は食事や食糧問題に集中する。「兵隊たちの顔いろのわるいこと、青黒くむくんで、目がはれぼつたくみんなほそい目になつてゐる。…一ケ月たつと、私たちもみんなこんな風になつてしまふことであらう。思はずぞつとした」。
次いでインパール作戦で多大な犠牲を出したビルマ(現ミャンマー)では、帝大出のインテリ見習士官が、収容所の英軍の規律正しさや人柄の良さに感心したが、新たに支給された「JSP(Japanese Surrendered Personnel)」の作業服にショックを受けたと告白する。
実は英軍はジュネーブ条約に従わず、日本軍を「捕虜(POW)」ではなく「日本人降伏者(JSP)」と規定して、無賃労働を強制した。これは重大な国際法違反であり、連合国軍最高司令官のマッカーサー元帥が英軍を“第二のソ連”として強く非難した。結局英国政府が譲歩し、残留日本兵の労働賃金の支払い計算をしたが、その支払いは日本政府に代替させる。現地英軍からすれば、破壊者が南方の再建に従事するのは義務で無償は当然との論理だった。もしマ元帥が英国側を牽制しなかったならば、南方残留者はシベリア並の長期に及んでいたかもしれない。
「帰らないでくれ」とラブコールを浴びたインドネシアとは真逆がフィリピンだった。動員された日本兵60万の約8割の50万が死去し、フィリピン人110万も落命した激戦地だ。日本人はキャンプへの輸送前後、「ドロボー、バカヤロー、パタイ(殺せ)」と現地人から罵声を浴び、投石されるのが日常だった。しかも収容所内は「暴力団」が支配する有様だった。彼らは炊事を掌握したばかりか、演芸や一般作業にも関与し、悪口が知られるとリンチが待っていた。米軍が日本軍の階級制度を止めた後遺症でもあった。
そのような悲惨な状況が続く中で例外もあった。それがニューブリテン島ラバウルの第八方面軍だった。今村均司令官の英断により、現地では降伏以前から農耕に取り組み、自給自足に成功し、日本軍9万人の指導体制を終戦以後も維持した。しかも今村は自ら戦争責任を取るべく志願して刑務所入りし、豪軍側を感嘆させた。
はたして戦後の民主国家日本は、これら80万にも及ぶ南方抑留者の悲痛な叫びと戦争を導いた要路への猛省を存分に活かし得たのであろうか。今年は戦後80年の節目となるが、一抹の不安を覚えざるをえない。
(ますだ・ひろし 立正大学名誉教授)
著者プロフィール
林英一
ハヤシ・エイイチ
1984年、三重県生まれ。慶應義塾大学大学院経済学研究科後期博士課程単位取得退学。一橋大学博士(社会学)。2025年7月現在、二松学舎大学文学部歴史文化学科准教授。インドネシア残留日本兵の研究で日本学術振興会育志賞受賞。著書に『残留日本兵の真実』『東部ジャワの日本人部隊』(ともに作品社)、『皇軍兵士とインドネシア独立戦争』(吉川弘文館)、『残留日本兵』(中公新書)、『戦犯の孫』(新潮新書)、『残留兵士の群像』(新曜社)など。