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現代仏教論

末木文美士/著

814円(税込)

発売日:2012/08/14

  • 新書
  • 電子書籍あり

眠れない死者の声に耳を傾ける。多死社会といかに対峙するか。その智慧は仏教にある。

震災、高齢化、自殺者増……、多死社会の到来を目前にして、この国はなすすべもなく立ち竦んでいる。これまで問題を封印してきたツケが一気に回ってきたのだ。我々はいかに死者と対峙すべきか――。その智慧は仏教にある。ブッダの時代以来、死者と関わり続けてきた仏教が現代に果たすべき役割は小さくない。震災と仏教、死者供養の原点、業と輪廻、仏教離れの本当の理由など、死者の問題を中心に現代仏教を問い直す。

目次
はじめに
第一章 震災から仏教を考える
1.震災を考える

2.震災をめぐる論争
経緯/発端/ネット論争/高橋哲哉氏に応える

3.震災をめぐる思索
I.震災からアジアの仏教を考える
震災に対する仏教者の対応/テーラワーダ仏教の場合/チベット仏教の場合/日本仏教の場合

II.日本人の災害観
被災地を離れたところから/東日本大震災の特殊性と自然観の類型/日本人の災害観

III.脱魔術化と再魔術化――日蓮の災害論をどう受け止めるか
脱魔術化の立場/再魔術化という視点

IV.震災から日本の仏教を考える
東日本大震災と日本の仏教/脱魔術化と再魔術化/日本仏教はなぜ総合的理論を失ったのか/世界観を再構築できるか
第二章 見えざるものへ――仏教から現代を問う
あてにならない「常識」/自前の思想を鍛える/表に躍り出た死者たち/死者たちとともに/東西の宗教都市/死者論としての仏教/死の記憶、生者の傲慢/脳死を考える/政治と宗教/お寺が生き残る道/知識は無力で嘘臭い/キリスト教は日本に定着したのか/「死ねば皆、仏様」の誤解/死者をいかに慰霊するか/死後をオープンに語る/桜にみる自然観の変遷/「他人の痛み」は分からない/「私」と「あなた」の死/神々への畏れ/お盆に漂う死者の気配/再評価される栄西/揺らぐ近代的親鸞像/近世仏教の「実力」/老いに直面したブッダ/国土と浄土/死刑問題を考える/今を悩み苦しむ人々のための哲学
第三章 死者から考える
死者を送る/死者と生者と/死の臨床/業と輪廻/輪廻をどう理解するか/成仏と廻向/ブッダの死から大乗仏教へ/浄土教と死の問題/法華経のブッダ/葬儀をめぐって
第四章 行動する仏教、思想する仏教
1.いま仏教は何をなすべきか
2.仏教と平和
3.靖国――死者たちと語り合う場として
4.仏教と社会参加
5.土着の場から変革を
6.臓器移植法案の成立をめぐって
7.仏教と仏教離れ
8.思想史から哲学へ
9.「私」とは何か、を考える
10.今に問う言葉――田辺元
11.現代思想としての仏教

我々が見ている世界は「真実」か/他者と死者をどう位置づけるか/「自立した個人」を疑う/伸び縮みする「私」

書誌情報

読み仮名 ゲンダイブッキョウロン
シリーズ名 新潮新書
発行形態 新書、電子書籍
判型 新潮新書
頁数 240ページ
ISBN 978-4-10-610482-4
C-CODE 0215
整理番号 482
ジャンル 宗教
定価 814円
電子書籍 価格 660円
電子書籍 配信開始日 2013/02/15

インタビュー/対談/エッセイ

波 2012年9月号より 「見えざるもの」とどう関わるか

末木文美士

『現代仏教論』の中核の一つは、二〇〇九―一一年「読売新聞」夕刊に連載した「見えざるものへ」というエッセーである。僕たちが日常的に接し、分かっていると思う世界の裏側に、見えもせず、理性で考えても分からないものたちの世界が広がっているのではないか。少し前から他者や死者の問題を考えてきていた僕にとって、「見えざるもの」とは、死者によって代表され、この世界の秩序の中に組み込まれないものたちのことだが、それは共感できる少数の人たちにとって切実であっても、多くの人たちにとっては関心を惹かない話題であった。
ところが、3・11以後、大きく状況が変わった。震災は多くの死者をうみ、死者との関わりが大きな問題になった。それだけでなく、放射能という「見えざるもの」の恐怖に直面した。平和な農村が、「見えざるもの」の暴力に侵され、人々は追い立てられる。否応なく、「見えざるもの」に目を凝らさざるを得なくなる。よく考えると、僕たちの世界は「見えざるもの」に満たされているのではないか。ヒッグス粒子の発見によって沸いた素粒子の世界もまた、痕跡しか見ることのできない「見えざるもの」の世界だ。それが異世界ではなく、この世界そのものの構造だとすれば、この世界はじつは「見えざるもの」の世界なのではないか。
原発はさらにまた、別の困難な問題を突きつける。今表立って問題にされているのは、地震や津波という自然災害に原発は安全か、ということだが、問題はそれに止まらない。使用済み燃料等の核廃棄物の処理という難問が突きつけられている。再処理により安全かつ有効に使えるという触れ込みは、実用化できず、頓挫した。直接処理するとすれば、その危険は十万年もの未来にまで及ぶという。その頃には、人類は滅亡してしまっているかもしれない。そんな先まで責任を持たなければいけないのか。一体未来のどこまで責任を持つ必要があるのか。
僕はこれまで、死者を考えることで、過去の「見えざるもの」との関わりを追究してきた。過去の死者たちは、たとえ無名化しても、確かに過去を生きた人たちであり、他者として生者に迫ってくる。だが、未来の「見えざるもの」たちは、どこまで具体的に僕たちとの関わりの中に入ってくるのだろうか。子や孫の世代ということならば、かなりの具体性をもって分かる。しかし、百年先となると、もう漠然としてくる。そのもっと先を一体どう考えたらよいのか。
こうした問題が本書で直接論じられているわけではない。本書が仕上がった後、考えている問題だ。しかし、本書で論じられた他者や死者、そして震災などの問題が、議論の基礎となるであろう。『現代仏教論』と言っても、現代仏教の外観をあげつらった論ではない。仏教を原点として、こうした人間の難問を考えていく試行錯誤の出発点である。

(すえき・ふみひこ 仏教学者、国際日本文化研究センター教授)

著者プロフィール

末木文美士

スエキ・フミヒコ

1949(昭和24)年、山梨県甲府市生れ。1973年東京大学文学部印度哲学科卒。1978年東京大学大学院博士課程修了。東京大学名誉教授、国際日本文化研究センター教授。専門は仏教学、日本宗教史。著書に『日本仏教史』『日本宗教史』『仏教vs.倫理』『鎌倉仏教展開論』『仏典をよむ』『他者・死者たちの近代』『現代仏教論』など。

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