中国共産党を作った13人
814円(税込)
発売日:2010/04/16
- 新書
- 電子書籍あり
1921年7月23日午後8時、上海フランス租界の高級住宅。緊急招集! 第一回全国代表大会。平均年齢27.8歳、日本留学組4人。
一九二一(大正十)年七月二十三日、上海の高級住宅に十三人の中国人青年が集まった。そこで行われた会合こそ、中国で「歴史的壮挙」とされる、中国共産党第一回全国代表大会である。欧米列強に蹂躙された国土を取り戻すために命を懸け、過酷な運命に翻弄された十三人。彼らの青春群像を丁寧にたどっていくと、従来、中国共産党が意図的に軽んじてきた、党創設にまつわる日本の影響が浮かび上がってくる。
目次
まえがき
第一章 帰国子女だった李漢俊
十五歳で暁星中学校に入学
洋科挙としての日本留学ブーム
東京帝大二年、ロシア革命の衝撃
洋科挙としての日本留学ブーム
東京帝大二年、ロシア革命の衝撃
第二章 維新號事件で検挙された李達
一高に落ちてフランスへ行った周恩来
中国版、維新前夜の寺田屋騒動
元日本留学組が中国社会主義運動の中核に
中国版、維新前夜の寺田屋騒動
元日本留学組が中国社会主義運動の中核に
第三章 西郷隆盛に憧れた周佛海
中国人を魅了した急激之巨魁、南洲
中国の西郷隆盛と木戸孝允
鹿児島・第七高等学校の中国人留学生
中国の西郷隆盛と木戸孝允
鹿児島・第七高等学校の中国人留学生
第四章 日本びいきの思想家、陳独秀
五回も来日した行動力の男
早稲田留学組百名が中華民国国会議員に
革命の策源地、広東に共産党を
早稲田留学組百名が中華民国国会議員に
革命の策源地、広東に共産党を
第五章 芥川龍之介が目にしなかった上海
日本から「知識」、ソビエトから「資金」
たった一年で八つの共産主義グループが誕生
芥川と毛沢東のニアミス
たった一年で八つの共産主義グループが誕生
芥川と毛沢東のニアミス
第六章 上海に勢ぞろいした社会主義者たち
緊急招集の手紙
旅費と宿泊費、食事代込みの上海旅行
平均年齢二十七・八歳のエネルギー
旅費と宿泊費、食事代込みの上海旅行
平均年齢二十七・八歳のエネルギー
第七章 中国共産党第一回全国代表大会
早くも学究派と過激派が対立
密偵だ!
最終会議は南湖の屋形船
密偵だ!
最終会議は南湖の屋形船
第八章 一九二七年、李大ショウの死、そして李漢俊
張国トウのライバル心によって失われたもの
日本留学組が次第に消えていく
武漢から届いたメールが語る歴史
日本留学組が次第に消えていく
武漢から届いたメールが語る歴史
第九章 十三人の男たちのその後
勝ったのは誰か
半分以上は、建国前に犠牲
張国トウ対毛沢東、勝ち残りトーナメント決勝戦
半分以上は、建国前に犠牲
張国トウ対毛沢東、勝ち残りトーナメント決勝戦
最終章 取り違えられた写真――陳独秀
あとがき
主な参考文献一覧
主な参考文献一覧
書誌情報
読み仮名 | チュウゴクキョウサントウヲツクッタジュウサンニン |
---|---|
シリーズ名 | 新潮新書 |
発行形態 | 新書、電子書籍 |
判型 | 新潮新書 |
頁数 | 256ページ |
ISBN | 978-4-10-610359-9 |
C-CODE | 0222 |
整理番号 | 359 |
ジャンル | 世界史 |
定価 | 814円 |
電子書籍 価格 | 660円 |
電子書籍 配信開始日 | 2012/05/25 |
インタビュー/対談/エッセイ
波 2010年5月号より 中国革命と鹿児島をつなぐもの
拙著『中国共産党を作った13人』の取材のために鹿児島へ行った。一九二一年七月、上海で開かれた中国共産党の第一回全国代表大会に、唯一の「日本代表」として参加した周佛海が、旧制第七高等学校(造士館)に留学していたからだ。在校当時の様子を知るのが目的だった。鹿児島には今も熱心に活動する「七高史研究会」があり、色々な話をうかがい貴重な資料も見せてもらった。
私が滞在した数日間は、鹿児島市と長沙市(湖南省)の「友好都市締結二十五周年」を祝う記念行事が開催中で、長沙市代表団のご一行様が私と同じホテルに宿泊していた。夜、暇ができたので取材がてら代表団の部屋を訪ねた。「鹿児島と長沙は歴史的に多くの共通点がある」と、祝賀晩餐会からほろ酔い気分で戻ったばかりの中年の幹部が、強い湖南訛りで説明してくれた。明治維新の元勲、西郷隆盛は孫文時代から中国でも尊敬され、長沙は毛沢東の古里として有名だ。黄興や蔡鍔も含めて、湖南省は「中国革命のメッカ」なのだと強調した。話が弾んだので、戦前の第七高等学校には中国人留学生が累計で百五十人もいたそうだが、帰国後の消息を知るために、彼らの親族を探し出せないかと尋ねてみた。すると突然、その幹部がわめいた。「いるわけないよ! 戦前の留学生なんて、当時はものすごいエリートなんだぜ。革命時代にとっくに海外へ出て行き、だれも中国に残ってないさ」。酔った勢いか、中国語でつい本音を口走った彼に私は驚き呆れたが、日本に留学した中国人はエリートだったという言葉は強く印象に残った。
中国共産党を作った十三人の中にも、日本に留学した人が四人いる。彼らは日本で「社会主義」という新知識を貪欲に学び、母国の社会改革を夢見て、中国共産党を旗揚げしようと奮闘した中核メンバーだ。その意味で、当時の日本は中国共産党の「知」の源泉だったといえるだろう。だが今、そのことに触れる歴史書は少ない。未公開資料が多く、「謎」に満ちた事実が解明できないからだ。本書ではそうした「謎」にも迫ろうと試みた。
長沙の幹部が言った「だれも中国に残ってないさ」という説は正しくなかった。十三人の中で、東京帝国大学を卒業して「上海代表」になった李漢俊の孫が武漢にいるのを探し当て、家族の思い出を聞かせてもらった。お陰で本書の「主役」たちが身近な存在として感じられ、個性豊かに生き生きとして蘇った。
十三人の「代表」たちが第一回全国代表大会に参加した時の平均年齢は二十七・八歳。なんと若く、前途洋々たることか。彼らはその時、どこにいたのか。人生でほんの一瞬、上海で顔を合わせたことで、その後どんな運命に導かれたのか。日本への留学生を中心に、若い血潮をたぎらせて懸命に生きた十三人の青春群像を描いた。
私が滞在した数日間は、鹿児島市と長沙市(湖南省)の「友好都市締結二十五周年」を祝う記念行事が開催中で、長沙市代表団のご一行様が私と同じホテルに宿泊していた。夜、暇ができたので取材がてら代表団の部屋を訪ねた。「鹿児島と長沙は歴史的に多くの共通点がある」と、祝賀晩餐会からほろ酔い気分で戻ったばかりの中年の幹部が、強い湖南訛りで説明してくれた。明治維新の元勲、西郷隆盛は孫文時代から中国でも尊敬され、長沙は毛沢東の古里として有名だ。黄興や蔡鍔も含めて、湖南省は「中国革命のメッカ」なのだと強調した。話が弾んだので、戦前の第七高等学校には中国人留学生が累計で百五十人もいたそうだが、帰国後の消息を知るために、彼らの親族を探し出せないかと尋ねてみた。すると突然、その幹部がわめいた。「いるわけないよ! 戦前の留学生なんて、当時はものすごいエリートなんだぜ。革命時代にとっくに海外へ出て行き、だれも中国に残ってないさ」。酔った勢いか、中国語でつい本音を口走った彼に私は驚き呆れたが、日本に留学した中国人はエリートだったという言葉は強く印象に残った。
中国共産党を作った十三人の中にも、日本に留学した人が四人いる。彼らは日本で「社会主義」という新知識を貪欲に学び、母国の社会改革を夢見て、中国共産党を旗揚げしようと奮闘した中核メンバーだ。その意味で、当時の日本は中国共産党の「知」の源泉だったといえるだろう。だが今、そのことに触れる歴史書は少ない。未公開資料が多く、「謎」に満ちた事実が解明できないからだ。本書ではそうした「謎」にも迫ろうと試みた。
長沙の幹部が言った「だれも中国に残ってないさ」という説は正しくなかった。十三人の中で、東京帝国大学を卒業して「上海代表」になった李漢俊の孫が武漢にいるのを探し当て、家族の思い出を聞かせてもらった。お陰で本書の「主役」たちが身近な存在として感じられ、個性豊かに生き生きとして蘇った。
十三人の「代表」たちが第一回全国代表大会に参加した時の平均年齢は二十七・八歳。なんと若く、前途洋々たることか。彼らはその時、どこにいたのか。人生でほんの一瞬、上海で顔を合わせたことで、その後どんな運命に導かれたのか。日本への留学生を中心に、若い血潮をたぎらせて懸命に生きた十三人の青春群像を描いた。
(たん・ろみ ノンフィクション作家)
著者プロフィール
譚ろ美
タン・ロミ
東京生まれ。作家。慶應義塾大学文学部卒業。元慶應義塾大学訪問教授。革命運動に参加し日本へ亡命後、早稲田大学に留学した中国人の父と日本人の母の間に生まれる。『中国共産党を作った13人』『阿片の中国史』『戦争前夜—魯迅、蒋介石の愛した日本』など著書多数。
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